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【安倍晋三の出自を暴く~記事逐次追加版】第四談

2015-09-19 19:17:05 | 安倍晋三の出自を暴く
 東郷 茂徳(旧字体:東茂、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。朝鮮人陶工の子孫。

 太平洋戦争の開戦時から終戦迄日本の一大事の時に此の男を開戦前の戦争回避の重責を担わせ、案の定見事に失敗し勝ち目の無い戦争へと突入させて仕舞った大日本帝国の政治屋達は日本民族壊滅を狙った朝鮮族が殆どだったのか?

 東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の子孫である。陶工達が集められた「苗代川」(現在の日置市東市来町美山)と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。薩摩藩は苗代川衆を保護、優遇し藩内の身分は士分とした。父・朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。尚元帥海軍大将の東郷平八郎とは血縁関係は無い。

 東郷の故郷の苗代川は、上述の歴史的経緯をもった陶工人の村で、殆どが朝鮮姓で朝鮮民族として暮らしていた。彼等は気位が高く、薩摩藩では士族と同等の扱いを受けていたと。処が、明治5年の壬申戸籍作成の際に、彼らは平民身分とされてしまいました。此れに対して「士族編入之願」を繰り返し願い出ましたが、総て却下されました。何とか士族に成ろうと、没落士族から「士族株」を購入して戸籍を変え、「士族」身分と記載されるようになった。西南戦争後の鹿児島は貧窮士族が多く、士族株の売買が可能だった。「朴」家は明治19年に「東郷」家と名前を変えたが、民族差別の為では無く、江戸時代から続く身分差別に起因するものであったというだ。


 さて置いて、橋本龍太郎は以前Wikiに明治天皇の姪の祖父母ありと書いてあったが、今は削除されている。恐らく、何らかの指摘があって慌てて削除したものと観られる。
 明治天皇の姪というからには、孝明天皇の子供の孫でなくては行け無い筈です。処が孝明天皇の子供は明治天皇以外は総て婚期以前の年齢で夭逝している。また父方母方の祖母にもそのような人は居無い。

 「明治天皇摺り替え説(明治天皇は実は孝明天皇の皇子ではなく長州が隠し玉としていた南朝系皇統の出身だったという話)から派生した与太話ですね。最近では、結構真に受けている人も居る様で、其れがウィキにも反映しているんでしょう。」と言う者も居るが、其れがが与太話で片付けられ無い問題なのである。

 Wikiの記述は真相を隠す為に「慌てて」削除されたものと観られる。実は、龍太郎の父橋本龍伍の戸籍には母は大室米とあるのだ。

 橋本龍太郎は、韓国の要人と外交折衝の折に片腕の袖を捲って、もう一方の腕で相手の腕を握る朝鮮式の格上に謙る握手の挨拶を会談を開催する度に行っており、何れ朝鮮を日本の格上とする朝鮮人の血が流れたものと我は視ていた。

 尚、小鼠ちょん一郎の父純也の朝鮮人説があり、純也は鮫島家を出自とするが、純也の出生地は、 鹿児島県川辺郡東加世田村小湊字小松原であり、鮫島家は島津藩の家臣団の一翼を成していた名家であり、純也が加世田の鮫島家を名乗るなら、少なくとも、三代位辿った自分の家の系譜を知らせている筈である。

        鮫島家住宅

 加世田麓にある典型的な武家屋敷です。重厚な門構えをしています。主屋・内蔵・蔵・井戸・門・坪庭門・石塀が国の登録文化財に指定されていますが、民家のため、外側からしか見ることが出来ません。(文責・写真撮影:岩松 暉)


続く。

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