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【サンフランシスコ平和条約で日本国が放棄したクリル諸島と北方四島】①

2016-12-16 14:33:13 | 日本国のあり方

以下出典:

千島列島と全千島列島

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36島嶼研究ジャーナル 第5 巻1 号(2015 年11 月)
37 千島列島と全千島列島(クリル諸島)の中には、日ソ共同宣言により平和条約締結後わが国に引き渡されることとなっている歯舞群島、色丹島とともに、等しくわが国固有の領土である国後、択捉の両島が含まれていないことは権威ある歴史的、法的文献により明らかである。…

 また、「第二次世界大戦の戦後処理にあたって連合国が依拠した基本原則の一つは、大西洋憲章及びカイロ宣言に置いて宣明された領土不拡大の原則であり、これはソ連も当事国となっているポツダム宣言に引き継がれ、更にサンフランシスコ平和条約の基礎となった。右原則に鑑みても、わが国が、古来曾て外国の領土となったことのない我が国固有の領土をサンフランシスコ平和条約によって失うべき理由はない。」と反論したのであった4

 当時の日本とソ連の領有権主張の根本的な相違は、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島の中に歯舞諸島、色丹島はもとより、国後、択捉両島が含まれているかどうかという点にあった。これらの問題は、前述したように、第2 次世界大戦前後に作成された国際的文書の解釈の問題であるが、これらの文書に直接かかわっていたスターリンは、千島列島の地理的範囲を示す場合、「千島列島」と「全千島列島」の表現を用いている。この小論は、日本とソ連がともに領有主張の根拠としている国際的文書を再吟味することにより、北方領土問題の背景を忖度して、スターリンの考えていたと思われる千島列島の地理的範囲について検討するものである。

1 北方四島の地理的範囲

 北方四島問題を理解する上で基本的に必要なことは、北方領土の地理的範囲と、それが国際的文書に使用されていた経緯を知っておくことであろう。とりわけ定義が付されていない文言の解釈をめぐって争われている場合には、その文言がこれまでにどのような意味内容で使用されていたか、またどのように解釈すれば最も妥当であるかを知る上で重要となるからである。

4 「領土問題に関するソ連邦外務省口頭声明に対する日本国政府の反論(1978 年3 月20 日)」、『われらの北方領土』前掲書、55 ~ 56 頁。

 いわゆる広義の北方領土は、北緯50 度以南の樺太とその附属諸島、千島列島5、歯舞諸島および色丹島を指す。南樺太は樺太島の一部であるが、この樺太島は、1885 年の日魯通好条約6で「日本国と魯西亜国の間において界を分たす是迄仕来の通たるへし」として日本と露西亜との間の国境を定めず、日本人と露西亜人の混住の地のままにしておかれた。しかし樺太島で日本人と露西亜人との間に紛争が断えなかったことも一部原因として、日本と露西亜は、1875 年に樺太千島交換条約7を締結し、ウルップ島以北の千島列島全島を日本領とする代わりに、樺太全島を露西亜領と規定した。その後、日露戦争の講和条約である1905 年のポーツマス条約8は、北緯50 度以南の樺太島を日本領としたが、この日本領となった領域を南樺太といい、後述する1951 年のサンフランシスコ条約9で日本が放棄した「樺太の一部」がこれにあたる。

5 単なる地理的名称として使用される場合もあることに注意。
6 正式名称は「日本国魯西亜国通好条約」で下田条約とも呼ばれ、1855 年2 月7 日に下田で調印され、翌年12 月7 日に交換された。
7 1875 年5 月7 日にセント・ピータースブルグにおいて署名され、同年8 月22 日に東京で批准書が交換された。
8 1904 年から1905 年にかけての日露戦争の講和条約で、1905 年9 月5 日にポーツマスで署名され、同年11 月25 日にワシントンで批准書が交換された。
9 1941 年から1945 年にかけての第2 次世界大戦の講和条約で、1951 年9 月8 日に署名され翌年4 月28 日に発効した。

(出典:

38島嶼研究ジャーナル 第5 巻1 号(2015 年11 月)
39千島列島と全千島列島

 日魯通航条約は、初めて日本と露西亜との間の国境を定めた通商航海条約で、千島列島は、「『ウルップ』全島夫より北方『クリル』諸島」が露西亜領となり、択捉島以南は日本に帰属することにした。その後、樺太千島交換条約で、樺太全島が露西亜領となり、露西亜皇帝の「現今所領『クリル』群島」の18島が日本領とされた。以後、対日平和条約で日本が千島列島を放棄するまで、国後島と択捉島を含めた全千島列島は、日本が平和的に領有権原を取得し、かつ領有し続けた日本の領域であった。ここで留意すべきこは、千島列島のウルップ島以北の18島はかつて一度だけ露西亜領だったことがあり、国後、択捉両島10は一度も外国領となったことがなく、日本の領土であり続けたということである。この事実は、日本がサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には国後島と択捉島は含まれていないと主張する根拠の一つにもなっている。

 歯舞群島と色丹島は、海底地質学上、北海道の一部をなす日本の領域であるが、第2 次世界大戦終了後、南樺太や全千島列島同様、ソ連によって占拠されたまま現在に到っている。1956 年の日ソ共同宣言11の第9 項で、歯舞諸島と色丹島は、日ソ平和条約が締結された後に日本に「現実に引き渡されるもの」とされたが、ソ連は、日本が1960 年にアメリカと安全保障条約を締結したことから、在日外国軍隊が日本から撤退しない限り、これらを引き渡さないと日本に通告してきた。

2 カイロ宣言とヤルタ協定

(1)カイロ宣言

 第2 次世界大戦は、日本やドイツ等の枢軸国12と米英等の連合国13間の全面戦争で、ドイツは1941 年6 月23 日にソ連と戦争を開始し、日本は、12 月8 日に連合国に対して宣戦を布告した。しかし日本は、ソ連10色丹島と歯舞群島は北海道の一部で、千島列島の一部ではないことに注意。

11 正式には「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」といい、1956 年10月19 日にモスクワで署名された。
12 主要枢軸国は日本、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、タイ等の諸国であった。
13 主要連合国は、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド等の諸国であった。

に対しては不可侵条約14 関係にあったため宣戦布告をせず、ソ連とは依然として平時関係にあった。

 戦争開始後約2年が経過し、アメリカが反撃を開始し戦局が変化し始めた1943 年11 月21 日、エジプトのカイロで3か国共同宣言が出された。このカイロ宣言は、アメリカ、イギリス、中国15の首脳が対日軍事行動と戦後処理の目的を宣言していた。すなわち、米英中の3国は「領土拡張の何等の念をも有するものに非ず」とする領土不拡大の原則を述べ、暴力や貪欲によって日本が略取した他の一切の地域から日本を駆逐すべしという三大同盟国の決意を表明したものだった。

 カイロ宣言で表明した領土不拡大の原則は、第2 次世界大戦の開始直後1941 年8 月14 日、大西洋上で米国大統領ルーズベルトと英国首相チャーチルが会談して調印した大西洋憲章で高らかに謳った、領土不拡大の原則を再確認したものである。同大西洋憲章は、第1 項で「両国ハ領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス」、第2項で「両国ハ関係国民ノ自由ニ表明セル希望ト一致セサル領土的変更ノ行ハルルコトヲ欲セス」と規定していた。

 アメリカ、イギリス、中国の3か国は、カイロ宣言の当事国であり、領土不拡大の原則に拘束されることになる。ソ連は、カイロ宣言の当事国ではないので、同宣言には直接拘束されないが、後述するポツダム宣言の第8 項に「『カイロ宣言』ノ条項ハ履行サレルヘク」と規定しているため、ポツダム宣言の当事国となったソ連は、カイロ宣言にも拘束されることになる。換言すると、ソ連は、戦後処理に関する限り、自国領土を拡大する意思がない旨を表明していたのである。

(2)ヤルタ協定

 ドイツの敗北が決定的になった1945 年の2 月11 日、チャーチル、ルーズベルト、スターリンは、クリミヤ半島のヤルタで会談し、ドイツ降伏

14 正式には「大日本帝国及『ソヴィエト』社会主義共和国連邦間中立条約」で、1941 年4月13 日に日本とソ連との間で締結された中立条約。通称「日ソ中立条約」とも言う。有効期間は5 年であり、その満了1 年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、自動的に5 年間延長される(第3 条)としていたが、ソ連は、ヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決めた後の1945 年4 月5 日に廃棄する旨を通告し、同条約の有効期限内の1945年8 月9 日未明に国境を越えて満州や中国東北部へ侵攻した。
15 中華民国のことで、当時、中華人民共和国は存在していなかった。

続 く


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