魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【日韓併合の真実を正しく伝える。】⑪

2016-03-26 02:11:39 | 歴史
 「翌二十日新帝の朝見式あり。この日物情騒然、暴動処々に起こり、韓国軍隊中にも不穏の状あり。首相季完用の邸宅先ず焼き討ちに遭い、挙式中王宮より窓外を望めば、火煙のもうもうとして上がるを見る。」

 伊藤の暴動への鎮圧と防御の対拠は抜かりなく行われた。暴動を起こしたことは却って韓国側を不利にした。

 伊藤は空かさず、会議を開き抜け目無く新協約案を提示して、一元一句訂正させず、即決させた。

 其れは総監の力を揺ぎ無く強くするものであったのだ。第二次協約が外交権を問題にしたものであったのに対し、第三次協約は内政上での監督権をも強めるものであったのだ。内容は直ぐに次に書く。

 第三次協約「第一条 姿勢改善に関する指導」、「第二条 法令の制定の承認」、「第四条 高等官吏の任免」等日本側が厳しく内政を取仕切るものであった。

 その一週間後新韓王から韓国軍の解散の勅命が出た。予め武器弾薬が押さえられていた韓国軍は如何なる抵抗も無く凡そあっさり解散に応じざるを得なかった。しかし、ほんの一部の軍隊は反抗して立て篭もるものも出た。さて例のマッケンジーはこの時もいて、英語で喋り幕たったのである。

After the soldiers had broken open a munitions depot and they obtained Arms and ammunitions, they had been lurking under the windows of the inside of the barracks. they had always showered gunfire eyeing those persons when they had found out Japanese persons.
That information was immediately transmitted to the authorities. Japanese army surrounded instantly the barracks when they had rushed to the scene. One team of Japanese troops attacked villains by machine guns from in the front of the barracks, and another one team besieged at behind the enemy. Although the battle began from half past eight in the morning, Korean side had been the situation that hold out until noon. However, they was defeated finally by the attack from the back. Their bravery was praised also from the Japanese attack Corps.

 此れが前の英文の日本語訳である。「兵士たちは、弾薬庫を抉じ開け、武器弾薬を手に入れ、兵舎の窓の後ろに隠れ、日本人と見れば銃火を浴びせた。その時、その情報が当局に伝えられました。日本軍は急行して来て、兵舎を包囲した。その一隊は正面から機関銃によって攻撃し、他の一隊はその背後を包囲した。戦闘は朝の八時半からはじまり、朝鮮側は正午まで持ち堪えたのだが、遂に背面からの攻撃によって敗れた。彼等の勇敢さは日本の攻撃隊からも賞賛された。」

 我が見ている資料には、“日本の横暴?”に抵抗する朝鮮人の「義兵」についてのマッケンジーの記述を載せています。彼の書には、彼が実際義兵に会ったときのやり取りも書かれています。

 義兵達は山間部に偏って出没し、日本人を攻撃し殺し捲くったと言うのです。軍隊の解体が此ゲリラ活動を全国あちこちに頻発させたのだといわれています。マッケンジーは義兵達に好意的な記述をしており、日本の施政を強引で乱暴だったとの前提で書いているのです。『半島人の尊厳を日本が傷つけたことは確かであろうが、その一点だけを以って、日本を極悪非道だとするのは、西洋各国に大きく遅れを摂っていた東亜細亜諸国が弱みを見せれば毛唐列強に直ぐにも蹂躙されかねかった当時の国際社会の力関係を余りに無視した偏った見方をしたもんだ』とは思え無いだろうか?

 手前味噌に聞こえようが、毛唐列強から東亜細亜を守る力が一番あったのは我が日本であったことは枉げることの出来無い歴史の事実なのである。さて次にマッケンジーが綴ったところを書いてみよう。

 我等マッケンジーが撮った義兵を写した写真を見たが、十数名の義兵の面立ちち総ては、今の朝鮮族と比べても全く酷いものではあったものだと感じるほどに不味い面構えをしていたのだ。

 さてマッケンジーの記述をなぞって纏めて綴って見るが、マッケンジーの記述は大きく矛盾があり、我には此の記述に嘘出鱈目の感を持つ。彼は先ほども述べたが、「義兵達は山間部に偏って出没し、云々」と書いているが、義兵達は山間部に偏って出没し何をしようとしていたものなのか?半島の山間部に日本人など住んで如何暮らしを立てていたものなのか?彼等の獲物の対象は日本人ではなかったのか?彼は、「これらゲリラを匿ったり支えてたりしていた農民達の村が日本軍に焼き討ちに遭い、数百人もの村人が焼け出されて途方にくれている」とも記述しており、或いは、彼がゲリラに会う為通った道すがら、「一つの町と数十の村が同じ眼に遭っていた」等とも書いているが、このように惨たらしいことをいくらゲリラ掃討の為とは言え、国際社会に反撥されることにあれだけ敏感に反応して、万が一にも日本の統治の在り様に非難が出ない様にことを進めなければならない筈の日本の軍隊が、より、現地の民衆に反撥を買い、自ら窮地に追い込むことをしたとは、到底考えられぬことである。

 マッケンジーが日本に何らかの悪意を持つ理由が在ったのか、それとも事実が紛ったものなのか?

 半島には昔から、頻繁に盗賊や山賊の輩が出没した。韓国軍が解体後、それに属していた大勢の兵達は、如何に生きる糧を求められたか?食をなくした兵達は食い扶持を何れ求めなければならなかったろう。我が見た写真からのあのゲリラ達の印象は、如何見ても義兵などのものでは無く、昔より半島に出没する盗賊山賊そのものの出で立ちと面構えそのものの、ものである。

 あの写真には決定的に、義兵ではないとの証拠があった。ゲリラの指揮官と思われるものが着ていた軍服は、当時の日本陸軍の防寒服であったのだ。マッケンジーは何故此れに気が付かなかったのか?それとも、やはり、悪意があったのか?

 真実は、次のようなものだったのだ。

 軍隊を追われたゲリラ達は村人達の前では義勇軍を装って、殊更日本軍の残虐さを吹き込んで、民衆が日本軍に憎しみを持つように嘘をつき、その上で村人達に顔の割れてい無いゲリラの別働隊が、日本の軍服を着た大将を先頭にして、村や町を襲ったのだ。そうしなければ、軍を追われた兵達は餓死するしかなかったのだ。此の史実も、朝鮮人は枉げて伝承して来たのだ。

 さて、義勇軍の正体はこのように韓国軍を解体されて、軍職を終われた軍人や兵隊達が野盗や山賊に身を貶したものだと分かったのだが、あまつさえ食うや食わずの朝鮮人が、いきなり食を失くしては、食う為に強盗火付けを繰り返すことになったのは、日本民族としては言うことを憚れるが、伊藤統監の失策の窮りだったと云わざるを得ない。

 伊藤博文に無論悪意など無かったことは当然のこと乍、前王に振り回されて此ればかりに感けて頭を悩まし気をとられ、つい統治の基本を忘れた侭で、韓国軍の解体を手当てもせずに敢行してしまったのだ。急に職を失した韓国軍の将兵は、野盗や山賊に身を貶す以外、生きる道が無くなった。

 しかも、韓国が日本に統治されたとの恨みと相俟って、彼等の日本の統治に対する憎しみは尋常なものではなかったのだ。

 此れが、半島の彼方此方を荒し回った義兵の真相だった。

 彼等の内心は、マッケンジーが自身の著書で彼等の心境を述べいた「奴隷になって生きるより自由な人間として生きる方がずっと良いではないか」と言うのは間違いで、彼等の本音はもっと差し迫ったものだったのだ。

 明治四十年、日本は暴徒や盗賊退治のため、二万の兵を動員し、半島全土の約半分の地域で、暴徒や盗賊達との小競り合いを繰り返す羽目になったのだ。元々王宮の威光が届かない地域では、元々野党や山賊の出没があったとは言え、矢張り、此の時期のものは、その頻度において全く別なものではあったのだ。

 明日はいよいよ韓国合併の史実に入る。今日は此れまで。

 続 く



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