眼光鋭く体躯堅牢長身にして容貌怪異、性格慎重にして大胆、残忍冷静にして心温かい、此れが明の宗祖朱元璋から受ける我の印象である。出自も確かでなく、幼い頃より食い扶持減らしの為に寺に預けられたと言う。寺から出て様々な辛苦の末に、紅巾軍に入り、兵としての経歴を経て後、ある部隊の頭領の娘と結ばれ、その良妻の援けもあって、明の太祖となる。元の圧政に苦しむ民衆を味方に付け皇帝までのし上がったのだが、実際に政治を取り仕切る身になると、治世はそんなに容易なものではなく、功臣と呼ばれる者も一度睨まれると次々と粛清され、その数三万にも及ぶと言う残忍さであった。然し一方、先に亡くなった妻を一生涯悼む純情で心優しき面もあったからこそ、天寿をまっとう出来たものである。
朱元璋はその粛清の凄まじさ故に、悪鬼のごときに伝わるが、乞食坊主と言われた者が、民衆を味方に付けて此処までのし上った此の男が、民衆に善政を為さんとすれば、治世は一筋縄では行かないものである。
日本の朝鮮半島統治の話の中で、朱元璋の話を持ち出したのは、異民族の統治に拘らず、治世の難しさの史実を持ち出すことで、当時の伊藤の苦悩に同情せんとした為だ。
さて、またぞろ史実の綴りを続けよう。此れより先の暫くは、ハーグ事件が何故起きたかと言う事に重点を置いて綴って行くのだが、歴史書を書いた著者の立場から来る思いの匙加減次第で、この事件への経緯に対する解釈が全く真逆のものなっているのだ。
保護条約の締結に対する反感が、上は皇帝から下は卑賤の者に至るまで半島全土に広がったと書く歴史書は、間違っている。
上層の者が「不治の病のカッタイ」に罹ったことを喜び嘲り笑いその仕草を真似る「病身舞」は、最も卑賤な身分とされた白丁などが踊ったものだが、忌まわしい身分制度の解体とともに此踊りは日本の統治下で禁止された。然し今や朝鮮人ばかりになった日本国有放送は、此間、特番を組んで「朝鮮の素晴らしい文化遺産だ」として此踊りを賛美しつつ放映して、異常ぶりを露にしていた。
事ほど左様に虐げられ、まるで禽獣のように扱われ、税を執るのも汚らわしく、公道を歩くことすら控えさせられた白丁に代表されるとして区別された階層の者たちと、両班及中人等の支配階層ととの間に置かれた階層の常人は李氏朝鮮の過酷な階級制度に苦しめられていたのだ。この者達にとって李氏朝鮮の臣民であることに如何程の価値が見出せたものか?
当時朝鮮で日本に反抗して激烈な行動に走った輩は、身分制度を解体された中人以上の階層である。
こ奴等の一員である韓国兵士に朴外務大臣は危うく弾丸を打ち込まれることになった。朴は林公使に会うや此ことを知らせ短刀を取り出し命を断とうとした。
『伊藤文伝』は、これ等の事情を次のように記している。
「頑迷にして真理に通ぜざる“儒生”や“両班”中には、【保護制度の本義】を誤解し、日本排斥の運動を起こす者あり。遂に各地に騒擾の続発を見るに至り、我が駐屯軍は屡兵を出してその討伐に力めたるも、容易に沈静に帰さなかった。」
右の文を見れば、我が先ほど帰したとおり、暴挙を起こしていた者達が、中人以上の階層の者達ばかりだと言うことが忽ち理解出来よう。伊藤は韓国人には悪玉であるが、決して事実を枉げて云うような人柄ではなかったのだ。伊藤はこの時娘婿に宛てた手紙の中で、これ等の暴動が、王宮内からの指図によるものだと、書いているが、なかなか敵も尻尾を出さないのは、流石だと妙な関心振りを示していた。
ところが、遂に韓王供が尻尾を現す時が来た。
明治四十年和蘭のハーグで第二回世界万国平和会議が開かれた。韓王は、毛唐列強は韓国に対する日本の保護政策を表面上は容認しているが、彼等の本心は此れを苦々しく思っているものだと勝手に解釈し、日本を貶めんと、韓王の信任状を手渡した密使をハーグに送り、日本を韓国から排除せんと毛唐列強に訴えたのだ。
此れに対し伊藤は得たりと、素早く動いた。直ぐに王宮に向うと、韓王を呼び出して、厳しく詰問した。韓王は例のごとく知らぬ存ぜぬの一点張りで、惚け切ろうと思ったが、伊藤が怒気を表し責め立てた。
「今日のこと最早虚言を弄して逃げ切れるものでない。ハーグにおいて陛下の派遣員は委任状を所持することを公言し、且つ、新聞により、日本の韓国に対する行動を糾弾している。彼が陛下によって派遣せられたことは世界中の熟知することである。」
伊藤は更に総理大臣季完用を呼んで云う。
「日本は韓国に対し、直ちに戦を宣するよう充分な理由を有している。貴下宜しく首相たる責任を以って韓王に奏聞し、処決を促すべきである。」
明治四十年七月十九日の御前会議で、皇帝は譲位やむなしとし退位させられた。
此れを訊いて、その日の譲位を不服とし、夜になると数、数千名が王宮の前に座り込んだ。この示威行為は翌日も続いた。
この日の様子は次回載せる『伊藤博文伝』に書かれている。
続 く
朱元璋はその粛清の凄まじさ故に、悪鬼のごときに伝わるが、乞食坊主と言われた者が、民衆を味方に付けて此処までのし上った此の男が、民衆に善政を為さんとすれば、治世は一筋縄では行かないものである。
日本の朝鮮半島統治の話の中で、朱元璋の話を持ち出したのは、異民族の統治に拘らず、治世の難しさの史実を持ち出すことで、当時の伊藤の苦悩に同情せんとした為だ。
さて、またぞろ史実の綴りを続けよう。此れより先の暫くは、ハーグ事件が何故起きたかと言う事に重点を置いて綴って行くのだが、歴史書を書いた著者の立場から来る思いの匙加減次第で、この事件への経緯に対する解釈が全く真逆のものなっているのだ。
保護条約の締結に対する反感が、上は皇帝から下は卑賤の者に至るまで半島全土に広がったと書く歴史書は、間違っている。
上層の者が「不治の病のカッタイ」に罹ったことを喜び嘲り笑いその仕草を真似る「病身舞」は、最も卑賤な身分とされた白丁などが踊ったものだが、忌まわしい身分制度の解体とともに此踊りは日本の統治下で禁止された。然し今や朝鮮人ばかりになった日本国有放送は、此間、特番を組んで「朝鮮の素晴らしい文化遺産だ」として此踊りを賛美しつつ放映して、異常ぶりを露にしていた。
事ほど左様に虐げられ、まるで禽獣のように扱われ、税を執るのも汚らわしく、公道を歩くことすら控えさせられた白丁に代表されるとして区別された階層の者たちと、両班及中人等の支配階層ととの間に置かれた階層の常人は李氏朝鮮の過酷な階級制度に苦しめられていたのだ。この者達にとって李氏朝鮮の臣民であることに如何程の価値が見出せたものか?
当時朝鮮で日本に反抗して激烈な行動に走った輩は、身分制度を解体された中人以上の階層である。
こ奴等の一員である韓国兵士に朴外務大臣は危うく弾丸を打ち込まれることになった。朴は林公使に会うや此ことを知らせ短刀を取り出し命を断とうとした。
『伊藤文伝』は、これ等の事情を次のように記している。
「頑迷にして真理に通ぜざる“儒生”や“両班”中には、【保護制度の本義】を誤解し、日本排斥の運動を起こす者あり。遂に各地に騒擾の続発を見るに至り、我が駐屯軍は屡兵を出してその討伐に力めたるも、容易に沈静に帰さなかった。」
右の文を見れば、我が先ほど帰したとおり、暴挙を起こしていた者達が、中人以上の階層の者達ばかりだと言うことが忽ち理解出来よう。伊藤は韓国人には悪玉であるが、決して事実を枉げて云うような人柄ではなかったのだ。伊藤はこの時娘婿に宛てた手紙の中で、これ等の暴動が、王宮内からの指図によるものだと、書いているが、なかなか敵も尻尾を出さないのは、流石だと妙な関心振りを示していた。
ところが、遂に韓王供が尻尾を現す時が来た。
明治四十年和蘭のハーグで第二回世界万国平和会議が開かれた。韓王は、毛唐列強は韓国に対する日本の保護政策を表面上は容認しているが、彼等の本心は此れを苦々しく思っているものだと勝手に解釈し、日本を貶めんと、韓王の信任状を手渡した密使をハーグに送り、日本を韓国から排除せんと毛唐列強に訴えたのだ。
此れに対し伊藤は得たりと、素早く動いた。直ぐに王宮に向うと、韓王を呼び出して、厳しく詰問した。韓王は例のごとく知らぬ存ぜぬの一点張りで、惚け切ろうと思ったが、伊藤が怒気を表し責め立てた。
「今日のこと最早虚言を弄して逃げ切れるものでない。ハーグにおいて陛下の派遣員は委任状を所持することを公言し、且つ、新聞により、日本の韓国に対する行動を糾弾している。彼が陛下によって派遣せられたことは世界中の熟知することである。」
伊藤は更に総理大臣季完用を呼んで云う。
「日本は韓国に対し、直ちに戦を宣するよう充分な理由を有している。貴下宜しく首相たる責任を以って韓王に奏聞し、処決を促すべきである。」
明治四十年七月十九日の御前会議で、皇帝は譲位やむなしとし退位させられた。
此れを訊いて、その日の譲位を不服とし、夜になると数、数千名が王宮の前に座り込んだ。この示威行為は翌日も続いた。
この日の様子は次回載せる『伊藤博文伝』に書かれている。
続 く
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