魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

魂魄の宰相 第四巻 五(その1)

2007-12-19 22:00:05 | 魂魄の宰相の連載

五、立法を進める

 王安石は風習が新法施行後も長い間変わることが無かったので、先ずは風習を変えなければなら無いと明確に公言し、風習が変わることが無ければ新学も広めることが出来無いので、制度や法令の推進を通じてのみ漸く社会の習慣を変えることが出来ると考えていたのだ。 詰り、法律と風習とが互いに矛盾するものであったので、風習を変えるような立法を目論んだが、逆に、風習を変えなければ立法も出来ず、両方を同時に前進させることで漸く問題を解決することが出来るのであり、彼は実践の中でも最も尽力を尽したのはこのことであった。 

 立法を進める面で、彼は大っぴらに法家の概念の長所を採り入れ、然も儒家の中にも法治の伝統を重視する傾向があったことも彼の立法に影響を与えたのだ。 人治と法治は今日に措いても論争に上がる問題だ。 儒家は法治に反対し、人治を尊重していたと思われ勝ちだが、実はこれが総てであったとは考えられて無いのだ。 事実として初期の儒家は法治を尊重して単に人治だけを重んじた訳では無かったのだ。 子路が地方官に在った時に、修渠の民衆が非常に苦しんでいるのを観て、自分のお金で軍隊を造り、人民に歓迎されたが、孔子がその事を耳にすると、早速子路の軍隊が人民に歓迎さているのを戒める様に弟子を派遣したのだが、子路は理解出来ずにいた為、孔子はこのようなことは個人の恩の押し売りとなり、民にとっての恵みにはならず合法的でも無いとし、若し、庶民の困苦を感じたならば、君主に伺いを立てるべきで、公金で救済しなければ個人が人への恵みで恩を売ることになって仕舞い、一方では君主の懐疑を受け易く自分に災いを齎し兼ねず、一方では亦長期に且つ遍く施行することが出来ることは難しく、災難は絶え間無く起きるものなので庶民とっては束の間の利益で終って仕舞うのだと彼に諭した。 

 『救済は寄付で無く税ですべきである』

 この逸話は、この時代にあって既に孔子が個人の行為で公共の機能に取って代わることに反対することを明確に表現したもので、このことは、孔子の酷薄の証明とはなら無い。 山東の国に或法令が在り、本国人が外国に奴隷として売られるのを国費から出資して請け出すものがあったが、然し、統治者が下層部の人民の生死を余り気に止め無かったので、この法令は決して真摯に実行されることは無かったのだ。 子貢は衞国の人だが、彼は非常に先生を尊重していたので、子に関係のある総てを愛して、外国に奴隷として売られる山東の国民を非常に同情して、自分で出資して多くの魯国人を救い出した。 孔子は無論弟子の善意を分ってはいたのだが、彼はこのようにすることに明確に反対し、若し、このようなことを認めて仕舞うなら、この法令が完全に廃止されて仕舞い兼ね無く、それでは魯国の政府自身がこれから先お金を出して人を買い戻すことを放棄して、外国に奴隷として連れて行かれる山東の国民の運命の為には更に悲惨な結果を齎し、善意も仇に為って仕舞うことがあるのだと子貢に諭したのだ。 

 孔子は政治に従事する期間は長くは無かったが、間違い無く政治家であり、法令の制度が個人の行為に比べて重要な存在であることが分っていて、個人の一時の善行は狭い意味では良いことと為るが、然し其の為に法制を破壊して仕舞ったならば、最悪の状態を作り出す結果となら無いとは言えず、大きく観れば悪事とも見なされ兼ねず、そこで国治は必ず法治で為されなければ為らず、人治は必ず法治に従って、必ず法治で利がなければならない。 

 孔子はこのような人物で、孟子も同様であった。 子産は鄭国を批評して、自分の乗る輿(船)を使って斎人が「茲水を渡るのに役立たせたが、これは元来私心の無い善い一事と見なされるが、孟子はこれに批判をして、これは「恵みは政治の知らぬところである」という考えに立って、子産は確かに好人物であることを認めた上で、人民に対して恩恵があったとしても、政府の機能に取って代わって個人の行為を行って仕舞ったのであり、政治家でも無い者が行う行為では無いということは明確であり、一つは多くの者が私恩を嫌がり、二つ目は其の恩恵は一時しか受けることが出来無いからである。 子産が公金で人民を助けようと「茲水上に何本かの橋を架けることが出来るのならば、人を波風の被害から遠ざけ、自分の船で人を渡らせることに遥かに勝るものに成るではないのか?」ということである。

 王安石は孔孟の法治を重視する思想を採り入れて、国を治めるには必ず善法を立てなければ為らぬとし、先ず行政法を造らなければならないという理念を、《周公》中の一文で著した。 彼は真っ先に荀子が記載したところの周公に関する一節に対して批判を行っており、荀子は「周公が賢者(学者)を礼遇すると語って、周公が付き合うのは一等の大賢は十人、二等の賢士は三十人、三等は百人、四等は千人と自ら述べた」としたが、王安石はこれが荀子の誤解だと考え、「本当は周公が私人である士と付き合うことは無かったのだ」とした。 彼は指摘した: 「男子は天下で政治をするが為に聖人と為り、初め天下で為すすべが無くとも、最終的には法で誠実に修めることが出来、天下を治めることが出来る様に為るのだ。 だから三世代の制を守り、郷党で学校に行き、順序正しく学び、国に学び舎を縦建て、士と雖未だ用いられることが無い者に其道を尽くして士の心構えを教えて賢士を育成し、尊敬に値する人物と為るようにするのだ。 これ即ち周公が待ち焦がれる士への道である」と記した。 聖人は政治に対し、為るが侭に任せ何もせずに放任しては為ら無いのであり、これが為に立法で修めて初めて、天下は成り立つのであって、故に譬え優れた者であっても労無くして何事も成らず、何事も為すことが出来無いならば統治も侭なら無いのだ。


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