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天道の真髄は如何に?

【安倍晋三の出自を暴く~記事逐次追加版再掲載】第十五談(岸、佐藤両家の不思議?)

2015-09-28 16:48:42 | 安倍晋三の出自を暴く

 岸家と佐藤家は「代々養子の遣り取り」をしたり、選挙戦となると、佐藤陣営は「岸信介は悪代官の子孫だ!」と、喚きたて、栄作の長男龍太郎も最初のうちは、「そうだ、そうだ」、と同調していたが、次第に照れ臭く成って言わ無く成った。…考えてみると信介が岸家に養子に行ったのは事実だが其れ以前に信介栄作の父佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来た男であったのだ。

 岸家の系譜は、天文24年(1555年)毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。周防長門を手中におさめた毛利は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てたが、此のガンが曲者で「悪代官で、年貢は厳しく取り立てるし、女を囲う、金を貯める。此のガンの子孫こそ、他ならぬ“岸(がん)”ではないか?」との土地に古くから言い伝えられていた“ガン”の故事である。☚帰化人“ガン”を「“岸(がん)”ではないか?」と疑問符をつけている以上、岸家が帰化人で代官であったということも、作り話か?

 尚、前談で龍太郎と井上馨とが微かに関係があることを述べているが、安倍晋三の弟の岸信夫の養父岸信和の曽祖母の兄弟が井上馨である。

 一方、佐藤家の遠祖は源義経の家臣・佐藤忠信だという口伝がある。「佐藤家の祖は、凡そ三百年遡ることが出来る。其れ以前は、源義経の家臣・佐藤忠信に発する、という口伝があるが、何れも証拠が在る訳では無い。


 山口県史学会の調査によると、「確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、寛文2年(1662年)頃から萩藩の藩士となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級武士で、この待遇はその後もあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。」幕藩体制における扶持米が六石とは足軽身分で、平素は農民として暮らして居たことであろう。

 佐藤家7代目まで大内町御堀(現山口市南部)の周辺に住んで居て、嘉津馬夭折の後、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の三男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝で、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。

 10代目の曽祖父・寛作信寛は長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家・吉田松陰に『兵要録』を授けた。明治になり、島根県令、浜田県権知事等の要職に就いた。吉本重義著『岸信介傳』p.21に「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父の九右衛門は坪井家に養われて長井雅楽の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曾祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた。」とある。

 11代目の祖父・信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。信彦の妻・みねは徳山藩士国広治左衛門の娘である。信彦の弟・鼓包武は、大村益次郎に兵学を学び、西南戦争でも活躍した。日清戦争では留守第六師団参謀長を務めた。最終的には陸軍少将。

 以上総てWikiの「岸信介」と「佐藤栄作」の記事より抜粋したものである。


 処がである。以下を御覧あれ。

 『寛政重修諸家譜』には「加藤左馬丞朝明。清康君に奉仕し、三河国加気郷を領して加藤を号す。長男加藤孫次郎教明、広忠卿・東照宮につかえたてまつり、永禄六年一向門徒に一味し、のち三河国を退去す」と記されている。一説に、左馬丞朝明は岸氏ともいうが、加気郷の所在および岸氏の出自は不明である。

 教明が三河国を出奔したのは、永禄六年(1563)に起きた三河一向一揆に際して一揆に属し、主君家康と戦ったことが原因であった。三河を出た教明は諸国を遍歴したのち、足利義昭に仕え、ついで羽柴(豊臣)秀吉に仕え近江国矢島に三百石の知行を与えられたという。一方、教明が三河を出奔したとき、嫡男の嘉明は生まれたばかりの赤ん坊だったが、家人に抱かれて三河を脱出した。そして、十二歳の頃には近江国で博労していた。そして、十五歳のとき、美濃に馬を売りにいったとき、加藤景泰に見出され、その推挙を受けて羽柴秀吉に仕えるようになったと伝えている。教明の経歴、嘉明の博労説、いずれも確証があるわけでもなく、嘉明が一代で大名に出世したことだけは事実である。 因みに信長の美濃攻めは永禄10年(1567年)斎藤氏の居城・稲葉山城を、織田信長が攻め取った。教明が出奔した時から数えれば嘉明は此の時僅か四歳であるが、其の父も秀吉に仕えているので僅かな行き違いからの間違いがあったと看られる。

 加藤氏は藤原氏の一族といい、加賀の藤原からきたものといわれる。『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。加藤嘉明の加藤氏も景道の後裔を称している。景恒の代まで武田氏に仕え、その子景俊の時に三河国に移ったという。嘉明は秀吉の長浜時代に仕えたことは確かなようで、数少ない秀吉子飼いの家臣であった。秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の合戦で敵将浅井則政を討ち取る手柄を立て、加藤清正・福島正則らと並んで「七本槍」の一人に数えられ三千石を与えられた。

 文禄元年(1592)、嘉明は朝鮮出兵が開始されると脇坂安治らとともに水軍の将として出陣したが、朝鮮水軍に苦戦を強いられ多くの戦死者を出した。戦後、一連の功によって加増を受け、伊予松前六万石に封じられた。慶長二年(1597)、ふたたび朝鮮に渡海、藤堂高虎・脇坂安治らとともに朝鮮水軍を巨済島の戦いで撃破する功をあげた。帰国後、三万七千石を加増され統べて十万石の大名に出世した。とはいえ、淡路島にある江善寺には「高麗陣打死衆之碑」が遺されていて、嘉明出世のかげには多くの兵卒の死があった。

 秀吉の没後、嘉明は家康に接近しており、合戦が起こると福島正則らと大垣城攻めに参加、関が原の決戦では黒田長政らとともに家康方として奮戦した。結果、十万石の加増を受け、二十万石を領する大大名となった。嘉明は勝山の地に拠を移すと、新たに松山城の築城に着手し、新しい城下町を松山と改めた。寛永四年(1627)、蒲生氏のあとを受け会津四十万石の太守となった。松山には減封を受けた蒲生氏が入部した。

 嘉明の死後、家督は無事嫡男の明成が継承した。ところが、明成は重臣堀主人と確執を起こし、出奔した主人は明成謀反のことを幕府に提訴し、将軍家蜜の直截で主人の敗訴となった。それでもおさまらない明成は、「会津四十万石に代えても主水の身柄を受け取りたい」と訴え、主水の身柄を受け取ると極刑に処して溜飲を下げた。しかし、その代償は会津四十万石の改易処分であった。しかし、嘉明の勲功によって、明成の子明友に近江水口二万石が与えられ家名は存続した。


 岸氏ははじめ佐藤姓で、藤原秀郷から分かれた一族と言われる。斎藤氏に仕え、天文11年(1542年)、斎藤道三が主君土岐頼芸を大桑城から追放した戦に従軍、天文16年(1547年)(または天文13年とも)の加納口の戦いで織田信秀の甥・織田新十郎を討ち取った功により、道三から感状を受けた。同年、再度の土岐頼芸攻めにも加わり、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで道三の嫡子義龍側に参戦、義龍が死去した後は子の龍興にも仕えた。永禄8年(1565年)、関城主長井道利と共に織田信長に寝返った加治田城主佐藤忠能と戦うが、援軍に来た織田軍に敗れ一族もろとも城を枕に自刃した(堂洞合戦)。

 岸信周(生年不詳 - 永禄8年8月28日(1565年9月22日))は、戦国時代の武将。通称は孫四郎、勘解由。美濃堂洞城城主で、父は佐藤信連。兄弟に信貞、子に信房、信清、信友等。佐藤から岸への改姓の理由は、1933年(昭和8年)に堂洞城の調査に来た県史跡調査委員伊藤信の報告書には「天文十六年九月二二日勘解由加納口の戦に加はり、岐阜城を発する時、鳶天に飛び一羽落ちて信周の鎧袖に留まる、取り上げ見るに、羽に岸の文字あり。是れ実に摩利支天の奇端なりとて大いに喜び、則ち家名を改めて岸と称す。」とある。この戦いで織田新十郎を討った功に対する道三よりの感状が残っており、関市在住の子孫に伝えられている。嫡男の信房は信長より派遣された降伏の使者金森長近の面前で子供の首を斬ったが、乳母がその弟を連れて秘かに城を落ち延びた。娘(一書に栄とも)も乳母が連れて逃げ、潜んだ場所が加治田栃洞区堂洞の東裏手にある「姥ヶ洞」と伝わる。弟の信貞は兄とともに堂洞合戦で討ち死にしたが、これらの子孫は現代まで存続しているという。


 有田市の泉山の近くに集落の陶工達は、秀吉軍によって連れて来られた所謂在日先住鮮族の大凡十四代目の子孫であり、今でも姓を朝鮮名で名乗り、鮮人としてのアイデンティは捨て去ってい無い。全国にはこんな処が、今日でも幾つか在るだろう。 明治維新前後の薩長には在日先住鮮族が半分和に同化していた。

 上記の戦国の武将加藤氏と岸氏との記述を書いたが、加藤氏は朝鮮に出兵しており、岸氏は生き残ったとはいえ何処に流れていったか確かで無い。此れ等両氏の子孫が岸信介や佐藤栄作の遠い祖先で、此の加藤氏と岸氏が繋がっていて、彼等の流れの後裔が何らかの理由で長州に流れ着いたと考えられぬだろうか?何れにしても、佐藤氏と岸氏が最終的に田布施に辿り着き、其の地で岸氏が朝鮮ガン氏と言い伝えられていることは、佐藤、岸両家が、矢張り加藤嘉明が半島から連れて来た異民族の血が流れていると考えるのが自然である。



 続く。 

 


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