魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

魂魄の宰相 第四巻 その⑤

2007-11-29 08:30:04 | 魂魄の宰相の連載

王安石の唱える義と利は、伝統の儒家と守旧派と比べて見ると抜きん出て俊逸で、彼は義と利とは相反するものとは思っていなかったので、「利を追う者は義を重んじ、義を護って利を成す」、利益は義で、義は利としたのだ。

《資治通鑑長編》は二百十九で、王安石と神宗の義と利の関係に関する一段の対話を記載した:

上曰:「然し義利を通せば、利を亡くす」安石はそれに答えて:「利を追う者は義を重んじ、義を護って利を成す」公は声を高めて言う:「公家に利有り庶民に不利では、義有りと言えず」安石は言う:「然らば若しかして利は人道に悖るもの也」

神宗が謂うには「義は利也」と断定し、義と利益は矛盾無く、只、義に従って行えば、自然に利を齎し、義と利が同じ土俵の上にあると主張していたのだが、然し、孟子は「人情を重んじるのに利を言う必要があるか」と言っており、必要なのは人情を重んじ従うことに力点を置き乍も、利を求めず更に利を心に留めてはなら無いと言うのだ。王安石は神宗の意を介し乍も、一方では「利ある者は義を重んじ」と指摘して、利は義で、利在る処必ず義が在って、更に一方では「義を護って利を齎す」と力説し、「義は利で、義の目指すものは利で、利を求めようとするならば義も求めなければ為らず、もし義と利が結び付いているならば利を求めるのは恥じでは無く、高尚なもと成る」と、彼には利をある種高い地位に置こうとする意図が見え、利に対する偏見を是正しようと懸命に説明したのだ。

曾公亮は公家と庶民の利は現実では相反するものと為っているので義と利が全く別のもので同じ土俵に在るもので無いと指摘して、公家の利が庶民には有益に使われることも無く、況してや庶民の利を少なくすることによって公家が利を貪っている現実では義と利を論ずるどころでは無いのだと説いた。守旧派は「曾公亮の話は深意を言ったものでは無いとし、新法が往々にして民と利を争う素を造るからだ」と非難したが、「公家が庶民に役立つことが無いことに利を求める」という中での「庶民」は特別の者達を指すものであり、本当は全体の人民を指したのでは決して無く、上層の官僚主義的な富豪を指すものであったのだとした。曾公亮は再度義利の対立を力説して、「庶民の利益」を強調して、上下の利が相反するように堅持されていることから、公平に分配することが生産を発展させることより更に重要なのだと認めてはいたが、守旧派の公平に分配するという深意は、実は上層の官僚主義的な富豪に有利に分配し、公家と下層部の人民には少なく分配しようとするものであったのだ。

王安石は曾公亮の意図を分かっていたので、「指摘されるところは只、公家に利が有って庶民の利を害するだけのものと云うことで決して君主に利有りというもので無い」と真っ向から反撃し、公平な分配が為されて無い現状では公家に利を齎し、庶民の利を害し、庶民を搾取する現実に義は無く、義の無いところの利なぞ何の価値も無く、本来義は利を齎さなければ為らず、義は利と切り離しては考えられず、義と利は切っても切れ無いものだと反撃したのだ。王安石の言うところの利とは、財貨の生産を拡大し、より多く量産することから始めるもので、このような利益は、公家にも庶民にも利を齎し、分け前の総量を大きくするものであるので、総ての者の取り分自体も多くするものであったが、守旧派の根本原理は分け前の総量を大きく出来るなどと言うことは信じられず、徒に、配分を如何するかということだけに拘っているのみで、その上自分達の分け前を少しでも多くしようとするものであり、双方の言い分には根本的な相違があったのだ。

義と利とは相矛盾するものとしても、義は大切で利は賤しいものだという旧習を変えなければならず、王安石は利を得ることは、財政を適正に取り仕切る上では理に適ったものであると言うことを何度となく力説している。《答曾公立書》の中でも、彼は指摘している:「孟子が言うところの利する者とは、吾国に利を齎すと同時に、我が身にも利有る者と聞く。犬豚の餌に至るまで人が悪食していることや、朝野に餓死者が出ていることは、総て政務に関る出来ことなのだ。政務が財政を取り仕切っている以上、財政政策は義に繋がるものと成るのだ。《周礼》の中では、財政管理の事柄がその半分を占めているのだが、だからと言って、周公が利を漁る者だと如何して言えようか!」。吾国を利すとは、総ての者に利を齎すこと言っているのだ;吾身も利あるということは、一人一人の個人にとっても利益であり、二者(利と財政管理)は共々義に合うものだということなのだ。富豪の家は、贅沢で節度が無いので豚や犬が食べるものまで家人が食べると言うようなことは、絶対に慎ませるべきである;貧乏人は災害や凶作や戦乱に出遭うと、衣食は侭に為らず、其の為に野外で餓死して仕舞うので、このことは必須の救済として財政支援が必要なのだ。そこで政務が財務を取り仕切り、資産を管理することは最重要な政務となり、義と言わざるを得ないのだ。《周礼》の中でも、財政管理の内容が半分を占めていることを論って、雅か周公が不正当な利益を謀っていたとでも言えようか?

   政務として財政管理を統括するので、資産を管理することを義の内容に含め、この様に考えるのは利をも義と統合する精神を包んでいて、同時に経済の建て直しを推進することを中心に措いて政策を考えるのが政治の最大の関心事と成っていて、王安石の勇気と経験と知識が卓超したものであったことが、この一事でも充分に分るのだ。王安石が推進した新法は、その大多数があらゆる面で財政管理と関係があり、これは彼の理論と実践とが一致したものであったことを表明し、彼が経済の問題を最も重要な問題にしていたことを確実に物語るものだった。

王安石は経済の新しい思想にとって義と利との統合の意義が重要な役割を担うと思っていた。義と利とが経済発展にとって極めて重要であると看るのに反し、伝統の義と利との観点が義と利とが相反するものだとしていたのは、何も中国だけでは無く、如何も西方でも同じようだった。初期の基督教では同じ様に財産が罪悪だと考えていて、天国へ逝けるのは金持ちだけで、駱駝が針の穴を通るよりも難しく、同時に労働を卑しめて、労働は貧乏人が使った賤しい業で神が人に与えた懲罰だと見做していたのであり、このような思想が支配する中で、経済を発展させることなどあり得無かったのだ。ただ近代になると、基督教の新教徒は漸く義と利とを統合して問題を解決し、仕事が神の人に与える神聖な職責としての天職だと考える様に為り、労働は自ら修行を積む方式の一つと成り、節約は最も重要な美徳で、このように漸く労働に財産を創造する一つの地位を与えことが道理に適う考えとし、資本主義の発展の為の思想の基礎と成ったのだ。


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