時効制度
自由主義社会では最大限尊重されるべき「個人の権利」と雖も、「公共の福祉」の下に制限されることがある。また、実社会では私人間のお互いの権利の調整をしなければならないことが屡起きる。「時効制度」の根拠を集約すれば、此制度が公共の福祉」や「他の人との権利調整」の為にあるものだと結論付けることも強ち間違いでは無いだろう。
学説が挙げている「時効制度」の根拠には、次のようなものがある。
①永続的な事実状態を保護することによって、それによって築かれてきた「信頼関係」や「安定維持」を計るとする。
②「権利の上に眠る者はこれを保護する必要が無い」とする。国家がせっかく権利の保護を計る為に裁判制度などを置いてやっているのに、それを使わずにいる者には自己責任を取らせるということだろう。
③既成の事実としてあるものをひっくり返すのに余りに長い期間経過してしまった場合は、証拠を集めることも不可能に近くなる。
上に掲げた「時効制度の存在」理由のいずれにも、私は納得出来無い。政策論が前に出たもので、こう言う理由だけでは、何も権利が無い者も、これと言って権利を失うだけの落ち度があったと言われ無い者も、利得を得、権利を失ってしまうではないか?改に権利を所得出来る為には何らかの代償が要ると言うのが当然で、権利を失うにはその喪失に見合う何らかの責任を負うものがなければならないのではないのか?
少なくとも、「当初に互いの利益の為に双方の主張を取り入れ合って妥協することと認められるものがあり、後にそのことに何らかの不備があったことが分かったのだが、長い間の既成の事実が継続した為に」という前提があって、①から③を根拠に揚げると言う作業が必要だと考えるのだ。
しかも、「時効制度」には「取得時効」と「消滅時効」との分類があり、学者間にはそれぞれを分けて、その存在理由を考えるべきだとの意見もある。
◎時効制度を実際の社会生活関係の紛争を解決していく為の理論構成はどうなるか?
先ずは、学説はいかなる論を立てているのだろうか?
○実体法説と訴訟法説(法文の解釈論として)
①客観的・主観的な要素と条文の根拠
主観的な要素を取り入れたと思われる条文(裏には倫理観など背景にあると思われる)⇒当事者の意思を尊重
○「時効の利益」を受ける為には「時効の援用」という行為がなければならない。
○「時効の利益」を受けることが倫理上潔しとし無い者には「時効の放棄」をすることが出来る(民法第146条)。
②実体法説・訴訟法説と条文の根拠
(所有権の取得時効)
民法第162条 二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
2 十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。
(債権等の消滅時効)
民法第167条 債権は、十年間行使しないときは、消滅する。
2 債権又は所有権以外の財産権は、二十年間行使しないときは、消滅する。
以上の条文は、「権利の得喪の制度」のように考えている条文のように見て取れる。実体法説はこの2条を以って根拠としているのだ。
これに対して訴訟法説は次の条文を拠所としている。
(時効の援用)
民法第145条 時効は、当事者が援用しなければ、裁判所がこれによって裁判をすることができない。
③訴訟法説この説は「所有権などが紛争の当事者のどちらにあるのかの『証拠』を長い間の時間の経過などであげ難くなったことで、その決着を占有の継続と言う目に見えた現実に求めるものである」と言えよう。しかし、この説では民法第162条(「他人の物を占有した者」との文言がある為)を説明することは困難になってしまうのだ。
④実体法説
この説は、時効を権利得喪の制度と考える立場を採る。しかし、この説も訴訟法説と同様に条文の間の矛盾(民法第条、民法第145条と民法第147条、民法第162条、民法第167条との)を説明切れ無いのだ。
これを説明する為に、「停止条件説」を唱える者もいる。時効制度の根拠を一定の状態が長い間継続したことに求めるのでは無く、「援用」によってその効果が生じるものだと説明するのが、「停止条件説」と言うものなのだ。しかも、ここで「援用」は裁判外でも出来るとするのだ。この説は二種の相対する条文同士の矛盾も巧みに調整するかのように見えるが、各条文の厳密な解釈からは遠のいてしまうきらいがある。
判例は、実体法説と訴訟法説を折衷したようなものである。「時間の経過により絶対的な権利の変動が生じる」とする一方、「時効の援用は当事者の攻撃・防御の方法である」とする。所謂実体法的考え方を基調として取り扱いながら、訴訟法的の考え方も加味したものと見られる。
上に掲げたいずれ説も、時効制度を説明する決め手とはなり難いものであった。そもそも、この制度を規定する民法の条文には、権利の得喪には当初に何らかの負担と責任が伴うと言う考えを基本に置かれて無いことが災いするものと私は考えるのだ。つまり、現今の状態を生じた当初に当事者の間には何らかの法的実行行為があったことを前提として、長期の時間的継続状態があれば、時効が完成するのだとするのだ。無から有を生じるとすることは神を恐れぬことであり、人倫からすればどうしても納得出来かねるものと感じてしまうのだ。法律論は政策論に偏ってはいけないのだ。
つまり、法とは『『公平感』を実現する法の一面を無視してはなら無い』のだ。
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