魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

日本経済の破綻への私見 第六回

2007-08-14 18:53:32 | 憲法考

これからちょっと言葉を乱暴にするのであしからず。テレビに出る経済学者などの奴らはいい加減なことを言うものだ。失業も、自己責任の問題で自らの能力不足を棚に上げて、政府に文句を言うものではない。資本主義である以上競争原理の中で淘汰されるのは仕方が無いなどと、いけしゃあしゃあと宣う馬鹿がいるのだ。このような言葉を吐く馬鹿には二重の意味での間違いがある。

 一つは、能力至上主義を罷り通せば、個人や企業は苛烈な競争をし、失業者や企業淘汰が増大することになるのだ。その結果、社会全体の総需要は縮小し、軈て、これ等の馬鹿が出演しているテレビのスポンサーも青息吐息になって仕舞うことになり兼ねない。二つ目は、政府の仕事は何なのかと言うことに関係する。失業対策をしてくれと政府に要求することは当然のことなのだ。政府の仕事は国民の安寧を願う政策展開をすることにある。能力が無くても、自ら就業を拒否するもので無い以上、政府が失業対策に心血を注ぐことは義務なのだ。

 しかし、総体としての国民にも問題があることも確かなのだ。未曾有に膨らんだ財政赤字の責任は、政府や地方公共団体や各議員の放漫体質によって齎されたことは確かだ。議員などからの言い訳として、選挙で選ばれて民意を反映したものだと居直るだろうが、では、国民に知らしめる努力は積極的に為してきたのかと言うことで国民は反論出来よう。議員はよく衆愚制ではいけないとご都合主義で言うでは無いか。政治のプロと見込まれて議員になった者達が、都合が悪くなると選んだ国民のせいにするのは見苦しい。タレント議員を選んだ国民は如何なのだと言われそうだが、比例代表などの制度を作られては、選ばなくとも当選してしまうのだ。

 話が本論から大部逸れてしまったと思われようが、関連することを述べたつもりである。ここで、極端な能力偏重主義が如何に国全体の経済にマイナスを齎すかと言うことを探ってみよう。現実にはありえないが、能力偏重の下で完全雇用に近い状態であった場合には、極端な賃金格差が生じよう。能力のある者は少数に絞られるから満足のいく賃金をもらえる者は一握りに限られる。仕事はあるのだが多くの人が低賃金に抑えられ、生活必需品を買うのがせい一杯なんてことになって仕舞えば、国全体の総需要は極端に目減りし、需給の均衡は崩れ、多くの企業が倒産することにもなるのだ。実は、経済政策の妙薬は無いのです。

 しかし、老齢化社会は国民も覚悟が無ければ大変なことになります。年金以外の根本的な経済問題があるのです。それは、財政難が如何あれ、不労所得を受ける人が社会で多く存在することが、国全体の需給のバランスを崩し、それだけの問題でも国は経済的な危機に追い込まれてしまうのです。需要が供給を上回り、大変なインフレを引き起こしかねないのです。省力化をすればよいと言う事でも無いのです。このことは余り言われていません。人手が足りない問題とは全く別な問題です。中には、人手が足りなくなるから外国の労働者に門戸をもっと開放すべきなどと言う意見を言う馬鹿もいますが、こんなことをしたら、余計、大変なことになります。経済論として、多額の余計な社会的経費がかかることになって、国の経済を圧迫するのです。要は、老人といえども、身体の元気なうちは働いて稼げる環境を作ることが急務なのです。足りない分を年金でまかなっていくことが必要なのです。しかし、当然問題は起きます。続く


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