瀬島龍三の略歴を以下に示す。
1911(明治44)年12月09日、富山県西砺波郡松沢村(現・小矢部市)生れる。陸軍幼年学校に最下位の成績で入学するが、一念発起して勉学に励み、陸軍士官学校を首席で卒業した。士官学校を出ると、郷里富山の歩兵35連隊付と成り、二十歳の若さで初年兵100人を預かることに成ると、師団長の推薦で陸軍大学の受験資格を得て、合格率32倍の厳しさだっ陸軍大学に入学する。1938(昭和13)年、陸軍大学を首席で卒業。
戦時中にはガダルカナル島撤収作戦の主任参謀、関東軍参謀を務める等、大本営陸軍参謀兼海軍参謀。敗戦後、シベリア抑留、ロシア捕虜収容所で11年強制労働させられる。
帰国後、伊藤忠商事に入社。1961(昭和36)年、社長就任2年目の越後社長が、瀬島の素質を見抜き、入社3年目にして、業務部長に抜擢。翌1962(昭和37)年には何と、取締役業務本部長の大任を与えられる。半年後に常務、1968(昭和43)年には専務、1972(昭和47)年には遂に副社長に就任した。然し、何故か社長にだけは成ることが無く、副社長から副会長へ、副会長から会長へと歴任。退社後、臨時教育審議会委員や臨時行政改革推進審議会の委員等を務める。
では、此の越後社長(越後正一)の人物也を示そう。
1901年(明治34年)に琵琶湖の湖東で生まれた越後正一という男が15歳に成った時、家庭の事情で上級学校進学を諦め、伊藤忠の入社試験を受けることに成った。此の時の面接官が二代目伊藤忠兵衛で「君は帰らず後でもう一度来たまえ」と忠兵衛に言われ、再面接となり結果合格と成った。然も「八幡商業を卒業してから入社せよ」と好条件を示してくれた。忠兵衛、若干30歳の時であったが、父親である初代忠兵衛が亡くなって家督を継いでから10年余事業を営んでいた。
八幡商業の卒業が近づくと、越後は忠兵衛に神戸高商(現神戸大学)への進学を勧められます。処が越後は神戸高商の受験に落ちて仕舞った。不合格であったことを忠兵衛に報告すると「ああそうか、今度頑張るんだな」と一言呟いただけだった。二度目の受験は見事に合格し、神戸の住吉にあった忠兵衛の本宅に書生として住込み乍神戸高商に通った。
卒業の日、世界恐慌の煽りを受けて伊藤忠は人員整理をしたばかりで、結局同僚の月給の半分の40円という条件での入社した。越後は忠兵衛の期待に応える為に懸命に働き、その結果、相場の神様と呼ばれる程の手腕を発揮し、後に社長に迄登り詰めた。14年間社長を務め、その間売上げを十倍にし、伊藤忠を繊維専門商社から総合商社に見事に転換させ、「中興の祖」とばれることに成った。
さて、瀬島龍三を語るとき、其の裏の生き様として宅見勝を欠かす訳には行かない。宅見勝の略歴を示しておく。
バブル期を通して金融や不動産などのフロント企業を使い蓄財した2000億円とも言われる豊富な資金を背景に、渡辺芳則を首領に据えた五代目山口組の発足(1989年)に立役者として関与、以後、山口組のナンバー2にあたる若頭として3万6000名を擁する山口組の事実上の仕切り役として活動し、“山口組の金庫番”と呼ばれた。
山一抗争(1984年 - 1989年)、八王子抗争(1990年)、山波抗争(1990年)、および中野会会長襲撃事件(1996年)などの各種暴力団抗争や、山口組五代目跡目問題(1988年 - 1989年)などに当事者として関与。1997年に宅見若頭射殺事件で殺害された。
続 く
1911(明治44)年12月09日、富山県西砺波郡松沢村(現・小矢部市)生れる。陸軍幼年学校に最下位の成績で入学するが、一念発起して勉学に励み、陸軍士官学校を首席で卒業した。士官学校を出ると、郷里富山の歩兵35連隊付と成り、二十歳の若さで初年兵100人を預かることに成ると、師団長の推薦で陸軍大学の受験資格を得て、合格率32倍の厳しさだっ陸軍大学に入学する。1938(昭和13)年、陸軍大学を首席で卒業。
戦時中にはガダルカナル島撤収作戦の主任参謀、関東軍参謀を務める等、大本営陸軍参謀兼海軍参謀。敗戦後、シベリア抑留、ロシア捕虜収容所で11年強制労働させられる。
帰国後、伊藤忠商事に入社。1961(昭和36)年、社長就任2年目の越後社長が、瀬島の素質を見抜き、入社3年目にして、業務部長に抜擢。翌1962(昭和37)年には何と、取締役業務本部長の大任を与えられる。半年後に常務、1968(昭和43)年には専務、1972(昭和47)年には遂に副社長に就任した。然し、何故か社長にだけは成ることが無く、副社長から副会長へ、副会長から会長へと歴任。退社後、臨時教育審議会委員や臨時行政改革推進審議会の委員等を務める。
では、此の越後社長(越後正一)の人物也を示そう。
1901年(明治34年)に琵琶湖の湖東で生まれた越後正一という男が15歳に成った時、家庭の事情で上級学校進学を諦め、伊藤忠の入社試験を受けることに成った。此の時の面接官が二代目伊藤忠兵衛で「君は帰らず後でもう一度来たまえ」と忠兵衛に言われ、再面接となり結果合格と成った。然も「八幡商業を卒業してから入社せよ」と好条件を示してくれた。忠兵衛、若干30歳の時であったが、父親である初代忠兵衛が亡くなって家督を継いでから10年余事業を営んでいた。
八幡商業の卒業が近づくと、越後は忠兵衛に神戸高商(現神戸大学)への進学を勧められます。処が越後は神戸高商の受験に落ちて仕舞った。不合格であったことを忠兵衛に報告すると「ああそうか、今度頑張るんだな」と一言呟いただけだった。二度目の受験は見事に合格し、神戸の住吉にあった忠兵衛の本宅に書生として住込み乍神戸高商に通った。
卒業の日、世界恐慌の煽りを受けて伊藤忠は人員整理をしたばかりで、結局同僚の月給の半分の40円という条件での入社した。越後は忠兵衛の期待に応える為に懸命に働き、その結果、相場の神様と呼ばれる程の手腕を発揮し、後に社長に迄登り詰めた。14年間社長を務め、その間売上げを十倍にし、伊藤忠を繊維専門商社から総合商社に見事に転換させ、「中興の祖」とばれることに成った。
さて、瀬島龍三を語るとき、其の裏の生き様として宅見勝を欠かす訳には行かない。宅見勝の略歴を示しておく。
バブル期を通して金融や不動産などのフロント企業を使い蓄財した2000億円とも言われる豊富な資金を背景に、渡辺芳則を首領に据えた五代目山口組の発足(1989年)に立役者として関与、以後、山口組のナンバー2にあたる若頭として3万6000名を擁する山口組の事実上の仕切り役として活動し、“山口組の金庫番”と呼ばれた。
山一抗争(1984年 - 1989年)、八王子抗争(1990年)、山波抗争(1990年)、および中野会会長襲撃事件(1996年)などの各種暴力団抗争や、山口組五代目跡目問題(1988年 - 1989年)などに当事者として関与。1997年に宅見若頭射殺事件で殺害された。
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