「癒されて生きる」(岩波現代文庫)に「自我の超越」という章がある。やはりこの自我というものがくせものである。
柳澤さんは書く。「人は、もはや自分のものを何らもたないというような境地に至るまでは、どこまでも自分を棄てる練習をしつづけなければならぬ」と。
また、「釈迦は、すべての存在を否定して、いっさいのものを相互の関係として捉えた。この世界は主客が一体となっていて実体がない。その唯一全一性を私たちは実感として直感的に把握しなければならない。現象は、実体がないことにおいて、すなわち、あらゆるものと関係し合うことによってはじめて現象として成立しているのである。 このように、物質的存在はたがいに関係し合いながら変化しているのであるから、現象としてはあっても、それ自らを実体として捉えることはできない。したがって、現実には何もないことになり、この状態を『空』という。このようにして釈迦は、存在を抽象化した」
さらに、「私たちの苦しみは、すべて執着心に原因がある。執着心は、この世界を自己と対象物にわけて認識する、二元的認識の結果生じるものである。本来、この世のなかのものは一様に存在するだけである。そこに自己と非自己という判断を加えるのは、私たちの脳の神経回路である。二元的認識によって生み出されたものである。このようにして、私たちはものを所有するという欲が生まれた。さらに、未来を予見するという能力によって、この欲は膨れ上がった。私たちの所有欲はかぎりなく増大し、ものへの執着は深まる一方である。ものへの執着は自己中心性の所産であるが、所有欲がさらに自己中心性を膨張させるというような悪循環を起こさせる」
最後に、「自己中心性を脱却するということは、広い視野でものを見るということにもつながる。そのような視点に立つことによって、私たちは宇宙の懐に抱かれた自分に気づき、安らぎを覚えることができるのである」
確かにそうかもしれない。思うに、「自我」は自己と我己よりできているのではないか。自己は人体を動かす、目に見えないなにものか。そして、我己とは生きるうえで着る、親・夫婦・家族・課長・自治会会長とかを指す。この両者が複雑に絡まって自我があるのではないか。親を演じ課長を演じる。世間を演じる。しかも目に見えない自己という更に複雑怪奇なものにより人体は動いているのではないか。少なくとも、いのちの原動力、自己がなければ生きてはいけない。
城ヶ崎海岸にあるウナギ屋さんに入ると
おもしろそうな爺様が一人、かなりのペースで飲んでいます。今日は人生訓をたれる女将さんがいませんから、爺様と相席所望。
これがなんと本人曰くですが
「自殺志願者」事情を聞くと65歳独身これから海に飛び込むとあっけらかんです!
どうやら行き先も無いらしい、それじゃ我が家で
ご一泊と無理強い、はしゃぎながらバイクにまたがり、我が家で軽く一杯、懐からは飲み残しのサントリーローヤル半分、寝床に案内ご就寝、12時にトイレに行った時は軽いいびきが聞こえておりました
朝5時、旨い刺身で爺様ご馳走ねとばかり玄関を開ける鍵がかかっていません、靴もありません!
部屋はもぬけ、昨日のウイスキーがうつろに残っています、爺様早まるなとばかり門脇灯台目指しまっしぐら、荒波を足元打ち寄せお姿見当たらず!
名も聞かず、所も不明じゃあ連絡しようがありません?
今朝も3時ごろには目覚め、布団の中でゴロゴロ。新聞配達の車の音で、ハッと飛び起きてしまいました。午前5時前には事務所へ。朝風呂浴び、Wよりの差し入れのおひたし(あるのを忘れるところ。おなかをすかしていたKに差し入れすべきだった?)で朝食。数日前から冷蔵庫に鎮座するイチゴを食べる(これも忘れるところ)。ここ数日は食事自体も仕事になり、ゆっくりできなかった。昨夕より、心は平常モードか な。
今日は、上天気。明日の資料を早く仕上げようっと。
修行が足りないので、暗い画面のものを読むのが大変です。
伊豆高原に行きたい気持ちが高まっています。必ず、行くぞお。ではまた。
そっと訪問し覗き見して帰っています。
いつもいつも天星さんのいろいろな事で感心
敬服を感じています。
小生は、akisroomさんの、坦々(精神は日々いろんなことがあるでしょうが)とした生き方にあこがれています。