SDGs持続可能な世界の実現であり、過去の開発一辺倒の負債の清算
Sustainable Development Goalsは持続可能な社会発展目標です。
SDGsは自由・愛・公平な社会の実現に向かうことです。戦後80年を迎える年、夢洲Expo2025は何を訴えるのでしょうか?
国連が推進する持続可能な開発目標(SDGs)達成への貢献、日本の国家戦略Society5.0の実現、IoT(物のインターネット)、AI(人工知能)、ロボティクス、ビッグデータ、バイオテクノロジーといった技術により様々な地球規模の課題が解決される社会は、SDGsが達成された社会でもあります。(論理無視、意味不明)
SDGsは開発目標ではありません。持続可能な社会を実現するための達成目標です。中でも生きることを保証する人権の確保が最重要課題です。万博協会も人権についてSDGsを中核とする「持続可能な開発のための2030 アジェンダ」で事業活動に際し、指導原則や国際労働機関(ILO)の労働基準等の取り決めに従い、労働者の権利や環境、保健基準を遵守する人権尊重の方針が定められました。
人権侵害の最たるモノは戦禍や飢餓です。ガサ地区の死者は人口の1割を超えました。第二次世界大戦の犠牲者は世界でおよそ6~7千万人でソビエット連邦2千6百万人、次に中国が死者が多く、ヨーロッパのユダヤ人の犠牲者は500万人(全人口900万人)でした。
割を食ったのは今もアンバサダーである性加害で謝罪が許されない松本人志や宝塚歌劇団です。臭いものにはフタの日本社会、吉村洋文・藤本壮介や松本正義が万博を仕切る?ならば問う、70年大阪万博の時代より日本や関西は成功したと言えますか?反省する感性、勇気の無いところに成長はありません。
天邪鬼をWeblio辞書で調べると、散々な酷評です。
「何かにつけて他人や世間に逆らうようなことをする」「他人の意見を素直に聞き入れない」「本心を隠して裏腹なことを言う」といった性格の人のことである。ひらたく言えば「素直でない人・素直になれない人」のことである。つむじ曲がり・へそ曲がり・鼻曲がり・偏屈・ひねくれ者などともいう。
散々です、はたして個人の自由という人権を守る意識があるのでしょうか?個性・多様性を認めない、協調・同一化が絶対の社会を目指す体制派の人間が持つ排除の論理です。私は天邪鬼を自認しますが、いたって従順です。マウントを取りに来られない限りいたって温和で協調的です。言動が理解できないとして差別しないで下さい。 天邪鬼と言えば戦後思想界の巨人とされる吉本隆明がいます。個人的には縁遠く知ってから10年ほどです。彼は軍国少青年として率先して生きた人生の反省から、戦後は体制には二度と与しない、社会の主流とは意図的に反対姿勢を貫く天邪鬼でした。しかし、社会の発展・歴史の変革は常識(社会の価値観)の変革を伴います。社会が未完である限り利害は対立し、体制は秩序の維持に躍起になります。吉本隆明のような蛮勇は私にはありません。その点、浄土真宗の宗祖の親鸞は非僧非俗の愚禿と謙虚でした。六角夢告では救世菩薩、聖徳太子?が登場し、女犯偈に続いて「此は是我が誓願なり 善信(親鸞)この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」と予防線を張っています。以降、浄土真宗のみが僧侶として妻帯が許されました。真宗を大教団に隆盛させた8代目蓮如は4人の妻とは死別し5人の妻の間に27人の子を設け、末子の3子は80代。蓮如の元気を目標にしたいものです。私は人権を考えれば差別の根源は神仏の存在を認めることにあると考えています。宗教家の人にとってはありえないことでしょうか?私は歴史や世界の現況を見渡せば人と人を分断させ、差別を正当化する方便になっています。
人類史上の一大エポックであるルネサンス、神中心の文化から人間解放をめざしたヨーロッパでのルネサンス以降、wiki参照17世紀のパスカルは人は考える葦であり、その前提を疑うことの重要性大切にしました。パスカルの賭けはどんなに神の存在証明を試みても正しい確立は50-50でしかなく、神が実在することに賭けても失うものは何もなく、むしろ生きることの意味が増すとしました。
しかし、神と人間の関係は、人と人の関係を無視し、支配・差別の温床となっています。信仰は自ら考える事を拒否し、人間性(品性)の向上よりも忠誠心を重視します。未成熟、危険な宗教ほど人権を無視し、人の心(信仰心)が変われば現実は変わるという妄想に陥っています。
仏教の始祖、釈迦の言葉として 天上天下唯我独尊 がありますが、誰も生まれて直ぐに歩きしゃべったとは考えません。しかし、誰も坊さんの話の腰を折らずに伝承されています。「我」は釈迦だけではなく、一人一人であり、生きとし生きるモノの生命の尊厳であり、現代の概念である「自由」という「人権」が一番大事であると考えられます。
愛、一人では生きられない人間の様々な愛が多様に語られます。共通項は何でしょうか?無償の愛、神仏の愛から親子、恋人、友人など他者との係わりの中で、有償として見返りを期待しない感情といえます。汎愛としては人類発生の昔より言葉を紡ぎ,善悪を問わず、文明を発達させてきた進化の全てとも言えます。
私が在る限りあなたは有り、あなたが在る限り私は有る。
As far as I am, you are here, As far as you are, I am there.
独占する愛は愛とは言えません、偏狭なエゴです。人を深く愛すれば愛する人の喜びが自分の喜びとすることが可能です。感情で無くても、他者の人権を自分と同じように認めれば愛に変化できます。神仏は必要ありません。逆に愛を日常社会から切り離す弊害があります。ここでも、私はあなたのことであり、あなたは私のことです。自由と愛が至上であり、一人一人に担保されるための公平も至上です。自由・愛・公平が史上初めて現代に到達した人間社会の基本原理です。
大阪万博がSDGsに貢献するならば、持続可能な社会に向けて自由・愛・公平を世界に向けて発信すべきです。
ジョン・レノン / イマジン (日本語訳付き)
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天邪鬼の悪言1、母への弔いは供養では無い
天邪鬼の悪言2、 自由 愛 公平
天邪鬼の悪言3、愛と性 松本人志の罪と罰
天邪鬼の悪言4、宝塚歌劇団パワハラを認め全面降伏で和解
天邪鬼の悪言5、不同意性交罪の成立は宗教から人間性回復へのエポック
天邪鬼の悪言6、モアイ像でも歩行可能、正しい歩行?が体を痛める
天邪鬼の悪言7、 Expo2025 SDGs The End of Prologue
千年後の世界、人間社会はどうなっているでしょうか?夢物語
Sustainable Development Goalsは持続可能な社会発展目標です。
SDGsは自由・愛・公平な社会の実現に向かうことです。戦後80年を迎える年、夢洲Expo2025は何を訴えるのでしょうか?
国連が推進する持続可能な開発目標(SDGs)達成への貢献、日本の国家戦略Society5.0の実現、IoT(物のインターネット)、AI(人工知能)、ロボティクス、ビッグデータ、バイオテクノロジーといった技術により様々な地球規模の課題が解決される社会は、SDGsが達成された社会でもあります。(論理無視、意味不明)
SDGsは開発目標ではありません。持続可能な社会を実現するための達成目標です。中でも生きることを保証する人権の確保が最重要課題です。万博協会も人権についてSDGsを中核とする「持続可能な開発のための2030 アジェンダ」で事業活動に際し、指導原則や国際労働機関(ILO)の労働基準等の取り決めに従い、労働者の権利や環境、保健基準を遵守する人権尊重の方針が定められました。
人権侵害の最たるモノは戦禍や飢餓です。ガサ地区の死者は人口の1割を超えました。第二次世界大戦の犠牲者は世界でおよそ6~7千万人でソビエット連邦2千6百万人、次に中国が死者が多く、ヨーロッパのユダヤ人の犠牲者は500万人(全人口900万人)でした。
割を食ったのは今もアンバサダーである性加害で謝罪が許されない松本人志や宝塚歌劇団です。臭いものにはフタの日本社会、吉村洋文・藤本壮介や松本正義が万博を仕切る?ならば問う、70年大阪万博の時代より日本や関西は成功したと言えますか?反省する感性、勇気の無いところに成長はありません。
天邪鬼をWeblio辞書で調べると、散々な酷評です。
「何かにつけて他人や世間に逆らうようなことをする」「他人の意見を素直に聞き入れない」「本心を隠して裏腹なことを言う」といった性格の人のことである。ひらたく言えば「素直でない人・素直になれない人」のことである。つむじ曲がり・へそ曲がり・鼻曲がり・偏屈・ひねくれ者などともいう。
散々です、はたして個人の自由という人権を守る意識があるのでしょうか?個性・多様性を認めない、協調・同一化が絶対の社会を目指す体制派の人間が持つ排除の論理です。私は天邪鬼を自認しますが、いたって従順です。マウントを取りに来られない限りいたって温和で協調的です。言動が理解できないとして差別しないで下さい。 天邪鬼と言えば戦後思想界の巨人とされる吉本隆明がいます。個人的には縁遠く知ってから10年ほどです。彼は軍国少青年として率先して生きた人生の反省から、戦後は体制には二度と与しない、社会の主流とは意図的に反対姿勢を貫く天邪鬼でした。しかし、社会の発展・歴史の変革は常識(社会の価値観)の変革を伴います。社会が未完である限り利害は対立し、体制は秩序の維持に躍起になります。吉本隆明のような蛮勇は私にはありません。その点、浄土真宗の宗祖の親鸞は非僧非俗の愚禿と謙虚でした。六角夢告では救世菩薩、聖徳太子?が登場し、女犯偈に続いて「此は是我が誓願なり 善信(親鸞)この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」と予防線を張っています。以降、浄土真宗のみが僧侶として妻帯が許されました。真宗を大教団に隆盛させた8代目蓮如は4人の妻とは死別し5人の妻の間に27人の子を設け、末子の3子は80代。蓮如の元気を目標にしたいものです。私は人権を考えれば差別の根源は神仏の存在を認めることにあると考えています。宗教家の人にとってはありえないことでしょうか?私は歴史や世界の現況を見渡せば人と人を分断させ、差別を正当化する方便になっています。
人類史上の一大エポックであるルネサンス、神中心の文化から人間解放をめざしたヨーロッパでのルネサンス以降、wiki参照17世紀のパスカルは人は考える葦であり、その前提を疑うことの重要性大切にしました。パスカルの賭けはどんなに神の存在証明を試みても正しい確立は50-50でしかなく、神が実在することに賭けても失うものは何もなく、むしろ生きることの意味が増すとしました。
しかし、神と人間の関係は、人と人の関係を無視し、支配・差別の温床となっています。信仰は自ら考える事を拒否し、人間性(品性)の向上よりも忠誠心を重視します。未成熟、危険な宗教ほど人権を無視し、人の心(信仰心)が変われば現実は変わるという妄想に陥っています。
仏教の始祖、釈迦の言葉として 天上天下唯我独尊 がありますが、誰も生まれて直ぐに歩きしゃべったとは考えません。しかし、誰も坊さんの話の腰を折らずに伝承されています。「我」は釈迦だけではなく、一人一人であり、生きとし生きるモノの生命の尊厳であり、現代の概念である「自由」という「人権」が一番大事であると考えられます。
愛、一人では生きられない人間の様々な愛が多様に語られます。共通項は何でしょうか?無償の愛、神仏の愛から親子、恋人、友人など他者との係わりの中で、有償として見返りを期待しない感情といえます。汎愛としては人類発生の昔より言葉を紡ぎ,善悪を問わず、文明を発達させてきた進化の全てとも言えます。
私が在る限りあなたは有り、あなたが在る限り私は有る。
As far as I am, you are here, As far as you are, I am there.
独占する愛は愛とは言えません、偏狭なエゴです。人を深く愛すれば愛する人の喜びが自分の喜びとすることが可能です。感情で無くても、他者の人権を自分と同じように認めれば愛に変化できます。神仏は必要ありません。逆に愛を日常社会から切り離す弊害があります。ここでも、私はあなたのことであり、あなたは私のことです。自由と愛が至上であり、一人一人に担保されるための公平も至上です。自由・愛・公平が史上初めて現代に到達した人間社会の基本原理です。
大阪万博がSDGsに貢献するならば、持続可能な社会に向けて自由・愛・公平を世界に向けて発信すべきです。
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