「邪鬼」は日本に渡来した仏教の四天王像の下で踏みつけられています。仏陀に祭り上げる前の釈迦は偶像崇拝を排していました。生きとし生きるモノの平等を旨とした原始仏教は釈迦の死後およそ5百年で大乗仏教変質しました。釈迦は世を煩い、出家遁世し思索を重ねました。得たモノは何だったのでしょうか?
私は天邪鬼が自由でいいと考えていました。昨年、母親を亡くした時、母を苦しめたのは戦前の封建、女性差別であり、無くすことが母親への弔いであると考えました。しかし、天邪鬼の悪言で前述の幼稚園での運動会のダンス案内状の隠蔽は私が行った母親に対する明らかなイジメです。分別のない園児が母を差別していたのです。そうです、時代の中で母と同じように私自身もイジメられ踏みつけられていたのです。イジメの加害と被害は立場が違えども自由に生きる楽しい生活、人間性の崩壊です。良識や権威という社会常識です。まさに四天王に踏みつけられる邪鬼と同じだったのです。誰もが時代の中で初めは規範や価値観を受け入れて育ちます。そして社会と縁が続く限り、誰もが邪鬼の様に既成の価値観に押さえ付けられ、或いは逆に押さえ付けて生活しています。
邪鬼(じゃき)とは、 google AIより
仏教の世界において登場する鬼、四天王の足もとで踏みつけられている姿で表されます。四天王は、東方をまもる持国天、南方を増長天、西方を広目天、北方を多聞天の4体の守護神、邪鬼は、人に厄災を振りまく存在として、仏法のもとに懲らしめられている様子を表しています。
天邪鬼改め邪鬼天の誕生です。釈迦はインドの小国の皇太子として育ち、妻子にも恵まれた生活の中で人生に悩みました。不平等ではないか?死とは?苦しみのない人生とは?今日のように文明が発達しない当時の人々は天変地異は神の怒りであり、死後の世界を想像し信じました。釈迦は証明のしようのない話は無記とするしか無かったのですが、自らの教えで有る「自灯明、法灯明」によって死後はあるとした大乗仏教と変化しました。
邪鬼天は知っています。死後は感じる事が無い世界であり、少しの間は髪は伸びますが神は生きていない世界であると。つまり、あの世を信じていません。信仰は自分に対してであり、自己を創り揚げた過去から現在の他者への信頼という信仰です。自由と愛の概念の源泉は「天上天下唯我独尊」と「As far as I am you are here,As far as you are,I am there」限りある命、有限の存在である私自身の命と、命の連続性に対する希望であり絶対の信仰です。
四国八十八カ所で有名な弘法大師・空海にまつわる同行2人という言葉があります。四国一周するのでは一人で無く、大師と一緒に廻るという考えです。それは、「私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私も有る。」と同じです。クリスチャンで有ればキリストでいいわけです。自己を確立する上で信頼する特定の他者は必須です。一人では孤独であり、事に当たっては判断を迷い考える必要があります。先人と自己と同化することでアイデンティティを獲得し、迷うことなく自動的に判断できます。
司馬遼太郎は「21世紀に生きる君たちへ」を小学生に向け、「たくましく、やさしさありて、たのもしい」と21世紀には彼は生きていない30年ほど前に残しました。たくましく無ければ生きていけない、やさしさだけでは自分を見失う、両方があってこそ自己を確立した頼りがいのある人になると
今ではDNA解析も進み、生命は無の中から生じた奇跡の連続、雌雄の分離によって生命進化がさらに進み、人類は数万年の間に知能を飛躍的に進化させました。自由の概念は生存する一人一人の生命欲求であり、愛の概念は哺乳動物が授乳によって獲得したホルモンであるオキシトシンという愛情ホルモン・幸せホルモンによる欲求です。思春期になると性ホルモンによって体は一気に大人へと変貌して行きます。性衝動と人間関係の構築は一朝一夕で可能な問題ではありません。大きな壁があります。誰もが失敗を重ねて成長します。社会の習慣、形式が無ければ何らの表現や行為も存在しません。そして、個人の生存欲求と社会との均衡を保つため支配権力は神と性を活用してきた歴史があります。
自由の概念は18世紀フランス革命で自由平等を理念として人権が確立されてきました。しかし、愛についてはフランス革命当時は友愛・博愛でした。「愛」は神の愛、家族愛、性愛、隣人愛などであり多様な意味があり統一されていません。それは私たちにとって社会生活が、人と人の関係や存在そのものが愛であるのに、神と人に愛を持ち込むからです。生存欲求として家族愛、性愛、隣人愛は人類共通であり汎用が可能です。
なぜ私が神や仏を信仰しないか、それは偶像でありシンボルであるからです。釈迦やイエスは実在した人物です。後世の人々によって都合良く祭り上げられました。私が嫌悪する所は、社会人として生活するために個人の生存欲求と他者との調和を図る必要があります。自己の生存欲求を制御し合意すべき処を見出す社会性、幼児から成長するに従って試行錯誤の中で徐々に学んで獲得する必要があります。しかし、自己中の人は自己の生存欲求を最大にするために神や仏を利用します。成長するに従って学ぶべき社会性が無く、幼児のままに自己の生存欲求を満たします。我は神と共に有り、それが私の信仰であり、自由であると正当化します。狩猟社会での奪う愛のママであり、今日の人権や平等の概念を理解できず、平和の意義すら問はない指導者達が人権侵害の最たる生存与奪を行っています。
12禁の理由、中学生になれば少しづつ自分の人生・世界を考える必要があります。難しい文章も少しずつ慣れる経験が必要です。12才の人には読むことはできても理解はほぼ不可能です。知らない言葉・概念が理解できません。高校になって少しは言葉の意味を理解しても実感・体感しなければ理解が進みません。しかし、18才になれば成人となり、16才には性交同意年齢になります。当時の私は自立心を欠いていました。逆に早く色気づいて自立させない、勉学に励みなさいという風潮が強くありました。現代でもそれは変わっていない人が多いかもしれません。しかし、依存から脱却し自立心を養うことは、独立した人格の形成に必須です。逆に他への依存がニートを生み自己中を産出させ、或いは脅迫自責からストレスと過労を重ねうつ病や病変を発症させてきました。米国のリンカーンは40才になれば自分の顔に責任を持てと言いました。人格形成に与える環境の恐ろしさです。
私は天邪鬼が自由でいいと考えていました。昨年、母親を亡くした時、母を苦しめたのは戦前の封建、女性差別であり、無くすことが母親への弔いであると考えました。しかし、天邪鬼の悪言で前述の幼稚園での運動会のダンス案内状の隠蔽は私が行った母親に対する明らかなイジメです。分別のない園児が母を差別していたのです。そうです、時代の中で母と同じように私自身もイジメられ踏みつけられていたのです。イジメの加害と被害は立場が違えども自由に生きる楽しい生活、人間性の崩壊です。良識や権威という社会常識です。まさに四天王に踏みつけられる邪鬼と同じだったのです。誰もが時代の中で初めは規範や価値観を受け入れて育ちます。そして社会と縁が続く限り、誰もが邪鬼の様に既成の価値観に押さえ付けられ、或いは逆に押さえ付けて生活しています。
邪鬼(じゃき)とは、 google AIより
仏教の世界において登場する鬼、四天王の足もとで踏みつけられている姿で表されます。四天王は、東方をまもる持国天、南方を増長天、西方を広目天、北方を多聞天の4体の守護神、邪鬼は、人に厄災を振りまく存在として、仏法のもとに懲らしめられている様子を表しています。
天邪鬼改め邪鬼天の誕生です。釈迦はインドの小国の皇太子として育ち、妻子にも恵まれた生活の中で人生に悩みました。不平等ではないか?死とは?苦しみのない人生とは?今日のように文明が発達しない当時の人々は天変地異は神の怒りであり、死後の世界を想像し信じました。釈迦は証明のしようのない話は無記とするしか無かったのですが、自らの教えで有る「自灯明、法灯明」によって死後はあるとした大乗仏教と変化しました。
邪鬼天は知っています。死後は感じる事が無い世界であり、少しの間は髪は伸びますが神は生きていない世界であると。つまり、あの世を信じていません。信仰は自分に対してであり、自己を創り揚げた過去から現在の他者への信頼という信仰です。自由と愛の概念の源泉は「天上天下唯我独尊」と「As far as I am you are here,As far as you are,I am there」限りある命、有限の存在である私自身の命と、命の連続性に対する希望であり絶対の信仰です。
四国八十八カ所で有名な弘法大師・空海にまつわる同行2人という言葉があります。四国一周するのでは一人で無く、大師と一緒に廻るという考えです。それは、「私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私も有る。」と同じです。クリスチャンで有ればキリストでいいわけです。自己を確立する上で信頼する特定の他者は必須です。一人では孤独であり、事に当たっては判断を迷い考える必要があります。先人と自己と同化することでアイデンティティを獲得し、迷うことなく自動的に判断できます。
司馬遼太郎は「21世紀に生きる君たちへ」を小学生に向け、「たくましく、やさしさありて、たのもしい」と21世紀には彼は生きていない30年ほど前に残しました。たくましく無ければ生きていけない、やさしさだけでは自分を見失う、両方があってこそ自己を確立した頼りがいのある人になると
今ではDNA解析も進み、生命は無の中から生じた奇跡の連続、雌雄の分離によって生命進化がさらに進み、人類は数万年の間に知能を飛躍的に進化させました。自由の概念は生存する一人一人の生命欲求であり、愛の概念は哺乳動物が授乳によって獲得したホルモンであるオキシトシンという愛情ホルモン・幸せホルモンによる欲求です。思春期になると性ホルモンによって体は一気に大人へと変貌して行きます。性衝動と人間関係の構築は一朝一夕で可能な問題ではありません。大きな壁があります。誰もが失敗を重ねて成長します。社会の習慣、形式が無ければ何らの表現や行為も存在しません。そして、個人の生存欲求と社会との均衡を保つため支配権力は神と性を活用してきた歴史があります。
自由の概念は18世紀フランス革命で自由平等を理念として人権が確立されてきました。しかし、愛についてはフランス革命当時は友愛・博愛でした。「愛」は神の愛、家族愛、性愛、隣人愛などであり多様な意味があり統一されていません。それは私たちにとって社会生活が、人と人の関係や存在そのものが愛であるのに、神と人に愛を持ち込むからです。生存欲求として家族愛、性愛、隣人愛は人類共通であり汎用が可能です。
なぜ私が神や仏を信仰しないか、それは偶像でありシンボルであるからです。釈迦やイエスは実在した人物です。後世の人々によって都合良く祭り上げられました。私が嫌悪する所は、社会人として生活するために個人の生存欲求と他者との調和を図る必要があります。自己の生存欲求を制御し合意すべき処を見出す社会性、幼児から成長するに従って試行錯誤の中で徐々に学んで獲得する必要があります。しかし、自己中の人は自己の生存欲求を最大にするために神や仏を利用します。成長するに従って学ぶべき社会性が無く、幼児のままに自己の生存欲求を満たします。我は神と共に有り、それが私の信仰であり、自由であると正当化します。狩猟社会での奪う愛のママであり、今日の人権や平等の概念を理解できず、平和の意義すら問はない指導者達が人権侵害の最たる生存与奪を行っています。
12禁の理由、中学生になれば少しづつ自分の人生・世界を考える必要があります。難しい文章も少しずつ慣れる経験が必要です。12才の人には読むことはできても理解はほぼ不可能です。知らない言葉・概念が理解できません。高校になって少しは言葉の意味を理解しても実感・体感しなければ理解が進みません。しかし、18才になれば成人となり、16才には性交同意年齢になります。当時の私は自立心を欠いていました。逆に早く色気づいて自立させない、勉学に励みなさいという風潮が強くありました。現代でもそれは変わっていない人が多いかもしれません。しかし、依存から脱却し自立心を養うことは、独立した人格の形成に必須です。逆に他への依存がニートを生み自己中を産出させ、或いは脅迫自責からストレスと過労を重ねうつ病や病変を発症させてきました。米国のリンカーンは40才になれば自分の顔に責任を持てと言いました。人格形成に与える環境の恐ろしさです。
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