石川啄木は、明治四十一年一月二十一日に釧路を訪れ七十六日間滞在したという。妻子を盛岡の妻の実家に託して単身津軽海峡を渡った、いわゆる北海道での放浪時代の一コマである。
旧釧路新聞社(現釧路新聞社とは全く別会社)に僅か二か月半勤務し、釧路に不満を残して東京へ去った。釧路での生活の委細を詮索する必要はなかろう。作品を「読んで感銘を受けたらそれだけで足りる。作者の経歴を知りたくなるのは人情だが、作品がすべて」と、故・山本夏彦がコラム集『一寸先はヤミがいい』(新潮社)で書いている。
久しく『釧路新聞』とは疎遠になっていたが、1月22日付の紙面に二箇所興味を引く部分があり、ブログの記事に取り上げた。
石川啄木を偲ぶ、第7回「啄木・雪あかりの町・釧路」のイベントで、市民から公募した二人が「啄木と小奴に扮(ふん)し、冷たい風に悩まされながらアイスキャンドルに灯をともした」写真(同新聞・第1面、黒田文夫氏撮影)と、啄木の放蕩三昧を揶揄する時事マンガ(同新聞・第4面、岩間宏氏作画)との対照の妙は、偶然か意図的か分からないが、なかなか粋な紙面作りではないか。
東京に戻ってもほとんど無収入の啄木が、金田一京助に生活の世話を受けながら、借金を重ねて一銭も返済しなかったことに、故・山本夏彦が伊藤整『日本文壇史』(講談社)を引いて、コラム集『ダメの人』(文藝春秋)で言及している。石川啄木は日常生活ではダメの人の典型だったのだ。
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