タックの庭仕事 -黄昏人生残日録-

≪ 私が英語を教わった先生 ≫

P1010660
 私は、裏山に熊が出没する山村に生まれ育ち、村の中学校で初めて英語を教わった。担任が、北海道学芸大学旭川分校を卒業して赴任したばかりの、技術科の先生で、技術の先生が他に一人いたため、英語と美術を担当した。村の中学校では、免許を持った英語の先生がいなくて、校長の命令で、だれかかれかが、嫌々ながら順番に英語を担当していた、と後年になって知った。己のジャングリッシュの原因を他に責任転嫁するするつもりは毛頭ないが、担任からの刷り込みは、小さくはない影響を及ぼしたと思う。
 高校での英語も似たような状況だった。「木樵」を、堂々と「ウッドォカッタァー」と発音する先生だった。その先生に、大学受験のための参考書を推薦してもらおうと、職員室を訪れたところ、雑然としたデスクから、明らかに出版社から提供された見本と分かる、埃をかぶった参考書を二冊取り出し、「これがよかろう」と手渡してくれた。奥付には、昭和26年初版発行/昭和31年改訂版発行、定価240円とあった。「二冊で480円、あとでいいぞ」といわれ、職員室を出たときの、なんとも形容しがたい複雑な気持ちは、今でも思い出すことがある。
 翌日、母は、貧しい家計費の中から黙って500円を出してくれた。日雇いの一日の出面賃が500円そこそこの時代である。大変な出費だったろう。培風館という出版社は、そのとき初めて知った。もともと英語は苦手の科目だったので、その参考書のおかげで成績が上がったとも思われない。ほろ苦い思いだけが残った。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「学芸文化」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事