チャイコフスキーはロシアの作曲家として有名ですが、実は祖先がウクライナのコサック(軍人)だそうです。
チャイコフスキーは2歳下の妹ととても仲が良かったそうで、1861年にその妹が結婚しウクライナ中部の町カミヤンカ(キーウ近郊)という町に移り住んで以降、その町やウクライナ各地を頻繁に訪れて数々の作品を作ったようです。
ロシアの攻撃を受け破壊された、チャイコフスキーゆかりの地は、ウクライナ東部ハリコフ(ウクライナ語:ハリキウ)市近郊のトロシュシャネツという町です。
チャイコフスキーが24歳の時、友人のアレクセイ・ガリツィン公に、このトロシュシャネツにある彼の別荘に招かれ、滞在中に、最初の交響曲作品の1つである序曲「嵐」を書いたゆかりの地です。
トロシュシャネツは人口約2万人の町ですが、ロシア軍によって破壊され、1か月の激しい攻防戦の末、3月26日にウクライナ軍が取り戻しました。
チャイコフスキーが滞在したガリツィン公の別荘は一部壊れ、離れの建物は全壊したそうです。(仏・Depasion紙より)
冒頭の妹の嫁ぎ先のカミヤンカの家では、交響曲第2番ハ短調作品17「小ロシア」(1873年初演)を作曲したとされています。小ロシアというのは、ロシアから見た当時のウクライナ地方のことを指しますが、この名称はもう使わない方が良いでしょう。副題をウクライナとしている音源もあります。
チャイコフスキーはこの交響曲の中に3つのウクライナ民謡を取り入れています。
(以下曲の説明は「世界の民謡・童謡」から引用)
第1楽章
ホルン独奏によりウクライナ民謡『母なるヴォルガの畔で Вниз по матушке, по Волге』の変奏曲が、第2主題ではリムスキー=コルサコフ『ロシアの復活祭』の旋律が転用されている。
第2楽章
中間部にウクライナ民謡『回れ私の糸車 Пряди, моя пряха』が引用されている。また、チャイコフスキーが1888年に作曲した幻想序曲『ハムレット』でも同楽章のメロディが転用されている。
第3楽章
具体的なウクライナ民謡は使われていないが、曲全体の性格として民謡風な響きをもつ。
第4楽章
第1主題としてウクライナ民謡『鶴 Журавель』が引用される。
ところで、ロシアのウクライナ攻撃が始まってから、欧米のクラシック音楽界では、親プーチン派とされるロシア人音楽家の降板・解任の動きが拡がっています。
特に、ロシアを代表する名指揮者ワレリー・ゲルギエフは、ロシアのウクライナ侵攻の翌日、ウィーンフィルやミラノ・スカラ座等から降板を言い渡され、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者の職を解任された上、所属事務所からも解雇。以前からロシア国粋主義的発言が目立ち、プーチンとの距離の近さが問題視されていました。
ミュンヘン市長からの最後通牒は、「プーチンが仕掛けた残虐な侵略戦争を批判してほしい。そうでなければ契約を打ち切る」で、それに対してゲルギエフは返答をしなかったということです。
3/27日経新聞に掲載された同紙の赤川欧州総局長の文化時評によれば、
音楽が政治と無縁というのは幻想だ。強権国家で芸術家の地位が高くなれば権力に近づくことを、欧州は経験則として知っている。
高い芸術性があっても政治プロパガンダに協力すれば、汚点は一生ついてまわる。それはナチスと共産独裁という2つの全体主義を経験したドイツで特に顕著だ。かつてナチス党員だった指揮者カラヤンも負の過去を背負い続けた。
欧州にロシアのオケを招くのは難しい。興行収入が経済制裁の抜け穴になるからだ。日本もこの緊張感に鈍感ではいられない。
1989年のチェコスロバキアの共産独裁を終わらせた無血民主革命を率いた劇作家ハベルのように、「待ち望まれるのは強権を支えるのではなく、倒す芸術」、と述べています。