B年.年間第30主日
表紙
「先生、目が見えるようになりたいのです」
入祭唱
「神に渇く者の心は喜びに満たされる。神を求め、いつもその顔を慕い求めよ」
第一朗読(エレミアの預言)
「わたしは、目のみえない人も、歩けない人も、慰めながら導く」
答唱詩編(詩篇126・1~6)
「涙のうちに種撒く人は、喜びのうちに刈り取る」
第二朗読(ヘブライ人への手紙)
「あなたこそ永遠に、メルキゼデククと同じような祭司である」
アレルヤ唱(二テモテ)
「わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、福音によって生涯を照らしてくださった」
福音説教(マルコ10・46~52)
「先生、目が見えるようになりたいのです」
「’09.10.25.にカトリック飯田教会にミサがありました。英語ミサでした。主任司祭であられる伊藤隆神父様がミサをなさいました。この原稿は、そのミサに措ける伊藤神父様のご説教を、わたくしのメモ書きから起こしました。)
「今日のマルコ10章では、目の見えない人が道端で物乞いをしている。昔のことです。現代では、障害を持っていても年金などがあります。でも、当時、政府から特別の援助は貰えなかった。だから、どうやって生きていけばよいのか?家族の助け・物乞いが、唯一生活の手段でした。そんな生活の中からのイエスに対する叫びです。われわれのような軽い叫びではなかった。生きるか死ぬかの叫びだった。他の箇所でも、足萎えの人や15年間出血の止らなかった人の叫びがあります。それは、自分の心の奥の深いところからの叫びです。それは、われわれが忘れている叫び。喉から血の出るような叫び、喉から血の出るような祈り。それをわたしたちは忘れてきているのではないでしょうか?言って悪いですが、わたしたちは生温い中で生きているんではないんでしょうか?それと違って、ここは心の深いところから吐き出すような祈りです。それをわたしたちは無くして来ているではないでしょうか?世界を見た時、苦しんでいる人が沢山います。今現在、生きるか死ぬかの人が沢山います。最近TVで見たのは、若い奥さんです。旦那さんと別れたのか亡くしたのか、母子家庭でした。2人子供がいます。子供を預けて働きたいのですが、保育園が満杯だそうです。生活保護で子供を育てることを考えています。母子加算で助かったと言っていた。そのようにすぐ側に悲惨な思いで生きている人が沢山います。そういう人達のために、わたしたちは祈らなければなりません。人々の救いのために、人々の幸せのために、わたしたちは、祈らなければなりません。それがわたしたちの使命であり、義務です。それは神の思いでもあります。神様は全人類がすべて幸せになることを心から願っておられます。だから、人々の苦しみ・悲しみのために本気になって祈ることを求めておられます。わたしたちの生活は、言ってみれば、まあまあの生活です。喉から血の出るような叫びはありません。でも、世界には、本当に祈りが必要な人々が沢山います。そういう人のために、わたしたちは祈りたいと思います。皆のために祈る。それがキリスト者の大切な使命だと思います。」
共同祈願
「神よ、すべての人に救いの喜びを」
拝領唱
「キリストはわたしたちを愛し、わたしたちのために、神への香り高いささげものとしてご自分をお渡しになった」
notes
1 11/2(月)は死者の日のミサ。インテンションを書いてください。来週11/1(日)ミサまでに。
「Lectio Divina」「毎日の福音」は別に載せます。
表紙
「先生、目が見えるようになりたいのです」
入祭唱
「神に渇く者の心は喜びに満たされる。神を求め、いつもその顔を慕い求めよ」
第一朗読(エレミアの預言)
「わたしは、目のみえない人も、歩けない人も、慰めながら導く」
答唱詩編(詩篇126・1~6)
「涙のうちに種撒く人は、喜びのうちに刈り取る」
第二朗読(ヘブライ人への手紙)
「あなたこそ永遠に、メルキゼデククと同じような祭司である」
アレルヤ唱(二テモテ)
「わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、福音によって生涯を照らしてくださった」
福音説教(マルコ10・46~52)
「先生、目が見えるようになりたいのです」
「’09.10.25.にカトリック飯田教会にミサがありました。英語ミサでした。主任司祭であられる伊藤隆神父様がミサをなさいました。この原稿は、そのミサに措ける伊藤神父様のご説教を、わたくしのメモ書きから起こしました。)
「今日のマルコ10章では、目の見えない人が道端で物乞いをしている。昔のことです。現代では、障害を持っていても年金などがあります。でも、当時、政府から特別の援助は貰えなかった。だから、どうやって生きていけばよいのか?家族の助け・物乞いが、唯一生活の手段でした。そんな生活の中からのイエスに対する叫びです。われわれのような軽い叫びではなかった。生きるか死ぬかの叫びだった。他の箇所でも、足萎えの人や15年間出血の止らなかった人の叫びがあります。それは、自分の心の奥の深いところからの叫びです。それは、われわれが忘れている叫び。喉から血の出るような叫び、喉から血の出るような祈り。それをわたしたちは忘れてきているのではないでしょうか?言って悪いですが、わたしたちは生温い中で生きているんではないんでしょうか?それと違って、ここは心の深いところから吐き出すような祈りです。それをわたしたちは無くして来ているではないでしょうか?世界を見た時、苦しんでいる人が沢山います。今現在、生きるか死ぬかの人が沢山います。最近TVで見たのは、若い奥さんです。旦那さんと別れたのか亡くしたのか、母子家庭でした。2人子供がいます。子供を預けて働きたいのですが、保育園が満杯だそうです。生活保護で子供を育てることを考えています。母子加算で助かったと言っていた。そのようにすぐ側に悲惨な思いで生きている人が沢山います。そういう人達のために、わたしたちは祈らなければなりません。人々の救いのために、人々の幸せのために、わたしたちは、祈らなければなりません。それがわたしたちの使命であり、義務です。それは神の思いでもあります。神様は全人類がすべて幸せになることを心から願っておられます。だから、人々の苦しみ・悲しみのために本気になって祈ることを求めておられます。わたしたちの生活は、言ってみれば、まあまあの生活です。喉から血の出るような叫びはありません。でも、世界には、本当に祈りが必要な人々が沢山います。そういう人のために、わたしたちは祈りたいと思います。皆のために祈る。それがキリスト者の大切な使命だと思います。」
共同祈願
「神よ、すべての人に救いの喜びを」
拝領唱
「キリストはわたしたちを愛し、わたしたちのために、神への香り高いささげものとしてご自分をお渡しになった」
notes
1 11/2(月)は死者の日のミサ。インテンションを書いてください。来週11/1(日)ミサまでに。
「Lectio Divina」「毎日の福音」は別に載せます。