作家の向田邦子さんは初めて預金通帳を作った日、同じ電車に乗り合わせた見知らぬ人たちの顔を見てはこんな空想をしていたそうだ。「あの人はいくら預金を持っているかしら」▼思い当たる人もいるか。さすがに預金額までは思わないが、車内でたまたま目の合った人の人生や生活をふと想像するようなことはある。そして、この人にも親や子がいて、やはり良いことばかりとはいえぬ生活を大切に送っているのだと思えば見知らぬ人にも少し優しい気持ちが生まれもする▼刃物を振るう前に車内の人たちの家族や暮らしへの想像は一切、働かなかったのだろう。日曜の夜、東京都調布市内を走行中の京王線車内で男が刃物で乗客に切りつけた事件である▼一人が重体となっている。逃げ惑う人々や車内に火の手が上がる映像に震え上がる。走行中では逃げ場もない。居合わせた人はどれほど怖かったか▼男は映画「ジョーカー」を思わせる服装をしていた。仕事がうまくいかず、事件を起こして死刑になりたかったと供述しているとも聞く。不幸な環境によって冷酷な悪党になっていく映画に自分を重ねたつもりか。一切、同情できない。どんな事情があろうとも誰かを傷つけてよい理由など断じてない▼八月、小田急線でも似た事件があった。電車に乗り合わせた人を見て、胸底の悪意まで想像しなければならぬ時代にうめく。