欧米にはなぜ寝たきり老人がいないのかという記事を読んで
その中で、ある方の意見を引用させて頂きます。。
手を振って 小春日和を 父は逝く
・・・父の旅立ちにふさわしい朝だった。
楽しかった、楽しかったと振り返り、しあわせな人生だったと繰り返し語って逝った父。
残された人生が、あと1日か1週間か1ヶ月かそれは神様にしか分かりませんと主治医に告げられてから6日目のことだった。延命治療を選ぶか否かを問われ、私は即座に父がそれを望んでいないことを告げた。
これはきっと最後の親孝行だと信じたからだ。
父は最後の6日間で、人間はどの様に人生を終わらせるのかを私にしっかり教えてくれた。
体格のいい堂々とした父の体が少しずつ小さくなり始めたのは、数ヶ月前からだった。
2ヶ月まえからは輪郭がぼやけるような感じさえし、空気に溶けていくような透明感が伝わってきた。
77歳の誕生日に桜を見に奈良へ出かけ、喜寿のお祝いに家族で夕食を囲んだ際、きれいな桜だったと嬉しそうだった父。
大げさな父は元気な頃から毎年のように、あと何回桜を見れるだろう?と言って、家族を驚かせていたものだったが、
その春は一度もそれを口にしなかった。そのときは不思議だったが、今となってみると分かっていたのか?と思い出す。
そして、少しずつ眠る時間が増え、食事をしなくなった。
人生を終わらせる人間にとって必要なことと不必要なことが何かをじっと見せてくれた。
だからこそ、不必要なことが見えたし、父が不必要なことはするなと言った意味も理解できた。
この理解する瞬間を、今あまりにも多くの日本人は逃しているような気がする。
人は誰でも、人の死を通してしか死を意義あるものにできないと思う。
こんふうに人生は終わるんだよ・・・と、潔くごく当たり前のことのように笑って手を振って逝った父。
だからこそ、私は今父に感謝して日々を過ごしている。
自分も父を癌で亡くして、今80歳の母は骨粗鬆症から圧迫骨折を起こし
2年半 現在ほとんど
寝たきり状態。
本人の思う通りに我が儘をきいて、それが良かったのか?
他人に何と思われ様が、言われ様が、母の要望を聞いて
ワザと見て見ぬ振りをしていた。
現在、関節はガチガチに固まり一人でトイレにも今週 行けなくなった。これからもダメだろう。
母は、自分がオムツを替えるのをあんなに拒んでいたのに…
今日の朝替えました。オレが
今朝、本当に泣けてきた
あらためて、欧米にはなぜ寝たきり老人がいないのか?
答えはスウェーデンで見つかりました。認知症を専門にしている家内に引き連れられて、認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。
その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。
ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。