↓の大阪城と同じ日に
すぐ近くの<難波宮跡>の桜を撮りに行きました
難波宮は645年
中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我氏を倒した「乙巳(いっし)の変」の後
孝徳天皇を擁立して難波に遷都し造営を行った<難波長柄豊碕宮>
であることが確実となった。
(本から写真を引用)
昭和29年以降発掘調査され
「日本書紀」に「言葉に言い表せないほど立派である」と表現された
宮殿の姿が明らかになってきた。
発掘された木簡と土器
↓前期難波宮の宮殿復元予想図
前期難波宮は天武天皇の朱鳥元年(686年)に焼失したが
もうひとつの後期難波宮は
聖武天皇が即位後まもなく難波地域の政治的経済的な重要性を考え
726年から造営を始め732年ごろ完成したと考えられている。
後期難波宮の大極殿や朝堂院などの建物は
延暦3年(784年)の長岡遷都にあわせて解体され
長岡宮の中枢部として再建された。
↑大阪歴史博物館から望む難波宮跡
(斜め向かいの↓歴史博物館とNHK)
前置きが長くなりましたが
今は広い公園になっている難波宮跡の桜です
前の大阪城の桃と同じく地面のグリーンを背景に
長々とお付き合いありがとうございました
すぐ近くの<難波宮跡>の桜を撮りに行きました
難波宮は645年
中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我氏を倒した「乙巳(いっし)の変」の後
孝徳天皇を擁立して難波に遷都し造営を行った<難波長柄豊碕宮>
であることが確実となった。
(本から写真を引用)
昭和29年以降発掘調査され
「日本書紀」に「言葉に言い表せないほど立派である」と表現された
宮殿の姿が明らかになってきた。
発掘された木簡と土器
↓前期難波宮の宮殿復元予想図
前期難波宮は天武天皇の朱鳥元年(686年)に焼失したが
もうひとつの後期難波宮は
聖武天皇が即位後まもなく難波地域の政治的経済的な重要性を考え
726年から造営を始め732年ごろ完成したと考えられている。
後期難波宮の大極殿や朝堂院などの建物は
延暦3年(784年)の長岡遷都にあわせて解体され
長岡宮の中枢部として再建された。
↑大阪歴史博物館から望む難波宮跡
(斜め向かいの↓歴史博物館とNHK)
前置きが長くなりましたが
今は広い公園になっている難波宮跡の桜です
前の大阪城の桃と同じく地面のグリーンを背景に
長々とお付き合いありがとうございました