辺見庸さんの最近のブログ記事に、相模原やまゆり園障害者殺傷事件の植松聖氏(辺見氏はさとくんと呼ぶ)のことで
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にしても、わざわざ拘置所まででむき、まるで
珍獣でもみるようにかれと面会した連中の心底
のいやらしさよ!軽さよ!うす汚さよ!
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と書いて締めくくってありました。家族に台所でその話をすると、すぐに理解して頷いて
「みんなが内なる植松と向き合うはずのところを」との旨返され
「障害者を差別していない人なら、彼を珍獣のように見に行く資格があるよね」と言ってみると
「そうだね でもこの日本の空気を吸って生きていて、そんな人は誰もいないんじゃない」
「障害者当事者は、差別してないよ だって自分自身がそうなんだから差別しないよ」
「障害者同士でも、”あいつより上”とか”身体障害者は精神よりも上”とか、あるでしょ
学校や病院や施設内での障害者同士の差別ってあるよ」
「そうだね よく聞くよ」 聾学校での序列など、当事者から聞いていました。
(それに ”自分は手帳を持っていないから障害者ではない” ”あの人も手帳は持っていない。でもあなたは
持ってる。”と言って手帳のあるなしにこだわって人を区分し序列づけして、一緒にするなと言わんばかりに
自分の「健常ぶり」「非障害者」を必死になって主張する人が、「社会運動」の中にいるし。)
…そんな話をして、自分のことを、棚に上げることはできない ことを思いました。
差別はいけないと主張し「運動」しながら、自分はその差別的な規範(例えば在日とか差別とか障害者)の中で
被差別の立場でないことを抜かりなく知らせて「※私は違いますよ」とアピールする人は
あからさまに差別を言う人よりも 社会にとって害悪だと感じるとも話しました。
差別はいけないといいながら、自分自身が差別をしている。その規範の中で、自分だって物を見て、価値基準内にいることを
知らせ、立ち回っている。自分はそう(在日やや障害者)でない と抜かりなく。そういう人が「社会運動」の中にいました。
規範を否定しながら、その中でものを測り、マウンティングしている。その無自覚の差別意識、価値判断はややもすると、
ノンポリの普通の人以上に見えました。それと抗い闘っているはずの規範を、一等気にしているように見えました。
差別するなと人には言い、自分こそ差別している。邪悪である。
それよりは、差別的なことをもろ出しにして言う人の方が潔し。はるかに善し。
私は、社会にとって真に有害なのは、このような欺瞞だと思っています。
スピークしている号令と中身が真逆に乖離していることです。 self-deception performative contradiction
Pretenders speak Loud
↑
↓
hollow inside
(関連: 「迂遠なる時間」のおじちゃん 「ハートウォーミング」の擬装 「迂遠なる時間」のおじちゃん② )
辺見さんは、「私がメンヘラと親和性が高いのは私がメンヘラだからだ」との旨書いていました。
「※私は違いますよ」と言って「健常ぶり」「非障害者」をアピールする人の対極にいるやさしいおじちゃんです。