感覚のへし曲げは誰かの利益に繋がっている 本当のことは声が小さい
自己決定権の罠② の続き。
身体の声や感覚の声は、小さいけれど、賢明。
今までの経験や感覚を一瞬でインテグレートしたもの。静かで偉大な叡智。
今欲しがっている物、今ないから補おうとしている物をちゃんとわかっている。
それなのに「専門家の知識」「有識者の意見」といった大きな声が、その叡智を
土足で踏み荒らして来て、主張のない小さな声をかき消してしまう。
大きな声は理路整然としていて強そうで饒舌で、「我こそ正しい」然としていて
小さな声は整然とはしてなくて、か弱くて「我こそ正しい」然としてなくて一瞬で、風前の灯のよう。
だから大きな声が勝ってしまう。でも、大きな声で決めたことは、だいたい間違っている。
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私が詐欺に遭った時も、自分の身体や経験などからの感覚はことごとく、非凡なる超越者(詐欺師)
の人の強い声によってかき消されてきた。でも結果わかったことは、生活者として備えてきた自分の
感覚の方がずっと賢くて正しかった。その感覚は、その非凡なる超越者(詐欺師)の人の考えよりも
複雑で精密に多くを思慮し、遥か先を行っているものだったのに、その人の強い声(100周遅れの雑言)
に負かされてきた…。そこには、「あなたは無知だ。私こそが、正しいことを知っている」
「私以外の人間はなにもわかっていないめくら凡人だ。」という洗脳、俗に言えば
マウント(自分を優位に保つ行為)が常に行使されていた。 …… 本当にばかですね… 泣 泣
普通に聴いたら100周遅れの阿然な言葉に対して「私のような一般人にはわからない奥深い考えが
そこにはあるのだろう。彼は私達の見えない遥か先を行っている」と変換していたのだった。
それは彼が日頃しかけていた人心操作の賜物だった。この、見せかけの超越主義には
ものすごい効果がある。私が馬鹿だっただけかもしれないけれど。普通だったら阿呆過ぎて
相手にされない発言も、「それは一般人がめくらで何もわかっていない」ことにできて
絶えず洗脳されたカモはそう思ってしまうのだ。理屈や道理による真っ向勝負を最初から
投げ出した、極めて悪質な詐術である。自分が遥か上で相手が下だと刷り込むことで、
当たり前も当たり前じゃなくして、白を黒にして、天を地にして、晴を雨にできる。
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歩んできた中で自然と育まれて備えてきたものを、甘く見積もってはいけないことを学んだ。
敬意をもってappreciateすべきだったんだ。それらは声が小さくて、すごいんだぞアピールがなくて
至って静かなものだけど、そこを踏みにじるものを許してはいけなかったんだ。
小さな声に逆流するものへの違和感を、許してはいけなかった。
私はこのことを、子どもにも伝えたい。彼はまだ小さいけれど、だんだんと。
絵描きの女性が言っていた。最初に「これ」と思うものがだいたい正解だと。総合的な判断が
それなのだと。真っ先にそれをいいと思っても、色んな理屈で別のものを選んでしまった経験。
その時の理由づけは実に雄弁に頑張って行われる。でもそれこそが、その選択が間違いである証左。
本当に自分がいいと思うものを、雄弁に理由づけして言い聞かせる必要などないのだから。
ただ静かにそれを迎え入れて満足して喜べばいい。
例えば一緒にいたい人がいたとして、その感情を自分に説得する必要などないでしょう。
収入が高いとか、安定してるとか、「温厚だ」とか、人付き合いが「円満だ」とか
理由を列挙して自分に言い聞かせる必要があるならば、それは
本当にはしたくないことを無理にしようとしている時だと思うのだけど…