こんな小文を知りました。
「僕は精神が好きだ。」 大杉栄(1885-1923)
僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭いやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。
この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。
初出:「文明批評 第一卷第二号」文明批評社、1918(大正7)年2月1日
大正時代に、すごい人がいたんだなと思いました。だから伊藤野枝さんらと一緒に殺されたのでしょう。
世の中は、論理や法で動いているから(動いてないけど>< 全然動いてないけど)、自分に起きたことに対決する為に
法や理論を学んだり、自分の訴えを理論立てしたりする時などに、心の片隅にひっかかって消えない思いを、大杉さんが大正時代に文章にしていました。
大杉栄さんと野枝さんについてもっと知りたくなりました。(関連記事:土俵に乗る罠 闘いにおけるジレンマ)
法や理論の、盲点というか死角みたいなものがあって、それは、やわらかいもので
声は小さいし 四角くないし 直線じゃないし 対外的な説得力はないし 客観的なエビデンスも揃わないし
とにかく、最近流行ったプレゼン能力はないです。
でもそれを無視すること自体が大きな過ちであり、それに対して目を向ける余地が寸分もないなら、
いくら頭が切れても、どんな立場・信条であれ私は危うさを感じます。私はこの小文を読み、勇気みたいなのを覚えました。
彼はこういう言葉も言っています。「美はただ乱調にある。諧調は偽りである。」
気づいてないけど既に色々嵌っている中で、罠に嵌らないようにと思っています。
それは、論理の土俵に乗る罠です。実際には、論理も法もない、やりたい放題の日本社会ですが。
こういう、論理がそんなに偉いのか みたいなことを言うと、驚くべき解釈で
己の浅ましい目的の為に都合よく濫用してくる人達がいるのですが、(関連:日本の雑居的無秩序性)
心の片隅で揺れている自由でやわらかなものの灯は、ずっと消えないようにしたいです。