私は引っ越しが多く、動きの多い半生を歩んできました。
色んな土地を経験できたのはよかったとも思いますが、多動は、よくないと思っています。
フジコ・ヘミングも似たようなことを書いていました。彼女はかつて、なにかあるとよく引越しをしていたそうです。
場所を変えて、人生の流れを変えたいという期待で。でも同じ場所にいたほうが、望む場所には早く行ける
と、お婆さんになった彼女は書いていました。
わかる気がします。
色々動き回ることで、返って内面的な進歩や変化が遠のき、毎日の繰り返しの中で、それがやってくるって。
アインシュタインも相対性理論を発見できたのは、単調な仕事をしていたおかげだと言っています。
私も、内面的に充実して満たされた日々を送っていた時期は、変化のない静かで平穏な日々でした。
外的には変化がなく、内的には変化をしていました。内なる饒舌は、外なる静けさが支えます。
引っ越さないといけなくなって、静寂が壊されて、哀しかったです。
老子と荘子の老荘思想 「無為自然」 「無為にして為さざるはなし」
作為的なことをせずとも、無為にして無常で多様である。タオ 道教
建築家のおじちゃんも、そういう考えが根底にあります。(関連:呼吸する建材、漆喰)
「木の窓枠は、窓枠であるとともに、それ以上のもの、大地の記憶をもっている。それ以上の何か、それを
無償性と私達はいうのだ。柱は柱以上の何か、壁は壁以上の何か、板の間は板の間以上の何か、屋根は屋根以上の何か、
土間は土間以上の何か、それぞれの意味を超えた何か大きなものにつながっている」
「自然の素材がわれわれに与えてくれるものは、なにものにもかえることの出来ない精神のやすらぎである。
それぞれの技術のレベルを超えて、それ以上のなにか、プラスアルファを恵んでくれる」
「自然は深く多様であるがゆえに、自然素材でできた家屋もまた深く多様である」 小林澄夫
私が奇抜なモダニズム、ポストモダニズムが苦手なのは、こういう静謐な感受性を持ち合わせていないからです。
奇抜さ、衒い、途方もなさ、ものすごさetc.. を押し出すものは、無為の多様を見えなくしてしまいます。
顔芸をしたり、腰を振って登場したり、目立つパフォーマンスをするピアニストにも醒めてしまいます。
聴衆だけでなく色々見くびっている態度だと思います。
フジコ・ヘミングの、一切そういうことをしない、ピアノへの無骨で真摯な態度が大好きです。
持続可能な発展とは、聴こえがいいですが、国連持続可能な開発会議の壇上で
「発展などしなくていい」と言った大統領がいます。
世界でいちばん貧しい大統領、ホセ・ムヒカ氏(第40代ウルグアイ大統領)のスピーチ
「私たちは発展するために生まれてきたのではない。幸せになるためにこの地球にやってきたのだ」
作為的な「発展」は、必ず誰かの利益に繋がっている。要らない。
(関連:遠き山に日は落ちて)