三沢孔文氏の「伊那市福島の綿打唄-伊那の民謡(十一)-」も『伊那路』昭和38年4月号に掲載されたものである。当時の寄稿には、民俗にかかわるものが多かった。
三沢氏自身が現在の伊那市福島の方。戸数の割に田地が狭かった福島では、兼業者が多く、明治初年から30年ころまで冬季の副業で綿打をする家が多かったという。とはいえ三沢氏によると、その当時(明治初年から30年ころと推測)120戸と言われた村内に綿打をした家は11軒だったというから、それほど「多い」と言えるかどうか。当時の経験者を訪ねて唄を採取しようとした三沢氏である。しかし当時の唄を「忘れているのには驚いた」と述べている。
○アアヤレヨヤレヨ 綿打しんしょぅ知れたもの弓一分かご二朱槌が三百 アアヤレヨヤレヨ
○アアヤレヨヤレヨ 子ども精出せ一把よりや四文あだじゃ稼げぬ 辛棒しろしろ
こうした副業は娘達の担ったもので、次のように綿打のことについて記憶をたどっている。
私の小学校入学頃近所に綿倉があって、滑らかな板の間でヤレヨヤレヨで打って居るところを見た。奥に娘たち七、八人が並んで膳箱に似た撚子箱を据え・長い箸の様なもので撚子(ローソク位)をよって居たものであった。
光る板の間へ原綿をひろげ、ペンペンと弓絃を槌で鳴らし乍ら綿をほかし散らし一渡りすむとサーッとかき寄せて、又唄に合せてほかして行く、紺もも引きに紺足袋鉢巻姿で仲々粋なものに見えた。
弓はまねきに釣り下げてあるから働きに自由がきくという原始的な仕掛でもあった。
「一把撚りゃ四文」井口きわさんの話によると、一把五文位であった。手早い人で一日に二十五把、遅い人で十五把位撚った。平均二十把とし一日金拾銭位の日当を貰って嬉しかった。しかし撚子は柔いのが上等であるが、手早い人のは堅く、遅い人のは柔いというから面白い話だ。
この撚子を糸車でつむいで糸にし、紺屋で染上げて、機織をして布団や着物を造ったのだからつつましい手工業であり、又一反織り上げた喜は大したものであった。と。
紺屋は村内に無く、隣村卯ノ木と狐島へ行った。「紺屋のあさって」の話も仲々面白いのがある。ストップオッチの無かった時代ののんびりした話を聞くと醍醐味がある。
ほかに次のような唄を採録している。
○お前とならばどこまでも奥山のさいかち原の中書までも
○撚子よる衆の青竹や長い主と寝た夜の短かさよ
○私ヤ甲州綿打の娘うそなら寝て見ろ肌の味
○鐘が鳴ります鍋かけ鐘がおつよの匂いがして来るよ
○ほかし上手で唄上手 も一度願いますおついでに
○何の因果か綿打ョ習うて撚子よる衆に気がねする
○私ヤ奥山日かげの楓なんば咲いても日はささぬ
など。娘たちが歌ったのだろうが、色唄が多い。
さて、興味深い記述が末尾の「註」にある。
福島は箕輪領福島村で、文化の中心は木下陣屋であった。従って明治十九年伊那村となり二十二年伊那町に合併するまでの、福島は北向文化であったことが、この綿打唄に関連しても交通が明になり、又、伊那市中心の南向文化に移行される時代が綿に関した資料からうかがえるものが多かろうと考えられる。
「北向文化」「南向文化」という表現である。「文化」の詳細は判然としないが、これは単純に向いている方角を表したかっただけなのか、それとも実際のところそういう言い回しが当時はあったのかどうか。とりわけ地域にこだわるわたしには興味が募るところである。
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