今年は公民館活動の地区役員となる。もう15年ほど前にかかわって以来のこと。そもそもこの地で生まれ育ったわけではないので、よそ者がそれほど地域にかかわることは、こうした活動以外にない。この後、地域組織へのかかわりが多くなる。ということはいわゆる一線を退いた後の「地域貢献」のような時代が訪れる。鬱陶しいと言ってしまうと、叱られるかもしれないが、本音のところは事実だ。コロナ禍でこの1年はほとんど活動が途絶え、口々にこの1年の役員には「良かったね」を投げかけてしまう。もちろんこの後もまだ完全ではないが・・・。
先日役員会の席でこんな話があった。「ほんやり」誰が担うものなのか、と。ほんやり、とはいわゆるドンド焼きのこの地域特有の呼称である。かつてPTAの役員を担っていたころは、PTAが全てを担っていた。ところがコロナ禍の今春は、子ども達の参加はなく、PTAと公民館役員のみで行われたという。これはあくまでも臨時の措置だったが、PTAの当事者だった役員の一人から質問されたのである。そもそもPTAが担うというスタイルが大昔からあったわけではない。子ども達によるものなのか、あるいは青年組の人々によって行われたのか、地域によって異なるだろうし、その実態ははっきりとわかっていない。しかし、かつて地域社会にあった集団が担っていたことはおおよその予想だ。青年組がなくなり、子ども達が担ったのか、あるいはもともと子ども組のような組織によって担われたのか、いずれにしても子どもに近いところで行われた伝承が数多い。しかし、子どもの減少とともに、組織はもちろんのこと、子ども達だけで火を扱うことの危険性が叫ばれてのこともあるのだろう、結果的に子ども達の親が担うようになったというのが流れだろう。多くの地域でPTAのかかわりが強くなった。子どもがそこそこいればそれでよかっただろうが、子どもが少なくなれば子どもやその大人たちだけの活動も大変となる。地域でもこの先子どもが減ってかかわる家庭数が減れば、準備もままならないというのだ。ということで、この後公民館の役員がかかわらざるを得ないという雰囲気。
そして、そもそも「やる必要があるのか」という問いも。もしほんやりがなくなったらどうなるか。松飾りの処理ができなくなるだけのこと。燃えるゴミに出せば済むことだし、農村地帯だけからそれぞれの家庭で燃やしてもできないことではない。というより、そもそも飾りをしなくなるだろう。いまだ初詣をする人は多く、コロナ禍でもわかったことは神に頼る人はいなくもないが、神の存在は祈りの先の象徴的なもので、神がいて「救ってくれる」と現実的に考えている人は少ないだろう。それほど神の姿はわたしたちの暮らしから消し去られた感が強い。ようは、この先とりあえず神を相手にしたような行事も、形式的なものはことごとく衰退する可能性は高い。それほどこの後の世代は、そこに必要性を感じていない、と思った。
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