この季節、電車に乗っていて気になるのは、線路と民地境界との空間だ。ススキが背丈以上に伸びて、周囲の景色さえ消しそうなところもある。さすがに雑木については電車に当たり障りのあるところは除去されるが、そうでもなければやはり伸び放題だ。運行上支障がなければ、この空間に手を差し伸べることほど無駄なことはない。かといって周囲の人々がこの空間に手を出すのは御法度だ。この空間には電車を制御するケーブルなど大事なものがある。かつて、駅のホームの雑草があまりにも目障りだったので、刈払い機を持って行って刈り倒したことがあったが、本来これをするのもどうかと思った。ホーム上にも大事なものが埋設されていて、不用意に何かを破損でもさせたら大変なことになる。本来管理者であるJRが整備するべきところなんだろうが、赤字路線など手に負えないことだろう。かつては老人クラブなるものがあって、清掃美化奉仕がされていたようだが、今はそんな組織もない。刈払い機を利用するほどでない程度で、日々美化に取り組まなければ、他人が手を出せる代物ではない。管理者が手を出さない以上、周囲がどれほど管理が行き届いていても、ここに異空間が登場するというわけだ。
先日、地元の随筆を集めたような機関誌を読んでいたら、わたしのいつも利用している駅のことについて触れたものがあった。隣の筆者の地元の駅と比較してわたしの利用している駅を例えに上げていた。無人だからということもあるのだろうが、“殺風景”だと言うのだ。時刻表と乗車賃を示した看板はあるが、貼り紙といえばワンマンカーの乗り方を記したものなどJRの注意を呼びかけたものくらい。いっぽう筆者の利用する駅には祭りの告知や催しの告知など貼られていて、時期が過ぎればまた新しいものが告知されていく。筆者は駅員がいなければ「こんなにちがう」ということを言いたいのだろう。その駅も無人化が決定したものの、町などが入って日中は管理者が常駐するよう留めた。努力して有人を確保したことについて、地域の思いが違うとばかり地域愛をかかげるがそもそも駅の境遇が異なる。町の中心街のお膝元の駅と、昭和の合併によって衰退した周縁部との違いだ。それを覆す事例など見たこともない。自然の成り行きであって、地域愛の差異ではない。
駅の利用方法についてかつても触れたことがあるが、本来なら地域の人々が利用できるようなスペースであって欲しいが、あくまでJRの所有物である施設であるから簡単ではない。とりわけ利用頻度が低いとあっては、地域の人々も目を向けていない。やり方はいろいろあるのだろうが、行政が入らなければどうにもならないことだ。にもかかわらず、駅は「地域の窓だ」みたいなことを口にする人がいまだに多い。もちろん表向きは行政もそういうことを口にするが、本気で何とかしようなどという気持ちはない。リニアと飯田線はやはり別物なのだ。こうした視線をあてている以上、鉄道が網として機能することは、この谷にはありえない。
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