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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「十二月」

2017-03-10 23:03:53 | 民俗学

天龍村大河内の観音堂に供えられていたタチギ(2015.4.2)

 

 先日の「下伊那の道祖神⑭」で触れた大河内の道祖神は、「大河内越え」を記した2年前の4月2日に撮影したもの。「大河内越え」で触れたお地蔵さんの前には、木片に「十二月」と書かれたタチギ(タッチョギとも)が置かれていた。これはフシノキを割って「十二月」(閏年は「十三月」)と書き、あるいはそれに屋号をかくものという(『大河内の民俗』天龍村教育委員会 昭和48年 173頁)。そしてこのタチギを持って村じゅうの墓や宮を拝んで歩くもので「ムショマイリ」という。小正月の年取り前に行なわれるもので、その際には団子や餅・米などを持ってタチギと共に供えるのだという。ムショは墓地の意味で、よその墓地を拝むのは無縁仏のためだといわれている。ようはこれが年が明けて初めての墓地参りということになるのだろう。「十二月」はこのほかにニュウギにも書かれる。小正月を前にした11日にニュウギビラキが行われ、松やマキを割ったニュウギに「オニを書く」といい「十二月」(閏年は「十三月」)と書く。このニュウギを門松柱に松の木2本にしばりつけたハザの所にたてかけるのだという(以上前掲書)。大河内ではタッシャギとニュウギは別のものとされているが、周辺では混同されたり同一のものとしている地域もある。生家(飯島町)ではオニギと呼び、ヌルデの木を二つに割って割口に「十二月」と書いたものを神棚などに供えた記憶がある。

 

 

 

 このように「十二月」といった文字あるいは線をまきに書いて門先などに出す風習は、わたしの記憶の中では「小正月」というイメージだったのだが、先ごろの節分にかかわって聞き取りをしていると節分にも同じような行為が行われていたことを知った。地図は『長野県史』民俗編の東南中北の4巻の資料編のうち、(二)「仕事と行事」より、木に「十二」あるいは「十三」、またはそれに近い数を表す文字あるいは線を書く行事を示したものである。一般的に「十二月」を意図して書かれたものが多いが、閏年は「十三」と書くという地域や、逆にふだんは「十三」で閏年に「十二」と書く。ところが線を引くという地域ではこの数字にこだわらずに、例えば「十三本か十五本の線」(岡谷市川岸駒沢)、「一○本から一二本(家により違う)」(諏訪市豊田上野)、「平年は奇数、うるう年は偶数の横線」(諏訪市中洲神宮寺)、「オニノメ一四をまきに書いて」(茅野市本町)といった具合に必ずしも「十二月」を意識したとは思えない事例も見受けられる。とはいえいつもと閏年の違いはやってくる鬼をかく乱する意図もあるようで、「十二」からかけはなれているからといって「十二月」という月数と無関係とも言いにくい。「十三月」の意図はやってくる鬼が12月の次は13月と思い込んで来るのに対して、人間は正月、いわゆる一月を迎えていて数が合わないと悩んでいるうちに夜が明けてしまうという、節分の「かにかや」にも通じる意図があったようだ。そう考えると「十四」という数字は2月からくる「十四」なのかもしれない。図からも解るように、辰野町あたりから北では小正月の行事ではなく節分の行事として行われている。いっぽう伊那谷を中心に小正月の行事として実施されており、わたしのイメージ通りだったことが解る。また、伊那市あたりから小正月であっても線を引く例が見受けられ、そのまま諏訪地域を中心に節分に線を引いたまきを出す習俗に変わる。このまま線を引く習俗が北に分布すると思いきや、松本平では再び「十二月」といった文字によって明らかに「月」を意識した表し方に変わっていく。ところがそれより北には分布せず、北信ではこり時期に「十二」という数字を意図する行事は見られないのである。

 ちなみに今回はまきに「十二」を示す例をピックアップしたが、実際は節分でも触れたように、紙に「十二」を書いて門先に掲げる例が諏訪から中信にかけて見られるため、数字を意識した事例はこの分布以上に多いことを触れておく。

 さて、実際に記載されている事例をいくつかあげておく。

小正月の例

○ホンダレを割って一三本の筋を書いて飾った。(伊那市東高遠)
○若木を二つ割りにして割り口に十二月と書き門先へ立てた。ワカキといった。別にぬるでの木を二つ割りにして十二月と書いたオニギをたくさん作り、神社、墓地、神棚、年神様、えびす様、炊事場の水神様などに供えた。(中川村大草)
○ぬるでの木を三○センチくらいの長さに伐って二つ割りにし、十二月、旧正月などと書いて玄関、庚申様に供えた。道具の神様といって農具にも供えた。(阿智村浪合恩田)
○ホンダルの木にうるう年は十二、平年は十三と書いて鬼が迷うようにと戸口に置いた。ホンダルは一尺くらいの長さで二本一対になった物であった。墓や神棚にも供えた。(南木曽町三留野)


節分の例

○まきを割ってジュウニガキといって、消し炭で一二本の線(うるう年は一三本)を書き門口や土蔵の口に立てる。鬼を迷わせるためという。(下諏訪町下の原)
○オニノメといってまきに一三本のすじを書いて入口におく。(茅野市豊平南大塩)
○ジューニガツヨケといって十二月を書いた割り木を門口に立てる。(安曇野市豊科細萱)
○まきに炭でうるう年は十二月、平年は十三月と書いて家の入り口に置いた。鬼が間違えて入ってこないといった。(松本市中山埴原)

 

追記

 このところ自作の民俗地図作成ファイルによって地図を作成しているが、メリットは記号を試行錯誤して置き換えられるということ。今回ほど地域性が現れる例は珍しいのかもしれないが、とりわけ記号によってその地域性の現れ方が違ってくる。記号を取り替えて何度となく作図できる点が、大きなメリットである。

 


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