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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

〝厄年〟その3

2025-02-13 23:58:19 | 民俗学

〝厄年〟その2より

 竹入弘元氏は「厄落としの道祖神―上伊那郡の事例を中心に―」(『あしなか』157 昭和53年)において「厄年は全国的に、男は二十五歳・四十二歳。女は十九歳・三十三歳と言われているようです。伊那谷の場合、上伊那は同様で、更に二歳(三歳)・七歳・六十歳もそうだという所があります。下伊那では、女の三十三歳の代わりに三十七歳を厄年といっています。そしておもしろいことに上伊那南部の飯島町・中川村・駒ヶ根市辺は下伊那に隣接するため、三十三歳・三十七歳の混乱がみられ、両方とも厄年だという人も多くなっています」と述べている。竹入氏は度々このことについて触れていて、わたしにとっての「厄年」のイメージになっている。そして生家ではも女性は37歳が厄年と言っていた。ちなみに生家は以前から触れているように飯島町本郷である。

 「〝厄年〟その1」において『長野県史民俗編』第5巻総説Ⅰの記述を紹介したが、そこには女性の37歳のことは一言も触れられていない。そこでもう少し地域を限って捉えている。『長野県史民俗編』第2巻(一)から南信地方についての記述を見てみると次のように書かれている。

 厄年とはある特定の年齢は災いの多い年であるから、特に忌み慎しまなければならないとされた年齢のことである。南信では男一、二、三、七、一三、二五、四一、四二、六〇、六一歳、女一、二、三、七、一三、一八、一九、二九、三三、三七、三八、四二、六一歳が厄年とされ、幼児の一歳から六一歳にまでわたってみられる。一般に男二五、四二歳、女一九、三三歳を厄年と考えている所は多いが、下伊那地方では女三七歳を厄年ときめている所が目立っている。

 ここでは下伊那地方では女性37歳を厄年としている所が目立っていると述べているが、竹入氏ほど特徴あるものという捉え方はされていない。「〝厄年〟その1」で触れた米山梓氏が年齢に注目しなかった背景にも、利用しているデータが県史であるところから察すると、県史に見る厄年への捉え方が影響したのかもしれない(想像に過ぎないが)。繰り返すがわたしは生家で「37歳」という数字を耳にしていたため、竹入氏の記述が記憶に留まったわけである。ここに男性と同様に女性の厄年年齢について地図化したものを提示し、さらにここで触れた女性の厄年33歳と37歳の分布域がわかるように地図化したものも取り上げた。

 

 

 

 女性も男性同様にふたつの年齢に集中する。それが19歳と33歳であり、男性同様に凡例上は7種に分類される。男性以上に地域性が見られるが、とくに33歳を厄年とせずに19歳とほかの年齢という記号が下伊那あたりに目立っているだろう。これはそのまま2枚目の図の37歳と重なるわけである。ようは1枚目でいう19歳のほか、という部分の「ほか」に37歳が入るわけである。繰り返すが33歳を厄年としていない地域として下伊那があげられるわけである。これは男性にはなかった分布である。また、19歳のみ、あるいは33歳のみという分布は松本―佐久ラインより北側に多く見られる。2枚目の33歳か37歳かという図では明確に上伊那南部あたりから33歳と37歳が登場し、下伊那では37歳が多くなる。竹入氏が触れた通りの分布域がここに表れているといって良いだろう。ただし、北信あたりにも37歳という例が点々と見られるのは意外であった。

続く


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