16年ぶりという全社員対象の研修が行われた。研修といってもトップが講演をするという視線とすれば内向的なものではあるが、全社員対象に同一空間で共通認識を持つという意味では、近年にはない取り組みだったと言える。16年ぶりということは16年前に同じような研修が行われたということになるが、当時のわたしは社の方針には違和感を抱き始めていたころだったこともあり、果たしてそうした研修に出席したものなのかどうか、記憶にはまったく残っていない。当時の全社員と、今の全社員ではその数にして3倍も異なる。この10年余の流れの中でその数を一気に減らしてきた。単純に人数によって業務量が測れるわけではないが、収入はその倍数をさらに上乗せしていたから、当時の収入から今の人数を割り出しら、会社として成り立たないほど少数に陥ったのだろうが、支出を切り詰めてこの3という倍数内で人斬りは収めてきた。
実のところ今年も中途で社を去る者もいるし、勧奨で去る者もいる。いまだ分母を切り詰めながら継続の道を歩んでいることに違いはない。これが収入なくして生きることはできない民の現実である。そして官が繰り出す政策や、条件に添わせようと迷路を彷徨う。官に近いところで仕事をしているから致し方ないことだが、あらためて人数と業務と空間という関係を、今、官から示されて、頭の痛い計算をしなければならない場面を迎えている。我々の弱い立場がそうさせる要因だが、それを十分承知した上で会社が成立している。残念ながらその現実の行き先を少しでも理解すると、人材を確保するのも容易ではない。分母を減らし続けているというのに、いっぽうでは分母調整に悩んている。ご多分にもれず、社員の年齢構成を修正しようと新しい社員を迎えても、継続的路線に乗る前に辞退していってしまう人が多い。将来ではない、10年後あるいは15年後を見たとき、会社は継続可能な状態にあるのかと危惧ばかり募る。
さて、そうした将来像を見据えた話はトップの口から出ることはなかった。むしろ今がどういった歴史の上にあるのか、視線の奥には自己内省的な歴史観が重ねられていた。おそらく社員の中にはトップの自己満足的「話」だったと捉えた者も少なくないかもしれない。しかし、自分の道を振り返ることはけして無駄ではないし、むしろ自分の蓄積してきたものを少しくらい自慢してもいいだろう。自分を知ってもらう、さらけ出すということは共通認識の展開、あるいは共感の展開という面で必要なことでもある。だからこそ人々は会話をもってお互いを知る。今の若い世代にはそれが欠けているともいえる。もちろんトップのように「上の者の自慢話」というかつてもあった嫌悪感をばら撒きかねないが、あとは口にした者がどう自分の行動としてフォローするかということになるのだろう。これにはトップの近くにいる人たちのフォローも必要だろう。その理解度が問われる。
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