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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

伊那谷の土蔵・後編

2017-02-24 23:37:40 | 民俗学

伊那谷の土蔵・前編より

⑨高森町山吹新田

 

⑩松川町大島樫原

 

⑪松川町大島樫原

 

⑫松川町上片桐町谷

 

⑬松川町上片桐城(じょう)

 

⑭松川町上片桐城

 

⑮松川町上片桐鶴部

 

⑯飯島町七久保

 

⑰駒ヶ根市赤穂女体

 

⑱辰野町北大出

 

 前回に引き続き南から北上するように伊那谷の土蔵を見ていく。

 ⑨は高森町山吹の主要地方道飯島飯田線沿いにある山吹郵便局近くのもの。前回が飯田市山本だからかなり北に移動することになる。そこには意図があるのだが、それは後で述べることとする。この土蔵とても綺麗な印象を受けるのは化粧してまだそれほど時を経ていないせいだろう。前回触れなかったが、土蔵の入口側には庇がつくのが一般的である。この庇より上までナマコ壁を施す例も少なくないが、この土蔵は庇上の前面にまでナマコ壁を設けている。屋根と土蔵の間に空間がなく、①から⑧まですべて置き屋根式であったが、断定はできないが置き屋根式ではないのかもしれない。やはり側面上部に家紋が化粧されている。⑩は松川町大島のやはり主要地方道飯島飯田線沿い樫原にあるもの。先ごろ「樫原のコトネンブツを訪ねる」で触れた地蔵堂のすぐ近く。1階部分に庇がないのは珍しい。1階と2階の間にナマコ壁を施してない部分があることから、元々は庇があったのかもしれない。ここで注目しなければならないのは、背後に少し見えているもの。実は背面の屋根下に囲いがしてあり、雨よけを兼ねて空間を作って物入れになっている。⑪も⑩のすぐ近くにある土蔵でふた棟続きのもの。北側の背面を板で囲ってあり、雨よけあるいは風よけとでもいえよう。⑫は⑪から500メートルほど北へ行ったところのやはり主要地方道飯島飯田線沿いにあるもの。500メートルとはいえ、間にかつての上下伊那の郡境にあたる片桐松川が流れている。その片桐松川に近いところにあるもので、まさにかつての郡境にあたる。注目するべき点は、土蔵の側面両側を屋根から直接囲っていることである。鉄骨で組んだ上にトタン葺きしてあるもので、土蔵との空間は幅にして1メートルほど。やはりこの空間は物入れとして利用されている。ナマコ壁で保護してあるにもかかわらず側面を囲うという形式の典型的なもの。⑬は⑫と同じ松川町上片桐でも東へ下った城という集落にあるもの。ナマコの施し方は⑨や⑩と共通している。⑭も同じ城にある土蔵で、こちらは南側のみ屋根から囲いを下ろしているが、北側も屋根から途中まで囲いを下ろし、その下に土蔵につけた物置が設置してある。ようは土蔵の屋根から囲いを下ろすという意図は⑫と共通している。⑮も透明タイプの波板であるが、屋根から囲いを下ろしている。さらに西側には垣根を施して風よけとしている。⑯は飯島町七久保の千人塚に上っていく道の途中にあるもの。やはり南側にトタン葺きの雨囲いを屋根から下ろしている。庇の出が長いため、この場合土蔵との空間がより広くとられている。⑰は駒ヶ根市の駒ヶ根インターに近い女体という集落内にある土蔵。側部のみならず、背面も含めて囲いが施されていて、土蔵を風からも雨からも完全に防いでいる。⑱は辰野町北大出のもの。これもまた雨囲いが屋根から下ろされている。

 以上伊那谷を北上しながら18の土蔵を見てきたわけだが、土蔵を外観から捉えた場合地域によって変化していることが解るだろう。ようは雨囲いの有無である。とりわけ屋根から下ろすように土蔵の側部を囲う姿はほぼ上下伊那を境にして変化する。下伊那郡にあたる松川町でも片桐松川以南には屋根から下ろす雨囲いの姿を見ることはほとんどない。ところが旧上伊那郡で現在は下伊那郡となっている松川町上片桐に入ると、雨囲いを施した土蔵が目立ち始める。もちろん上伊那でもすべての土蔵が雨囲いをしているわけではないが、屋根から下ろした囲いをする土蔵はとても多い。この雨よけのことを「しぶき除け」とも言われる。本来なら土蔵を直接防護すれば良いわけで、実際そうした土蔵も下伊那郡の板囲いに見られるわけだが、妻部において屋根から囲いを直接下ろすことで土蔵との間に空間を設け、ここを物置とまではいかないまでも物入れ程度の機能を持たせる。これは上伊那郡独特な土蔵の利用形態なのである。この狭い空間には長い棒状のものが置かれることが多く、今でこそハザ架けは希になっているが、そうしたハザを作るためのナルを収めるにはちょうと良い空間だった。ただし囲いをしてしまうということは土蔵そのものは目立たなくなる。したがって景観という意味では土蔵の地肌が現れている方が好まれるに違いない。したがって土蔵を誇張したいという意識があれば雨よけは施されないというわけだ。いずれにしてもこの形式の雨よけが施されるのは上伊那郡にほぼ限られ、辰野町まであった雨よけは、善知鳥峠を越した塩尻に至るともはや見ることはなくなる。これほど典型的に地域性を示すものは、現在では珍しいかもしれない。

終わり


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