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盃状穴 中編

2021-12-19 16:42:26 | 民俗学

盃状穴 前編より

 

 検索して自らのページにたどり着いたと言ったが、そのページは2018年に記した「こんぼった石」を扱ったもの。かつて石仏の本を民俗の会が企画した際に、諏訪市四賀武津公民館の庭にあるこの石を訪れている。1997年のことだ。双体道祖神の背後に隠れるように置かれている石が「こんぼった石」で、その伝承については「こんぼった石」に記した。「子供達が淋しい思をしながら青草を石でつきつき遊び乍ら父母の無事な帰りを待った」というものだが、これだけを読むと青草でつついた、ということになる。現実的に草で固い石をつついたとしても盃状穴まで至らないのでは、と思う。したがって可能性としては石をもって突いたと言う方がイメージがつくだろう。話は逸れるだろうが、この「こんぼった石」、道祖神と別物ではなく、これも道祖神だったのではないか、とわたしは思う。いわゆる自然石の道祖神である。

 実は「こんぼった石」以前にも盃状穴について触れている。2014年に「人工ポットホール」について3回に分けて記している。道端の石に盃状穴があることは、子どものころからわたしも認識していた。そのことは「人工ポットホール・前編」に記している。生家のすぐ西側に道を挟んで巨石がかつてあった。巨石が邪魔をして道がここで曲がっていたことをよく覚えている。その巨石にはこうした盃状穴がたくさんあった。祭祀対象の石ではなかったが、当然そうした石に盃状穴を見ることは、ほかにもあった。そのころから、これは「草をつついて遊んだ跡」ということを聞いていたように思うし、もしかしたら過去にこの盃状穴を造り上げた行為と同じようなことを、わたしもしていたのかもしれないが、定かな記憶はない。いずれにしても家のすぐ近くにあった巨石は、遊び場であった。

 同じ「人工ポットホール・中編」の中で、「石やさこまんば あなほって通れ」について触れている。『長野県史 民俗編』第二巻(三)南信地方の巻頭写真の中に、「石屋さこん坊さ」と題した石の写真が掲載されている。その石にはまさに盃状穴がたくさんある。「子供たちが「石屋さこん坊さ 穴掘って通れ」といいながら、モチグサなどをこの石の上で小石でついて遊んだ。そのうちにくぼみができて穴になった。」と説明されている。巻頭写真に掲載されるくらいだから、本編の記述の中にそれを説明する事例があるのかと思って調べるのだが、該当文がない。ちなみに写真には「飯田市」とあるから、飯田市の事例と思われる。「人工ポットホール・中編」でも触れているが、同書は4ブロックごと発行されているが、それらから同様の例を拾おうと当時試みたが、『長野県史 民俗編』第二巻(三)南信地方が唯一。例会の中で参加者が「他の地域には見ない」と言ったが、確かにそうなのかもしれないが、盃状穴の報告は全国的だ。唯一であった事例は同書の372ページにある。「もち草を石の上でついて遊んだ。オモチツキといった。(大池、S20-中郷)」というもの。事例は茅野市金沢大池と現飯田市上村中郷のもの。前掲の「飯田市」にあたるじゃないかと言うかも知れないが、同書が刊行されたときには、まだ飯田市ではなかった。では、写真の「石屋さこん坊さ」はどこのものなのか。調査票の原本を調べないとわからない、ということになる。

 さて、「人工ポットホール・中編」の中で当時も疑問について検討している。1966年に理論社というところが発行した熊谷元一著『わらべうた』の中でこう記されている。

えんま堂のそばに、古い石碑が、いくつもあります。道祖神さま、庚申さま、馬頭観音さま、二十三夜さまなど、大きいのや小さいのがならんでいます。
 わたしたちは、その台石を小さな堅い石でコツンコツンたたいて、うすのような穴をあけるあそびを、よくしました。
 「おれのは、ばとうかんのんさまだぞ」
 「わたしのは、こうしんさまだに」
 などと、じぶんの穴がきまっているのもありました。だれのが一ばんふかくなるか、きょうそうなどもしました。

 ここから子ども達が盃状穴を掘る競争をしたということがうかがえる。世間にたくさん盃状穴があるのは、こうした子どもたちの仕業だと見ればうなずけるというわけである。

続く


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