さて、その6で触れた通り、伊那谷における道祖神研究は、亡くなられた竹入弘元氏の功績が大きい。その竹入氏がどのように捉えていたのか、この項を締めるにあたって、その扱いについて触れていきたい。まず竹入氏の著書『伊那谷の石仏』(昭和51年 伊那毎日新聞社)を開いて見よう。竹入氏が道祖神に思い入れがあったのは、この書からも十二分にわかる。冒頭「道祖神」の記事から始まるのはもちろん、割いているページも「道祖神」が最も多い。ところがこの書を開いて気がつくのは、実は竹入氏が居を構えた旧伊那市内の道祖神はメインタイトルにはひとつも登場しないのである。したがって伊那市内の記述は実に乏しい。生まれた辰野町の大文字に触れた後、旧高遠町や長谷村を中心に扱うと、伊南へ移動してしまう。竹入氏にとって旧伊那市内の道祖神にはあまり特徴的なイメージを持たなかったのだろうか。思い入れの強かった「道祖神」だけに、そのあたりを確認することは今はもうできない。
同書から火祭りについて記述された部分を抽出していこう。高遠町藤沢荒町の石祠型道祖神を扱った項では「どんど焼き」と記している(31頁)。「珍しい丸石の道祖神」と題して扱った長谷村中尾の道祖神では、やはり「どんど焼き」と記しており、「どうろくじんを笑う」と称して子ども達が歌う歌を次のように取り上げている。「どうろくじんという人は、馬鹿なような人で出雲の国いよばれて行って、じんだら餅食いよって、後でいい(家)を焼かれた エンヤラワーイワイ」(37頁)。中尾からさらに三峰川を遡った浦の道祖神を扱った項でも「どんど焼き」と記し、この際行われる厄落としの願えごとを次のように記している。「鶴は千年 亀万年 こうぼうさつは九千年 浦島太郎百六つ わたし(の年)もその通り」(39頁)と。
中央構造線谷の事例を取り上げた次に火祭りが登場するのは、伊南の飯島まで飛ぶ。岩間の単体道祖神を扱った「僧形単体の道祖神」では、「ほんやりはこの碑の前でちょっと形だけしといて、危ないので広い方へ行ってやる。おんべを建てた。二十日正月が過ぎると家の中のお飾りをこの碑の前で焼く」とお婆さんの言葉を紹介している(45頁)。すでにここでは「ほんやり」と称しており、「おんべを建てた」というように円錐状の櫓を「おんべ」と称しているようだ。これより南は「ほんやり」地帯に入り、しばらくは「どんど焼き」ではなくなるが大鹿村鹿塩の事例を扱った「珍しい下駄履きの道祖神」では、「道祖神のことをここでは「せーのかみ(さいのかみ)」という。門松を焼く行事をどんど焼きとは言わず、ほんやり或いはせーのかみという。従ってこの場所もせーのかみでい」と記している(49頁)。また同じ谷を南下した上村上町の「筆墨で書いた文字道祖神」の項では、「当地で門松を焼く行事を「どんど焼きさぎっちょ」と呼びました。(中略)上流の程野部落でも「さぎっちょ」「どんどんさぎっちょ」と呼び、焼く時子供達は「さいのかみ燃えるよ」と囃しました」と記している(51頁)。このほか下伊那では道祖神のことを「せいのかみ(さいのかみ)」と称すところもあり、そうしたところでも火祭りは「ほんやり」と称している事例が豊丘村や下條村でとりあげられている(53、57頁)。
以上『伊那谷の石仏』から竹入氏の扱った火祭りを概観してみた。
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