「遙北通信」(遙北石造文化同好会)を紐解いてみると、わたしは次のような報告をしている。
鳥取県西伯郡淀江町小波浜のサイノカミ (「遙北通信」107 平成3年2月1日) HP管理者
米子市の東隣にある淀江町小波浜の公民館横の松の木の下に3基のサイノカミが祀られている。写真の双体像は、駒型切石に天幕を浮彫りしたものである。他の一つは半円型に近い自然石の前面を駒型に削り、線刻双体神立像が描かれており、「明治三十四年一月吉日」の文字がある。もう一体は遙北通信89号で紹介したものである。
「山陰民俗」54号で高島信平氏が報告している伯耆のサイノ神の数は、単体像7、双体像343、文字碑16である。また淀江町の数字は双体66、文字碑1である。伯耆においてはほとんどが双体像であり、その祭祀場所の現状は、荒神跡地、氏神境内が43%、道路端25%、堂・公民館前11%、三叉路4%、峠3%、村の入口3%など(同報告)となっている。
ちなみに因幡(岩美郡、鳥取市、八頭郡、気高那)ではサイノ神が124基あり、神木と石神45、神木と木祠35、石祠・石塔19、神木17、神社8といった具合に伯耆とは様子が違う。また祭祀場所は山道・峠49、平野道41、谷川・堰14などでどちらかというと因幡の方がサイノ神的といえるだろうか。
撮影 昭和59年8月18日
昭和59年8月17日、京都の高木英夫氏と尾道駅で待ち合わせをして、千光寺などの磨崖仏を訪れたのが、尾道を訪れた最初だった。高木氏は日帰りで京都に帰られたが、わたしはそのまま中国地方の山地内の国道端で車中泊をし、翌日鳥取に入った。そして淀江町など大山山麓のサイノカミを訪れた。淀江町、現在は平成の合併によって米子市になっている。わたしの訪れたころに比べると、平成の合併によって、地域イメージがだいぶ変わっている。考えてみれば平成の合併以降は、ほとんど県外を訪れていない。かつてのイメージでは話にならないのだと気がつく。長野県内は当時の知事の影響があったとは言わないが、合併がそれほど進まなかった。したがって地域イメージは昭和の時代とそう変わってはいないが、それでもたとえば現長野市に編入されてしまったいくつもの旧町村エリアは、かつての旧村イメージで表現した方が、わたしたちにはわかりやすい。いずれ消滅してしまうイメージかもしれないが。
さて、この報告にもあるように、伯耆地方の道祖神の形態はわたしの住むエリアとはまったく異なる。何といっても双体像がほとんどだ。そして祭祀場所は神社境内が多い。サイノカミと呼ばれているにしては、ずいぶん境界神というイメージとはかけ離れている。そして因幡と対比して記述しているように、イナバではサイノカミ的祭祀がみられる。道祖神の多様性は、県外の事例をのぞくと、より一層高まる。
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