挨拶のないことが、これほど気分の悪いこととは思わなかった。
子ども達を見送りした後、帰路では様々な子ども達に出会う。
いつもそうなのだが、至近距離になっても、自分から挨拶をしよう、という子どもは現れない。
私は我慢ができなくなり、自分から挨拶をする。
それに対して、たいていの子どもはとってつけたように挨拶をする。
その声はとても小さく「仕方ないから、挨拶を返すか」といった様子。
だが、小さくてもいいから、声を出してくれる子どもは、マシな方なのである。
一応お辞儀のつもりなのか、声を出さずに下を向いて通り過ぎるのも、まだいい方。
最も酷いのが、隣とのおしゃべりに夢中な子ども。
こちらとは、全く目を合わせないようにし、完全無視。
完全無視の子どもが何人も続いたら、こちらもだんだんイライラしていて、ついには関係のない子どもにまで、不機嫌な声で挨拶をするようになってしまった。
そんな中、自分から元気に挨拶をしてくれる子どもももちろんいる。
ごく当たり前の、普通のことなのに、とても嬉しい気持ちになる。
低学年は元気な挨拶の子が多く、高学年になるほど、挨拶無視の傾向が強い。
なぜ、挨拶は、だんだんないがしろにされていってしまうのだろう。
成長するにつれて、「挨拶をしなくてもよい」という感覚が育ってしまうのは、非常に悲しいことである。
メールやネット掲示板の挨拶は、次第に過剰になっていくのにね。
「(精神的に)気持ちがいい」ことの方が、「楽しい・おもしろい」感覚よりも、大事だと思う、今日このごろである。
子ども達を見送りした後、帰路では様々な子ども達に出会う。
いつもそうなのだが、至近距離になっても、自分から挨拶をしよう、という子どもは現れない。
私は我慢ができなくなり、自分から挨拶をする。
それに対して、たいていの子どもはとってつけたように挨拶をする。
その声はとても小さく「仕方ないから、挨拶を返すか」といった様子。
だが、小さくてもいいから、声を出してくれる子どもは、マシな方なのである。
一応お辞儀のつもりなのか、声を出さずに下を向いて通り過ぎるのも、まだいい方。
最も酷いのが、隣とのおしゃべりに夢中な子ども。
こちらとは、全く目を合わせないようにし、完全無視。
完全無視の子どもが何人も続いたら、こちらもだんだんイライラしていて、ついには関係のない子どもにまで、不機嫌な声で挨拶をするようになってしまった。
そんな中、自分から元気に挨拶をしてくれる子どもももちろんいる。
ごく当たり前の、普通のことなのに、とても嬉しい気持ちになる。
低学年は元気な挨拶の子が多く、高学年になるほど、挨拶無視の傾向が強い。
なぜ、挨拶は、だんだんないがしろにされていってしまうのだろう。
成長するにつれて、「挨拶をしなくてもよい」という感覚が育ってしまうのは、非常に悲しいことである。
メールやネット掲示板の挨拶は、次第に過剰になっていくのにね。
「(精神的に)気持ちがいい」ことの方が、「楽しい・おもしろい」感覚よりも、大事だと思う、今日このごろである。