昨日、関西テレビのスーパーニュースアンカーで、梅田の名の由来は、「綱敷天神社の梅である」とご紹介頂いたのですが、朝、メールを確認致しますと、質問メールが4通もきておりました。
どれもが、梅田の名の由来についてのご質問だったのですが、うち1つに、「梅田の名の由来は梅田宗庵の土地だったからではないのですか?」という質問がありました。
実はこの説。長らく梅田の名の由来という事で支持されてきたのですが、調べれば調べるほど、梅田宗庵さんが梅田の名の由来になったとは考えにくいのです。
まず当宮の由緒も織り交ぜて時系列に整理しますと、梅田という地名ですが、ここは古墳時代頃から「兎我野(とがの)」と広範に呼ばれる土地でした、途中、また確証はありませんがアドエ、新羅江と呼ばれた時代もあったようです。 室町から江戸時代にかけてはトガノが訛って「床の尾」と呼ばれた時期もあり、淀の川尻というに相応しい砂州の低湿地帯でした。
奈良時代から平安時代初期には、白砂青松の地としても好まれていたようで、弘仁十二年(821)には、嵯峨天皇さまの勅願で弘法大師空海により太融寺が創建され、当宮の由緒によれば、翌年の弘仁十三年(822)に嵯峨天皇さまが御行幸あらせられたとあり、当地神山に宿所を構えられ、一宿されます。
その21年後の承和十年(843)に、前年に崩御あらせられた嵯峨天皇さまの御遺徳を偲び、皇子の源融公が太融寺に七堂伽藍を興し、更に宿所のあとをお社とし、神野太神宮(綱敷天神社 御本社の前身)が建立されます。
そこへ、昌泰四年(901)2月2日に、菅原道真公が九州太宰府への左遷の途次に当地にお立ち寄りになられ、太融寺へ参詣された折、満開に咲いていた紅梅に目を留められ、船の艫綱を円座状に敷いてお座りになられ、暫しご賞翫された故事から、後にその紅梅のふもとに綱敷の名を号す小祠「梅塚天満宮」(綱敷天神社 御旅社の前身)を構え、天神さまがお祀りされるようになりました。
正暦四年(993)5月20日に、菅原道真公へ正一位太政大臣が追贈された事に伴い、嵯峨天皇さまをお祀りする神野太神宮(現在の御本社)と、天神さまをお祀りする梅塚天満宮(現在の御旅社の前身)を合祀し、全国の天神さまの総本社である、京都の北野天満宮に倣い、「北野天神」とも呼ばれるようになり、そこからこの地を北野、北野村、喜多埜、北埜(キタの)と通称されるようになりました。
それが、寛正二年(1461)2月26日付けの『中島崇禅寺領目録』「そねざき平田分」の中に、「埋田之内角田三百歩」とあり、また、当宮の古地図にも現在の阪急百貨店うめだ本店あたりを「角田内」と書かれている事から、ここでいう埋田が現在の梅田の元々の由来である事は間違いなく、最初は埋田でした。
それが、いつから梅田になったのか。実はこれに関しては当宮にも史料、文献が残っている訳ではありません。ただ、昔から当宮では梅田の名の由来は綱敷天神社の梅塚の紅梅が由来であると口伝で伝えられてきたただけです。 ただ戦前には何かそれらしき事を書いた文献もあったようなのですが、戦争で殆どの文献が焼けてしまいましたので、今ではわかりません。
史料として確実に梅田の名が現れるのが、元禄四年(1691)に発行された『大坂大絵圖』に、現在の堂島3丁目あたりにかかっていた橋に「梅田橋」と書かれており、これが史料上確認出来る最古の記録です。
ただ、文献でみると、元和元年(1615)に、大坂城落城後の市街整備の一環で、市中に点在していた墓地を七カ所にまとめた、大坂七墓の一つに「梅田墓地」とあり、これが文献上では最古となりますが、この記録は後世に作られたものなので、当時から本当に梅田と書いていたかどうかは不明です。
まとめますと、現在の梅田と書かれ始めたのは、1600年代以降である事は間違いありません。
さて、件の梅田宗庵さん。大阪地誌の第一人者であった宮本又次博士の著作『キタ 風土記大阪』によれば、梅田墓地には普門院という寺がありそこに地主として梅田宗庵氏が住んでいた。明治20年(1887)に墓地の整理があった際に、墓地その他什器などを親戚を通じて神戸の貿易商、太田新次郎氏に売却した(要点抜粋)」とあり、梅田宗庵氏は明治時代の人であるようで、梅田の名の由来になったというのは後付けのように思えます。
恐らく、梅田さんが住んでるから梅田墓地なのかな。ひいては梅田の名の由来になったのでは・・・という後世の仮託があったのではないかと考えています。
ただ、宮本又次博士も、この梅田宗庵さんの話を何をもとにして書いたのか不明で、確定的ではありませんが、史料上は梅田の名は17世紀には見えますので、この梅田宗庵さんが梅田の名の由来という説は違うのではないかと個人的には考えています。
写真は明治20年当時の梅田墓地の位置。 現在のグランフロント大阪の西隣、旧国鉄貨物駅跡地の西南角にあたります。このあたりは今は大深町という町名にまとめられていますが、梅田墓地のあたりだけ(北梅田町(旧曽根崎村))は、当宮の氏地ではありませんでした。
以上、長くなりましたが、梅田の名の由来についての補足でした。
どれもが、梅田の名の由来についてのご質問だったのですが、うち1つに、「梅田の名の由来は梅田宗庵の土地だったからではないのですか?」という質問がありました。
実はこの説。長らく梅田の名の由来という事で支持されてきたのですが、調べれば調べるほど、梅田宗庵さんが梅田の名の由来になったとは考えにくいのです。
まず当宮の由緒も織り交ぜて時系列に整理しますと、梅田という地名ですが、ここは古墳時代頃から「兎我野(とがの)」と広範に呼ばれる土地でした、途中、また確証はありませんがアドエ、新羅江と呼ばれた時代もあったようです。 室町から江戸時代にかけてはトガノが訛って「床の尾」と呼ばれた時期もあり、淀の川尻というに相応しい砂州の低湿地帯でした。
奈良時代から平安時代初期には、白砂青松の地としても好まれていたようで、弘仁十二年(821)には、嵯峨天皇さまの勅願で弘法大師空海により太融寺が創建され、当宮の由緒によれば、翌年の弘仁十三年(822)に嵯峨天皇さまが御行幸あらせられたとあり、当地神山に宿所を構えられ、一宿されます。
その21年後の承和十年(843)に、前年に崩御あらせられた嵯峨天皇さまの御遺徳を偲び、皇子の源融公が太融寺に七堂伽藍を興し、更に宿所のあとをお社とし、神野太神宮(綱敷天神社 御本社の前身)が建立されます。
そこへ、昌泰四年(901)2月2日に、菅原道真公が九州太宰府への左遷の途次に当地にお立ち寄りになられ、太融寺へ参詣された折、満開に咲いていた紅梅に目を留められ、船の艫綱を円座状に敷いてお座りになられ、暫しご賞翫された故事から、後にその紅梅のふもとに綱敷の名を号す小祠「梅塚天満宮」(綱敷天神社 御旅社の前身)を構え、天神さまがお祀りされるようになりました。
正暦四年(993)5月20日に、菅原道真公へ正一位太政大臣が追贈された事に伴い、嵯峨天皇さまをお祀りする神野太神宮(現在の御本社)と、天神さまをお祀りする梅塚天満宮(現在の御旅社の前身)を合祀し、全国の天神さまの総本社である、京都の北野天満宮に倣い、「北野天神」とも呼ばれるようになり、そこからこの地を北野、北野村、喜多埜、北埜(キタの)と通称されるようになりました。
それが、寛正二年(1461)2月26日付けの『中島崇禅寺領目録』「そねざき平田分」の中に、「埋田之内角田三百歩」とあり、また、当宮の古地図にも現在の阪急百貨店うめだ本店あたりを「角田内」と書かれている事から、ここでいう埋田が現在の梅田の元々の由来である事は間違いなく、最初は埋田でした。
それが、いつから梅田になったのか。実はこれに関しては当宮にも史料、文献が残っている訳ではありません。ただ、昔から当宮では梅田の名の由来は綱敷天神社の梅塚の紅梅が由来であると口伝で伝えられてきたただけです。 ただ戦前には何かそれらしき事を書いた文献もあったようなのですが、戦争で殆どの文献が焼けてしまいましたので、今ではわかりません。
史料として確実に梅田の名が現れるのが、元禄四年(1691)に発行された『大坂大絵圖』に、現在の堂島3丁目あたりにかかっていた橋に「梅田橋」と書かれており、これが史料上確認出来る最古の記録です。
ただ、文献でみると、元和元年(1615)に、大坂城落城後の市街整備の一環で、市中に点在していた墓地を七カ所にまとめた、大坂七墓の一つに「梅田墓地」とあり、これが文献上では最古となりますが、この記録は後世に作られたものなので、当時から本当に梅田と書いていたかどうかは不明です。
まとめますと、現在の梅田と書かれ始めたのは、1600年代以降である事は間違いありません。
さて、件の梅田宗庵さん。大阪地誌の第一人者であった宮本又次博士の著作『キタ 風土記大阪』によれば、梅田墓地には普門院という寺がありそこに地主として梅田宗庵氏が住んでいた。明治20年(1887)に墓地の整理があった際に、墓地その他什器などを親戚を通じて神戸の貿易商、太田新次郎氏に売却した(要点抜粋)」とあり、梅田宗庵氏は明治時代の人であるようで、梅田の名の由来になったというのは後付けのように思えます。
恐らく、梅田さんが住んでるから梅田墓地なのかな。ひいては梅田の名の由来になったのでは・・・という後世の仮託があったのではないかと考えています。
ただ、宮本又次博士も、この梅田宗庵さんの話を何をもとにして書いたのか不明で、確定的ではありませんが、史料上は梅田の名は17世紀には見えますので、この梅田宗庵さんが梅田の名の由来という説は違うのではないかと個人的には考えています。
写真は明治20年当時の梅田墓地の位置。 現在のグランフロント大阪の西隣、旧国鉄貨物駅跡地の西南角にあたります。このあたりは今は大深町という町名にまとめられていますが、梅田墓地のあたりだけ(北梅田町(旧曽根崎村))は、当宮の氏地ではありませんでした。
以上、長くなりましたが、梅田の名の由来についての補足でした。