前回の続きです。
いつも見ていただきましてありがとうございます。
少し前に、メディアで青少年の自死が最多になったと報道されました。投稿主の少し関係しているところでも、そんなこともありそうな部分もありまして、自死について、何とかできれば予防をしたいなあと思うところですので、自死に触れながら考えてきました。予防としての方途について全体的に記してみましたが、具体的な方策も必要かと思われ、少しではありますが、記してきました。前回は心を健康に保つ方策や、いざというときの話の聴き方等に触れてみました。
今回は、続きで、
対策について、少し具体的に触れてみたいと思います。
心理教育の推進はとても必要なことです。相談窓口や相談を受けてくれる人の配置、その組織に属している人が誰でも聴いてくれる人になれるようにすることも大切です。
今回は、自死の念慮や意図や企図につて、できる限り早くに気づき発見できるようにすることの意義について触れてみます。自死に至る場合は、そのかなり前から何らかの信号を出している場合が多いと考えられます。その信号には、気づきながらもそのままに放置されている場合や、まったく気づかれない場合や、何となくおかしいかな等を思いながらも組織の中等では共有されずに、そのままになっている場合が多いと思います。もっとも、最近は孤独・孤立で生活している人も多く、人との触れ合いもない場合が多くありますので、何とも言えない所です。孤独・孤立の人が突然に衝動的・突発的な出来事を生じさせる場合もあるので、対応が難しいところです。やはり行き過ぎた個人主義や相互に無関心が広がりすぎると大変な状況にもなるかと思います。
該当の人への気づきを得るためには、やはり人間関係が存在することが必要です。物理的な距離が遠すぎれば、心理的な距離も遠くなり、気づくチャンスが失われてしまいます。
一緒に生活していても気づけないこともあるので、大変です。学校でも企業でも、いい意味でプラスの意味で相互に関心を持つことは大切と思います。
最近もメディアで、おかしなことがあるようですが、人権に関しても鈍感さが支配しているようではだめです。変な事件が起こります。「のり」を重視していて、「のり」が支配的な人間の集団は、付和雷同的な雰囲気が支配するようになりますので、いつかおかしなことになります。上司が「のり」だけで活動しているようでは、勤務者は大変です。
少しずれましたが、ある有名な哲学者が、「観察と実験だけが真理に近づく方法だ」と言っているようですが、本当に良い意味で観察することが極めて大切と思います。観察とともに必要なのは健全な「感受性」です。「共感力」といってもいいのかもしれません。「共感力」の大切さは、何度言っても言い切れません。人を人としているのは「共感力」だと思います。単純に言えば、人の気持ちがわかるということかと思います。
共感力と言うことは簡単なのですが、残念ながら共感力を発揮するのはかなり難しいことと思います。特に優れた共感力は難しいです。
と言うのは、人は他の人の気持ちに気づくよりも、あるいは気づくように努力するよりも、自分の気持ちの方を、どうしても優先してしまいがちになるからです。共感ができるようになるには、自我・自分をコントロールできる節制力がとても大切です。
そしてこの「節制」が極めて難しいことなのですね。聴く人が自己を節制して聴くと、相手は自分の思いを表現することができるようになります。この自己表現が大切なわけですね。そして表現に共感してもらえると救われたような心情になりやすいのですね。
救われるということは、そこに自分以外の人が確実にいるということを実感することですから、孤独や孤立から離れることができるチャンスになることも考えられるわけです。
孤独な人の心には「鬼」が住んでいて、それが暴れまわるようになるとさまざまなことが起こってくるわけです。孤独・孤立が長く続いて、他の人からの関心がなくなるということは、人間と言う存在にとって一番いやなことなのだと思います。
周りの人が、共感力を自覚しながら該当の人をきちんと見ていて、必要に応じてそれを発揮できるような状況になっていると、救われる人が多くなると思います。
そして共感力の発揮に到達するまでに必要なことは「観察力」だと思います。観察こそが人への関心をもたらすことであり、相互に人間になれる貴重な機会であると思われます。マイナスを探す観察はダメですが、プラス、あるいはプラスを探すということでなくても、自然で素直な心から生じる観察が本当に大切と思います。
人間は正直な存在ですから、こころの中にあることは、自然に外部に出てきます。その出方に着目して見ていれば、自然に相手の状況に気づけると思います。
「手は外部脳」と言う話を聞いたことがありますが、手の動き一つでも心の中のことが表現されています。ずうっと昔のことですが、「咳一つで知れ、感受性」と言う言葉、当時の学び集団の標語を聞きました。咳一つでもその様によって心の内がわかるということかと思います。あるいはわかるくらいになりなさい、と激励された言葉かと思います。
これは名人技ですが、そのくらい人の内情がわかるようになると素晴らしいということでしょう。なかなか難しいことですが・・・。
発見は、発見しようとする心の働きによって可能になると思いますが、そうでなくても自然で素直な純粋性のある心でも可能と思います。専門的な知識や技術よりも、一般的な人の素直で純粋な心の方が発見に役立つことは多いと思います。但し、一般的な発見はそこで止まってしまう可能性があるので、その先に進む専門性等があると思われます。
要約してみると、人と人の自然なかかわり、サポートしあおうとする心の働きの実行、互いに個性等を尊重しながらも親和的な人間関係が保たれていると、観察も共感もしやすくなると思われます。人の心の働きが自然に発揮できることが一番大切なことと思われます。このような働きが回復できるように望んでいるところです。
今回はここまでにさせていただきます。また見ていただけますようよろしくお願いいたします。
いつも見ていただきましてありがとうございます。
少し前に、メディアで青少年の自死が最多になったと報道されました。投稿主の少し関係しているところでも、そんなこともありそうな部分もありまして、自死について、何とかできれば予防をしたいなあと思うところですので、自死に触れながら考えてきました。予防としての方途について全体的に記してみましたが、具体的な方策も必要かと思われ、少しではありますが、記してきました。前回は心を健康に保つ方策や、いざというときの話の聴き方等に触れてみました。
今回は、続きで、
対策について、少し具体的に触れてみたいと思います。
心理教育の推進はとても必要なことです。相談窓口や相談を受けてくれる人の配置、その組織に属している人が誰でも聴いてくれる人になれるようにすることも大切です。
今回は、自死の念慮や意図や企図につて、できる限り早くに気づき発見できるようにすることの意義について触れてみます。自死に至る場合は、そのかなり前から何らかの信号を出している場合が多いと考えられます。その信号には、気づきながらもそのままに放置されている場合や、まったく気づかれない場合や、何となくおかしいかな等を思いながらも組織の中等では共有されずに、そのままになっている場合が多いと思います。もっとも、最近は孤独・孤立で生活している人も多く、人との触れ合いもない場合が多くありますので、何とも言えない所です。孤独・孤立の人が突然に衝動的・突発的な出来事を生じさせる場合もあるので、対応が難しいところです。やはり行き過ぎた個人主義や相互に無関心が広がりすぎると大変な状況にもなるかと思います。
該当の人への気づきを得るためには、やはり人間関係が存在することが必要です。物理的な距離が遠すぎれば、心理的な距離も遠くなり、気づくチャンスが失われてしまいます。
一緒に生活していても気づけないこともあるので、大変です。学校でも企業でも、いい意味でプラスの意味で相互に関心を持つことは大切と思います。
最近もメディアで、おかしなことがあるようですが、人権に関しても鈍感さが支配しているようではだめです。変な事件が起こります。「のり」を重視していて、「のり」が支配的な人間の集団は、付和雷同的な雰囲気が支配するようになりますので、いつかおかしなことになります。上司が「のり」だけで活動しているようでは、勤務者は大変です。
少しずれましたが、ある有名な哲学者が、「観察と実験だけが真理に近づく方法だ」と言っているようですが、本当に良い意味で観察することが極めて大切と思います。観察とともに必要なのは健全な「感受性」です。「共感力」といってもいいのかもしれません。「共感力」の大切さは、何度言っても言い切れません。人を人としているのは「共感力」だと思います。単純に言えば、人の気持ちがわかるということかと思います。
共感力と言うことは簡単なのですが、残念ながら共感力を発揮するのはかなり難しいことと思います。特に優れた共感力は難しいです。
と言うのは、人は他の人の気持ちに気づくよりも、あるいは気づくように努力するよりも、自分の気持ちの方を、どうしても優先してしまいがちになるからです。共感ができるようになるには、自我・自分をコントロールできる節制力がとても大切です。
そしてこの「節制」が極めて難しいことなのですね。聴く人が自己を節制して聴くと、相手は自分の思いを表現することができるようになります。この自己表現が大切なわけですね。そして表現に共感してもらえると救われたような心情になりやすいのですね。
救われるということは、そこに自分以外の人が確実にいるということを実感することですから、孤独や孤立から離れることができるチャンスになることも考えられるわけです。
孤独な人の心には「鬼」が住んでいて、それが暴れまわるようになるとさまざまなことが起こってくるわけです。孤独・孤立が長く続いて、他の人からの関心がなくなるということは、人間と言う存在にとって一番いやなことなのだと思います。
周りの人が、共感力を自覚しながら該当の人をきちんと見ていて、必要に応じてそれを発揮できるような状況になっていると、救われる人が多くなると思います。
そして共感力の発揮に到達するまでに必要なことは「観察力」だと思います。観察こそが人への関心をもたらすことであり、相互に人間になれる貴重な機会であると思われます。マイナスを探す観察はダメですが、プラス、あるいはプラスを探すということでなくても、自然で素直な心から生じる観察が本当に大切と思います。
人間は正直な存在ですから、こころの中にあることは、自然に外部に出てきます。その出方に着目して見ていれば、自然に相手の状況に気づけると思います。
「手は外部脳」と言う話を聞いたことがありますが、手の動き一つでも心の中のことが表現されています。ずうっと昔のことですが、「咳一つで知れ、感受性」と言う言葉、当時の学び集団の標語を聞きました。咳一つでもその様によって心の内がわかるということかと思います。あるいはわかるくらいになりなさい、と激励された言葉かと思います。
これは名人技ですが、そのくらい人の内情がわかるようになると素晴らしいということでしょう。なかなか難しいことですが・・・。
発見は、発見しようとする心の働きによって可能になると思いますが、そうでなくても自然で素直な純粋性のある心でも可能と思います。専門的な知識や技術よりも、一般的な人の素直で純粋な心の方が発見に役立つことは多いと思います。但し、一般的な発見はそこで止まってしまう可能性があるので、その先に進む専門性等があると思われます。
要約してみると、人と人の自然なかかわり、サポートしあおうとする心の働きの実行、互いに個性等を尊重しながらも親和的な人間関係が保たれていると、観察も共感もしやすくなると思われます。人の心の働きが自然に発揮できることが一番大切なことと思われます。このような働きが回復できるように望んでいるところです。
今回はここまでにさせていただきます。また見ていただけますようよろしくお願いいたします。
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