uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すも退助死せず~(25)

2021-02-11 03:58:31 | 日記









このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。









     第25話 会津戦争~孤独な戦い~


 会津戦争は1868年(慶応4)6月15日の
白河口の戦いに始まり、
9月15日の二本松城の戦い等を経て
若松城籠城戦にて結末を迎える。

 
 上野戦争に於いて彰義隊殲滅作戦を立案、
指揮を執った大村益次郎は、
仙台藩、米沢藩への攻撃、
その後完全に孤立化させた会津藩への総攻撃を
主張した。

 それに対し、退助と伊地知正治は
会津藩への直接攻撃を主張、
退助たちの案が採用され
会津若松城への進軍が開始された。

 新政府軍は10月6日主街道を避け、
脇道を通り母成峠にて会津守備隊と激突、撃破した。
 その後約40㎞の電撃移動を敢行、
10月8日会津若松城の前に姿を見せる。

 会津領各地に守備隊を分散配置していた
会津側は虚を突かれた。

 実は会津藩側も兵員不足を認識し、
対策を取っていた。
 少年兵で構成した白虎隊の他、
領内の農民などの庶民たちが次々と徴兵されている。
 しかし彼らは領主への忠誠心は無い。
徴兵しても逃亡を繰返し、
士気は低く、全く戦いに協力しなかった。

 後の世のテレビドラマなどを見ると、
勇猛な会津藩の戦いの描写が
見る者の感動を誘っている。
 しかしその実態は藩士である武士だけが戦い、
殆どの領民は藩に対し、恨みしか持っていない。
 その結果の非協力的態度だった。

 勿論会津戦争を含め、戊申戦争は武士の戦争。
武士以外の庶民に関りは無い。

 しかし近代の戦争は総力戦であり、
農民や商人にとって
「あっしには関りの無い事でござんす。」
とはいかない。
 そういった意味で戊辰戦争は
武士中心の最後の戦争と云える。

 その後勃発した西南戦争は、
薩摩藩側は武士が主体だが、
 政府軍は平民からも徴兵した混合軍であり
質的な違いがあった。

 旧体制を守ろうとした最後の武士の軍隊が負けた。
時代の転換点と云えるのが、
この会津戦争と、
その後戊辰戦争を終結させた函館戦争なのだった。

 会津戦争で会津藩が負けた原因。
それは領民全体の協力を得られなかったから。
 近代兵器云々より、まずそれが一番まずい。

 人心掌握の点で会津藩はうまく行っていなかった。
付き従うべき領民にそっぽを向かれては、
勝てる筈はないのだ。

 では何故領民たちが非協力的だったと云えるのか?
私が指摘する論調は
「聞いた事がないよ!」という人がほとんどだろう。
でも史実は残念ながらそうなのである。
 
その根拠は年貢にある。

農民たち、町人たちの立場に立ってみると分かる。

 一般的な幕府天領は五公五民であるが、
会津藩は53%(資料に残る会津藩年貢率)であり、
しかも京都守護職に任命され、
多数の藩士を派遣するに至り、
更に徴用金が課せられ、会津戦争時
町人たちは資産の殆どを徴発されている。

 年貢で53%徴収され、
農民の殆どが小作であるため、
更に小作料が上乗せされむしり取られる。
 汗水流してようやく収穫した米の
何と6割以上が自分のものでなくなる。

 誰がそんなにたくさん差し出したいか?

 そうした背景もあり、
侵略してきた新政府軍を官軍様と呼び、
会津軍藩士を『会賊ども』と呼び捨てにしている。

 更に開戦前夜、
家老西郷頼母の母や妻子など21人が自刃したが、
当の頼母は敗戦後行方不明になっている。
 敵前逃亡した頼母。

 総大将の松平容保は罪一等を減じ謹慎処分となる。
全ての責任者として切腹するべき人が、
その責任を取っていない。

トップとナンバー2がその有様。

 白虎隊の悲劇など
壮絶で悲惨な部分のみが脚光を浴びているが、
実情を見透かした庶民の間では
逆に支配者が変わることにより
希望を見いだし、喜んでいる。

 その証拠に
会津藩の降伏を契機に、重税に苦しむ農民たちが、
1868年(明治元)11月16日~翌1月13日
ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)を起こしている。
 
また養子の喜徳とともに東京に護送された容保。

 しかし庶民は何の関心も示さず、
見送りにも殆ど現れていない。

 勇猛な戦いぶりとは裏腹に、
言葉にならない程、
無様な戦後を見て退助は思った。
 
 実は無様だったのは会津だけではない。
鳥羽伏見も、甲州勝沼の戦い、二本松、上野戦争など、
どの戦いも共通して幕府軍は無様であった。

 支配する領民の協力を得られず、
冷徹な視線を浴びながら
士分のみの孤独な戦いを強いられた。


 江戸時代の長所として
文化の熟成や教育水準、
進んだ治水・集約農業などをあげる向きもあるが、
度々起きる飢饉。
 過酷な年貢と小作制度。
人口の大半を占める小作農民にとって
江戸時代は地獄の時代だった。

 江戸時代の人口統計を見ると、
終始総人口は伸びていない。
 人口2700万人に達した途端、飢饉に合い
2500万人台に減る。
 飢饉が終わり徐々に人口が増えるとまた飢饉、
2500万人台に戻る。
 
餓死と間引きの人口減少。

 徳川家康公の発した言葉。
『百姓は生かすべからず、殺すべからず』
それが江戸幕府の方針だった。

 過酷な年貢や厳しい身分制度。
武士に許された特権『切捨て御免』のような理不尽。
やむに已まれぬ一揆でも死罪。
260年も虐げてきた支配層に対し、
一体誰が自らの命を投げ出すというのか?


『武士になりたい』との一念で結成した
新選組のような例外は、その後当然現れない。

 

 しかし列強の覇権争いが激化し、
侵略の意図から日本に進出してきた世情の中
神戸事件や堺事件が頻発する。
 
 不平等条約を強要され、国際緊張に晒された日本。

 外国勢力の圧力に屈しない強い国家をつくるには、
旧態然とした幕藩体制、
非合理的で非生産性に満ちた社会制度を
根本から変えていかなければならない。

 いち早く中央集権国家を打ち立てた
イギリスやフランスに習い
近代国家に変貌させなければならない。
 イタリアやドイツのように
いつまでも封建制度から脱却できない国は、
近代化が遅れ、活路を植民地獲得に求め
再分割の悲惨な戦争の渦中に
自ら飛び込む事となる。
 
 ましてやアジアの遅れた技術と
意識しか持たない国は尚更。

 日本はセポイの乱やアヘン戦争で負けた
インドや清国のように
植民地化されてはいけない。


 多くの民が笑顔で暮らし、
外国の圧力など簡単に跳ね返すことができる国家。

 退助は考える。

 不条理な身分制度を廃し、
誰にもチャンスの門戸が開かれた平等な社会。

 不平等条約を撤回させる強力な国家を造るため、
殖産興業、国民皆兵、富国強兵の実現。

 自由な言論、及び経済的生活の保障による
貧困からの脱却と幸福の希求。

 五箇条の御誓文の目指す精神を
推進する事こそ、自分のすべき責務であると
改めて思い、決意するのだった。



 戦争や国民皆兵を礼賛しているのではない。
当時の国際社会は弱肉強食のそうした時代だったのだ。
 生き残るためには強くなければならない。
そうした時代だったことに注意を払うべきである。


 その点で云うと退助はただの戦(いくさ)馬鹿ではない。
戦(いくさ)そのものより、
その後の手当を大切にしてきた。

 その結果、退助を慕っての
断金隊、護国隊などの結集。
日光の戦いを避け東照宮の文化遺産を保護して以降、
民衆の人心を掌握。
 三春藩の名誉を守る無血開城により、
その感謝の気持ちと
退助の人柄に心酔した者たちを中心にした
(後に表す)自由民権運動の活発化。

 そして会津藩では
敗戦後の傷ついた藩士の心情を慮り
名誉回復に努めた退助。
 またヤーヤー一揆に対し、
積極的鎮圧行動には出ず、
会津藩の旧役人を交渉の矢面に立たせ、
多くの要求を実現させた。

 その戦後処理の温情と対策に感謝し、
多くの会津人が土佐を訪れている。

 それとは対照的に、
(信じられない事に、)
戦争後150年以上経過しても、
未だに怨讐に取り憑かれている
会津人と長州、薩摩人。

 退助の戦後処理が
如何に卓越した行為であったかを
如実に物語っている。


 1868年11月17日
御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督
板垣退助は新政府より凱旋の令を拝し、
12月12日東山道総督府先鋒参謀
伊地知正治と共に東京に凱旋。
 一連の功績、
特に会津攻防戦での采配は
「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられ、
恩賞として賞典碌一千石を賜る。
1869年(明治元)1月 土佐藩陸軍総督に任命され、
家老格に出世、家禄600石に加増された。

 ただし、退助本人は出世や
俸禄の加増には興味を示さず、
江戸の妻、鈴、土佐の妻 展子に思いを馳せ、
凱旋再会後、妻たちに何と言葉を掛けようか?
 そればかり考えていた。

 凱旋の移動中は
退助にとって(妻たちとの対峙前の)
嵐の前の休息となる。

 特に展子の出迎えの反応が
怖いと思う退助であった。



    つづく