1926年、8月27日、ポーランド軍テストパイロットである
ボレスワフ・オルリンスキ大佐は
メカニックのフィリプ・クビャク軍曹とともに
ワルシャワから東京間10,300kmを飛行するため、
晴天の中、一路東へと旅経った。
これはヨーロッパ人の日本への初飛行であった。
一行はモスクワ、ハルビン等を経由しながら
九月5日に日本の所沢飛行場に到着し、
多くの日本人から熱烈な歓迎を受けている。
当時のポーランド情勢は、1918年第一次世界大戦終結と共に
ロシア、ドイツ、オーストリア=ハガンガリー帝国支配から解放され、
1918年独立、主権を回復した。それからわずか8年足らず。
しかもその間、ポーランド・ソビエト戦争を経験している。
1919年2月から1921年3月まで
ボリシェビキ政府とのロシア革命干渉の戦争で、
祖国ポーランドが分割された1772年以前の領土を回復し、
1791年以後の国家の版図を復活させるため、
ロシア内戦の混乱に乗じてロシア革命、
第一次世界大戦からの戦線離脱・敗戦と
こちらも建国間もないソビエトに侵攻した。
この戦争でポーランド軍は一時劣勢に立ち、
ワルシャワが包囲されるという窮地まで経験している。
結果何とか勝利し、領土回復を果たしたが、その国力は一気に疲弊した。
およそ150年もの間亡国・分割支配に苦しみ、
独立後も失地回復、誇りと名誉と意地を取り戻すために
戦い続けたポーランド人。
そんな苦難の中にあった中、
驚くべき技術の発展を見せた国でもあった。
それは航空技術。
ズィグムント・プワフスキという一人の天才航空技術者により、
1928年直列エンジンを搭載した
全金属製高翼単葉機のP.1を設計している。
当時世界最高性能を誇る戦闘機である。
その2年前の日本渡航。
当時のポーランドの航空技術の高さを証明する
画期的な出来事であり、
下地である技術の水準の高さを物語っていた。
ここでひとつの疑問が残る。
それだけ高い技術と知識を持つ国が何故侵略されたのか?
近隣諸国の侵略を許し何度も分割・亡国を
経験しなければならない国や民族は、
果たして国力全体の比較では劣っていたのか?
否、そもそもポーランドという国は、
中世においてポーランド王国、ポーランド・リトアニア共和国として
中央・東欧州随一の栄華を誇っていた。
ただ当時のローマカトリック教会の支配圏内の特徴として、
封建制度が中央集権の発達を阻害し、国力、
とりわけ軍事力の増大を封じ込める役割を果たしていた。
いったいどうやって?
その鍵はキリスト教という絶対的な権力にあった。
神は人の上にある存在であり、
神の使いとしての人間界の組織は教会である。
その頂点にあるのがローマ教会であり
そのまた頂点にあるのが教皇である。
人は神を信じ、その教えに従わなければならない。
それは一般の領民も国王・諸侯も変わらない。
封建社会に於いては、原始の万人の万人に対する闘争状態から
力による安全保障を領民それぞれの個人に約束、実行するのが
社会契約上の根拠となり得る国王・諸侯の権力の源泉である。
しかし国王にしても、諸侯にしても、お互いの領土争いや
権力争いには、戦争による力の屈伏か策略が付き物であり
自分の安全保障には自分の力以外頼れるものはない。
いつも闘争状態の不安の中暮らさなければならないのだ。
その不安を解消させてくれるもの。
それが宗教であり、教会である。
人間を超越した存在、絶対的な権力の下、
神の前では権力者たちも従う根拠であり、
神の名のもと、自分の権力も守られるのだ。
だから国王も諸侯も神の意思の代弁者である教皇の前では
従う必要がある。
歴史的なエピソードとして
『カノッサの屈辱』がある。
神聖ローマ帝国国王が領内の教会の収入を
我が物にしようとしたとき
収入を奪われた教皇は激怒、国王を破門した。
破門された国王はその瞬間、周囲の諸侯から
侵略の脅威に晒され、身の危険を覚えた。
それは国王と周囲の諸侯の力の差が少なく、
諸侯に団結して攻め込まれば
たちまち滅ぼされることを意味するから。
それに対し、早くから絶対王政を敷き、
中央集権化に成功したイギリスやフランスは
ローマ教会の言う事を聞かなくなった。
国内に於いて、自分に逆らう存在がなくなり、
教皇の安全保障がいらなくなったから。
逆に、ローマ教会の身になって考えると、
自らの権力・権威を保持するためには、
各国の国内政治に干渉し、国王・諸侯の分裂
分権状態を保持し続けなければならない。
つまり世俗権力の国王・諸侯の力の均衡があり、
その上に世俗を超越した宗教上の権力が
はじめて威力を揮うことができるのだ。
その中にあって、
ポーランドも主にカトリックが主流ではあったが、
他国とは少々事情が違った。
ポーランドは他民族連邦制的構成で成り立った国で、
宗教の強制は比較的ゆるい傾向があった。
貴族・聖職者の特権が非常に強いおかげで
王権が著しく制限され、地方分権的性格と多様性が強く、
近代国家移行の通過点でもある絶対王政、
中央集権を最も達成しにくい環境にあった。
ただしその政治の仕組みは共和制的近代民主主義の先駆けである。
と云っても、貴族・聖職者が構成する領主制議会に実権があり、
国民の大多数は農奴の身分の範疇で、何の権利も持たなかったが。
そう言う訳でローマ教会の支配力というより、
他民族、多宗教の集合体の地方分権であったが故の中央集権による
国力増強、国防力増強につながらなかった理由であり、
他国の侵略を許した原因となったのである。
更に王位継承争いから分断・国力減退につながり、
他国の侵略を許してしまった。
しかも1775年以降イギリスで始まった
産業革命の波がヨーロッパに席巻したとき、
ポーランドは他国の分割支配により、自由に産業の近代化ができなかった。
だからハプスブルク家が統治するオーストリアにも負けない有力国家であり、
中央欧州文化の花咲く中心地だったポーランドが、
分断支配から解放され1918年に独立するまでの長期間、
たち遅れた産業国家からのスタートを余儀なくされたのだ。
そうした不運から他国に支配された間にあっても
その血を脈々と受け継ぎ、
有名な名門ワルシャワ大学等、高等教育機関を通じ
文化や知識を継承してきたのは、
民族の持つ地力(ベース)の歴史的観点からみて不思議でも何でもない。
話が大きく逸れてしまったので、元に戻す。
さて先ほど登場したメカニックのフィリプ・クビャク軍曹。
彼は盟友でありパイロットのボレスワフ・オルリンスキは年上で
大佐である彼との階級差はあったにせよ、
動を共にする信頼おける仲間だった。
そんな彼らが日本に滞在した一週間、どんな思いでいたのだろう?
それは見るもの聞くものが初めての体験で、
眩暈がするほどの刺激的なものであった。
ヨーロッパ諸国とは正反対の国。地理的位置もそうだが、
価値観、行動様式、建築物に対する思想、料理の伝統など、
数え上げたらきりがないほどの違いに満ちた不思議の世界。
そもそも何故日本を目指した?
日本とポーランドにはそれ以前からの深い繋がりがあり、
互いが特別な国でもあったのだ。
彼らの関心は他のどの地域より興味と魅力に満ちていたので、
必然的に当時の空の大冒険の先に日本を選んだのは当然の選択であった。
そして彼らが予想した通り、いや、
それ以上の期待を超えた経験をすることができたのだろう、
後の彼らの行動に色濃く日本滞在の影響がみられた。
特にフィリプにとって、
彼が日本に対する強い関心を持つキッカケとなった
ポーランド孤児の日本での体験、日本という国の特殊性に着目し、
その後の彼の行動を大きく突き動かす事となった。
帰国後英雄の一員となった彼は少尉に昇進し、
ポーランド北部グダニスクからおよそ200km東に位置する
軍の施設に赴任した。
そうした地理的条件も関係し、
やがてポーランド孤児たちが帰国後過ごした
バルト海沿岸のヴェイローヴォ孤児院に足繁く通うようになる。
日本から帰還した同胞の孤児たち。
興味と親近感と祖国を愛する使命感から自然と足が向くのだろう。
しかし次第に彼の目的は変質していった。
それは一人の少女の存在にある。
初めて出会った時彼は20代前半、彼女はフィリプより一回り以上年下の
現在の日本でいう小学6年生くらいだったが、
その時すでにその夢見るような表情と、
会う人に目の前がパッと明るくなったような気持ちにさせる
快活さと美貌をもった人目につく少女だった。
当初は単にませた少女に過ぎなかったが、
時が経ち訪問回数が増えるに従い、
彼女の成長とその魅力は比例するように増し、
そしていつしか彼は彼女を意識し、
当然のように恋をするようになっていた。
彼女の名はヨアンナ。
時が経ち少女だったヨアンナも大人になり、
自分の居場所と成すべき仕事を見つけ、
孤児院の世話と孤児たちが構成する極東青年会のメンバーとなり、
活動に没頭するようになっていた。
彼らの活動を側面から支援し続けてきた日本大使館との交流でも、
フィリプは彼女と出会う機会が数多くあった。
歳の差が一回り以上違う彼女に対し、
年上の気おくれから彼女に自然な会話などできる訳もなく、
ただぎこちなく、他愛のない挨拶をするのが関の山だった。
ただし彼女の方は彼の気持ちを知ってか知らずか、
時折ポーランドの青く澄んだ夏空のような
気持ちの良い笑顔で話しかけてくるのだった。
「まあクビャクさん、ごきげんよう。
いつも慈善パーティにご協力いただき、
ありがとうございます。
おかげさまで子供たちも皆喜んでいますのよ!
是非今宵もごゆっくりお楽しみください。」
夏に一斉に咲き誇る花々のような匂いが
伝わりそうな軽やかな声でそう言った。
「そう言っていただくと返って恐縮です。
私もあなた達と同じく、
日本を経験した同志だと思って参加させてもらっているのですよ。
だからそんなお気遣いは無用です。」
心の中では「クビャクさん」ではなく、
「フィリプ」と親しみを込めて呼んで欲しいと思っていたが、
そんな言葉を口に出す勇気はなかった。
彼は決してさえない風体の男ではない、
むしろ誰から見てもさわやかな好青年で、
街を歩くだけで、
道行く女性たちが密かに振り向くほどの好男子でもある。
ただ自分より若すぎる素敵な女性に気おくれしていた。
そういう慎ましさと誠実さが彼に備わった特徴でもあった。
「そうでしたわね!
私たちはこの地で数少ない日本体験をしてきた絆で結ばれた友。
クビャクさんは年上ですが大切な親友のような存在なのですね。」
「そうですとも!だから困ったことがあったら
遠慮なく申し出てください。
私にできることなら精一杯お手伝いさせていただきますよ。」
満面の笑みを添えて彼は言った。
「ありがとうございます。とても心強く思いますわ。
私たちの組織はいつも困難な状況の中にいて、
絶えずたくさんの支援者の皆様のお力添えを必要としています。
厚かましいとは思いますが、
必要な時には遠慮なく助けを求めることになると思いますが、
その時はどうぞよろしくお願いいたします。」
そう言って彼女は右手を差し出した。
「喜んで全力を尽くさせていただきます。」
ときめく心を必死で隠しながら、彼は握手した。
その時が初めて彼女に触れた瞬間だった。
その日を期に、
彼と彼女は会う機会がある度に打ち解けた軽い挨拶の他、
ちょっとした季節の話などを織り交ぜた会話をするようになった。
しかしふたりの距離はそれ以上進展することなく
時ばかりが過ぎていった。
それから数カ月の時が経ち、暗黒の年がやって来た。
1939年4月28日、ドイツは
ドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄、
不安と現実の危機が目の前に迫り、同年9月1日早朝、
ドイツ機甲師団が雪崩を打って国境を越えてきた。
瞬く間に占領された祖国。
再び他国の支配に甘んじなければならない辛い毎日の始まりだった。
そんなある日の慈善パーティでのこと。
いつものように彼はヨアンナの姿を目で探しながら、
会場の隅で参加者たちの人間観察をしていた。
しばらく経って彼は彼女の姿を見つけた。
いつものように挨拶に向かうと、
彼女は正面に立つある男性と親し気に話している。
しかもそれは東洋人。会話内容が聞こえないほどの距離のため
いったい何を話しているのか聞き取ることはできない。
しかし、フィリプは片思いの異性に対する鋭い観察力と
一瞬にして発揮される直感により、
ただならぬ親密さを感じ取った。
そのふたりだけの空間には部外者の入り込めない
見えない壁と厚い扉の存在があるように思えた。
「!!!」感嘆符付きの衝撃が背筋を貫く。
務めて冷静を装うつもりでいたが、掌と額の汗は隠し通せない。
少し距離をおいた所で佇みながら、
ただただ汗をぬぐうしかなかった。
会場の同じ空間にいながら、すぐ近くに存在しながら、
天と地ほどの乖離した世界に迷い込んだ気がした。
どれほどの間傍観していただろう。
気がつけば会話を終え、
自分の存在に気がついたヨアンナが私に歩み寄ってくる。
いつもの私に向ける笑みをたたえながら。
「今日もいらしてくれたのですね。
お声をかけてくださればよかったのに。」
(今しがたまでお話されていたあの方はどなたですか?)
そう聞きたい!眩暈がするほど激しく揺れる心を必死で抑えながら、
「貴女が親し気に会話をされていたので、
つい声をかけそびれていました。」
声がひっくり返るのではないかと心配するほど、
高いトーンでうわずった口調になってしまった。
(ああ、情けない!恥ずかしい!大の大人が、
大の男が何というザマだ!!)
その様子に一瞬クスっと笑い、「失礼!」と彼女は言った。
「あの方は日本人で、昔お世話になった事のある方でしたのよ。」
「紙で折った鶴を私にプレゼントしてくれた方。
私の大切な思い出なの。」
少し伏し目がちに彼女は言った。
(私の感情を見抜かれた?どう返したらいい?)
しどろもどろしながらフィリプは少し長い沈黙のあと、
「そうでしたか。大切な方なのですね。
貴女の眼差しを見ていてそう思いました。」
快活そうに応えた。
幾分不自然なフィリプの様子に気づかないのか、
いつもなら鋭いほどよく気がつく娘なのに、
先ほどの日本人の彼との会話の直後のためか、
その余韻から上気した表情のまま、夢見心地で構わず
「そう、あの方と日本は私のかけがえのない思い出。
国に戻ってパンジーや水仙やヒヤシンスを見ても、
穏やかで気持ちの良い夏の日の日差しに身を委ねてみても、
思い出すの。
まだ幼かった日本での生活を。」
近くのテーブルに置かれたワイングラスを見つめながら、
何かを追いかけるような目で独り言のようにつぶやいた。
「私はいつも不安と共に暮らしてきました。それは今も同じです。
両親を亡くし、頼れる兄弟姉妹もなく、
何の力も後ろ盾も持たない孤児が生きてゆくのは、
月も星もない暗黒の夜道を歩くようなもの。
せめて少しの灯りと道標が無ければ生きてゆけません。
秋の風が吹くとき、どんなに暖かなコートを身にまとっても、
冷たさが身に沁み、寂しさが身に応えます。枯葉が風に舞い、
目の前を通り過ぎる時、
今まで生きてきた自分の人生と重なるんです。
木枯らしのような暮らしを、吹けば飛ぶような虚しい営みを。
だから暑かった日本の充実した夏の日を、
人々の温かい眼差しと
楽しかった日常をいつまでも忘れないでいたいのです。
いなくなった両親に成り代わって優しくしてくれた
あの時代に感謝と恩を忘れたくないのです。」
フィリプはヨアンナを堅く抱き締めたい衝動に駆られた。
幾分落着きを取り戻した彼は、
愛おしさで心が満たされ、自らの嫉妬を恥じ、
「私は不用意に貴女の深い悲しみや孤独に立ち入ることはできません。
でも、これだけは気に留めておいてください。
私はいつでも、どんな時もあなたの力になれるような人間でありたい、
貴女の心に寄り添える人間でありたいと願っています。
そしてそう思っているのは私ひとりだけじゃなく、
神も身の回りのたくさんの人たちも貴女に対し願っていることです。
そしていつも見守っています。
それは貴女も感じている筈。そうでしょ?」
今度はまっすぐ彼女の目を見据えて力強く言った。
ふたりは暫く見つめ合っていた、無言で。
ふと我に返り、ヨアンナは伏し目がちになりながら
一言添えその場を辞した。
やがて戦争はその激しさを増し、
戦乱の拡大は留まるところを知らなかった。
1941年10月4日、
在ポーランド日本大使館の閉鎖が発表され、
12月8日午前1時(日本時間)には
日本がイギリスのマレー半島を攻撃し
ここに太平洋アジア戦争が勃発
次いで同12月8日ハワイ真珠湾奇襲、
12月11日ポーランドの日本への宣戦布告と、
怒涛の展開が全世界を覆った。
その戦乱の拡大の少し前、
在ポーランド日本大使館閉鎖の発表の少し前、
ヨアンナの身の回りで悲劇が起きた。
彼女が密かに心を寄せていた井上敏郎が
彼女を庇いドイツ軍の銃弾に倒れた事件が発生。
その日を境に彼女は悲嘆にくれ、
人が変わったように抜け殻生活が始まった。
来る日も来る日も無気力な生活。
もう、お世話しに通っていた孤児院どころではなかった。
そして迎えた閉鎖された日本大使館最後の係官が立ち去る日
彼女は何かにすがりつこうとするかのように、
ヴェイヘローヴォ孤児院を去り一路大使館にあったワルシャワに向かい、
その地に立っていた。
彼女を心配し、
いつも見守っていた極東青年会のメンバーは、
その中心に拠点を置いていた
ワルシャワ市内の複数のアジトの一室を彼女に与え、
万全のサポート体制をとることにした。
一方、ドイツ軍のポーランド侵攻後、
ポーランド政府が瓦解、
政府要人がロンドン亡命政府を組織し、
その指揮下ポーランド国内残存兵士たちにより
レジスタンス目的に組織された軍隊「国内軍」
に参加する事となったフィリプは
偶然にもワルシャワに移転していた、
ヨアンナもワルシャワに来たとの知らせを聞き、
すぐさま駆け付け、何かと面倒をみようとした。
彼女の住むアパートを訪れる時、
独身女性宅への来訪との配慮からメンバーに同行してもらい、
当時ワルシャワ市内では食料が不足し入手困難だったので、
何とか手に入れたジャガイモや豆や、
パン、ワインなど差し入れを持参した。
当の彼女は、影となり日向となり、
自分たち孤児院や青年会のメンバーの後ろ盾となり
庇護してくれた大使館を喪失することで、
心の中の最後の砦を失った
敗戦の残存戦士のような気持ちに陥っていた。
またひとつ私の大切なものが消えてゆく・・・。
見るも無残にやせ細り、生気のない彼女を見て、
フィリップは大そう心を痛めた。
「おお、ヨアンナ!今のあなたの姿を見ていられません!
どうか私にも貴女を守らせてください!
私は神様の次にあなたの事を深く思っています。
どうか、どうか、その闇から連れ出させてください!」
彼女はしかし、大きく何度も頭を振り、
「お心遣いありがとうございます。
でももう暫く放っておいてください!
私は今、無くしたものの弔いをしています。
幼い頃シベリアでの逃避行で両親を亡くし、
友を失い、
大切な日本の想い出の彼を私の身代わりの犠牲で失い、
大使館が去っていきました。
もう少しだけ私の心をあの方たちに添わせてください。」
フィリプはヨアンナの一滴(ひとしずく)の涙を
見たような気がした。
フィリプはヨアンナにつかず離れず、
そっと見守る事にした。
そんな状態が続き、我慢強く通っていたある日。
ヨアンナの視線が自室の窓の横にある壁の
数枚の写真から離れなかった。
フィリプはヨアンナがその写真たちと
会話しているように感じた。
やがて彼女の表情に微かに赤身を帯びた生気が戻ってきた。
そして彼女はゆっくり向き直り、フィリプに言った。
「この写真は日本とお世話になった人たちの写真です。
幼い頃私が日本に滞在したころは、
もう両親はこの世に居ませんでした。
だから勿論この写真には写っていません。
私は父の写真も、母の写真も持っていないのです。
でもこの懐かしい写真たちを眺めていると、
何故か父と母を思い出します。
そしていつも私を励ましてくれるのです。
優しく包み込み、
悲しさや苦しさを和らげてくれるのです。
だから今までずっと写真を見て
父と母を思い出していました。
私の父と母が私に言うの。
もう泣くのはおよしなさい。
あなたに涙はふさわしくない。
あなたがこの世に生を受け神から授かった使命は
周りの人々を明るい陽の光のように照らす事なのだから。
だからいつまでもあなたが塞いでいたら、
皆が不幸になってゆくの。
だからそろそろ顔を上げ前を見て、
自分の目の前に見える道を信じて歩みなさい。
神様も、そしてまわりの皆も
そうする事をまっているのだから。
私は自分をそんな風に思った事はありません。
でもそれが父と母の願いなら、その期待に応えたい
だからもう嘆きという闇と霧をかき分けて歩き出します!
ご心配をおかけしました。」
少しだけ笑顔を見せ約束してくれた。
「貴女にはご両親が見えていたのですね?
きっと優しく立派な方だったのでしょう。」
「ええ、そうですとも!父も母もシベリアでサヨナラしたけど、
いつも私を見守り、
応援してくれていると信じています。
父はある日食料を調達するために
母と私を置いて出たきり帰ってきませんでした。
それから何年も経ってから、
伝え聞きで父の最後の消息を知りました。
父は身に着けていた大切な腕時計と交換して、
やっと手に入れた食料を地元の暴漢に襲われ
奪い取られてしまいました。
そしてその時必死で抵抗し、命までも奪われたと。
最後まで私と母の名を呼びながら息を引き取ったそうです。
その様子を目撃した知人は
自分の保身から助ける事ができなかったと。
申し訳なくて、私たちに顔向けできなくて、
そのことを打ち明けられずにいたと。
いくら待っても父は帰らず、諦め先へ進みながらも、
お金もなく食料と交換できる物も尽き、
とうとう母は私の行く末を案じながら、
父の待つ天に召されていきました。
自分は何も食べず、極寒の中、
暖もとらず私を守り続けた最後でした。
母の死をみとりながらも、
孤児になった私を同行していた隣人たちが私を守りながら
イルクーツクまで連れて行ってくれました。
今私がこの世に生きていられているのも、
たくさんの人たちが手を差し伸べてくれたおかげです。
だから私は父に恥じないよう、母に恥じないよう、
お世話をしてくださった皆さんの心に応えられるよう、
生きてゆかねばなりません。」
フィリプはその時から彼女に
生涯を捧げる決心をしていた。
例え結ばれることが無くても。
ワルシャワゲットー蜂起
その頃のワルシャワはドイツ軍による支配の中、
混沌と劇的な変革の渦中にあった。
その一番の主人公はワルシャワ在住のユダヤ人の存在だった。
ドイツ軍のポーランド侵攻直前当時、
ワルシャワにはユダヤ人が37万5000人いた。
実に市内人口の30%を占め、
アメリカニューヨークに次ぐ多さだった。
ワルシャワ占領直後から、
ユダヤ人封じ込めの政策が検討されていたが、
1940年3月以降市内にチフスが蔓延し始めた。
特にユダヤ人居住地区に。
同年10月2日正式にユダヤ人評議会に命じ、
ゲットー建設が始まり、11月には完成をみた。
その広さは従来の居住地区の3分の2、
ワルシャワ全面積の2.4%、
最大人口は44万5000人に及んだ。
それはナチスドイツによる全ゲットー最大規模を誇った。
更に完成間もない11月16日、ゲットーは封鎖され、
特別に通行許可証が発行された時以外の通過は許されなかった。
ゲットー内の運営はドイツ当局の監督のもと、
ユダヤ人評議会が行った。
その中にはユダヤ人ゲットー警察さえ存在した。
その運営は自由主義的統治で、
ブント、社会主義シオニスト党、
青年運動などが活発に地下活動も行っていた。
しかし同じユダヤ人社会でありながら、
貧富の格差も顕著に出現し、
飢餓に苦しむ貧困層に対しては
ユダヤ人相互援助協会(ZTOS)が組織され救済にあたった。
ゲットー内では
一般の市場原理に伴う生産活動も活発に行われたが、
仕事を持たないものは、強制労働に駆り出された。
1942年7月22日、ラインハルト作戦決行に伴い、
ユダヤ人を東部に移送する旨通告された。
ゲットー解体と強制収容所移送に伴う
ホロコーストの始まりである。
トレブリンカ絶滅収容所移送は、
決して戻ることのない片道切符の旅。
そのスピードは極めて迅速で、わずか10日足らずで6万人、
8月半ばまでに全体の半数、
第一次移送終了の時点で30万人が駆り出され、
死出の旅へと向かわされた。
それまで無抵抗の姿勢を貫いていたユダヤ人社会にも、
ようやく抵抗への機運が高まり、秋頃から準備が始まった。
共産党、シオニスト党、
社会主義者で構成されたブントが10月20日に合弁、
ユダヤ人戦闘組織(ZOB)結成、
戦闘団など22の部隊が組織された。
総指揮官は
モルデハイ・アニエレヴィッツ(24)が任命された。
彼らがまず標的にしたのはゲットー警察、
その上部組織のユダヤ人評議会へのテロだった。
それと平行し、
抵抗に必要な武器の調達が至上命題だった。
武器購入資金を得た組織は
ゲットー部外のポーランド人に密かに協力を要請、
武器入手を企図した。
しかし頼みの綱のポーランド人達も
ドイツによる被支配階層であり、
そう簡単に準備できるわけではなかった。
しかも全てのポーランド人が
ユダヤ人に協力的というハズもなく、
むしろ反感・差別意識の強い者が多数を占めていた。
そんな背景もあり、
多額の購入資金を託したにも関わらず、
僅かな武器しか入手できなかった。
指揮官モルデハイの目論見では、
少なくとも拳銃100丁、
小銃数丁を見込んでいたが、実際に渡されたのは、
たったの拳銃10丁のみであった。
いくら抗議してもそれ以上は渡されず、
思わず天を見上げた。
ドイツ人による殺害の脅威に晒され、
隣人のポーランド人に見放され、
孤独で絶望的な戦いを強いられる現実を
改めて見せつけられた気がした。
決起=鎮圧による死
無抵抗=絶滅収容所行による死
生という選択肢も可能性もゼロの明日に
涙すら出てこなかった。
それでも決起を選ぶ理由は、
民族と各々の人生の誇りと意地を守るために
他ならなかった。
あらゆる手立てとネットワーク、
手段を駆使し、新たに数丁の機関銃、
ポーランド人レジスタンス組織「国内軍」などから拳銃50丁、
手りゅう弾50個、爆薬など最低限の支援を得た。
先ほどと、ここでも登場したフィリプも所属する国内軍。
説明が先と重複し、くどくなるが、
ポーランド政府残存要人がロンドン亡命政府を組織し、
その指揮下国内残存兵士及び有志たちにより
祖国の独立と自由を標榜し、
レジスタンス目的に組織された地下組織軍隊である。
しかし圧倒的な軍事力を誇るドイツ軍に対し
あまりに貧弱な武装しかできない義勇軍にすぎなかった。
話を戻す。
1943年4月19日750人の戦闘員が決起、
火炎瓶と少数の銃で
ドイツ武装親衛隊と警察の部隊に武力蜂起した。
初日こそドイツ軍を撃退したが、
翌日体制を立て直したドイツ側は徹底した焦土作戦を決行、
5月16日に完全鎮圧戦闘は終了した。
結果残存市民5万6000人が連行され、
射殺・収容所において特殊処理(ガス室送り)された。
その後ワルシャワゲットー跡地に強制収容所が建設され、
新たな悲劇の象徴に生まれ変わった。
ゲットーの瓦礫の撤去作業に強制収容所の囚人と、
ポーランド人労働者が動員された。
また蜂起による戦闘中
ゲットーの外に逃亡したユダヤ人狩りが行われ、
ポーランド人市民による密告が横行、更にギャングが現出し
見つけ出してはユダヤ人からお金などの財産を奪い取っていた。
その間、その様を目撃した
一般の善良なポーランド人市民たちはどう思っていたのだろう?
たとえユダヤ人が嫌われていたとしても
その悲劇にはさぞ心を痛めていただろう。
そして明日は我が身の運命を悟ったのだった。
ゲットー近くに住まうヨアンナは
その一部終始を目撃していた。
時に逃亡してきたユダヤ人を匿い、
食料を与え、できる限りの援助に務めた。
しかしその行為を知るに至り、
支援していた青年会のメンバーから
ドイツ側への発覚を恐れ厳しく窘められた。
彼らとて決して平気で傍観していたわけではない。
反抗の準備ができていなかったのだ。
火の粉を自ら掃えない現状では
関わることは自殺行為に他ならない。
涙を飲んで見過ごすしかなかった。
被支配層同士が団結できない悲哀が彼らの心を寒くした。
しかし何故ヨアンナは身に危険を顧みず
ユダヤ人に救いの手を伸べたのか?
そもそも何故ユダヤ人は絶滅を企図され、
ホロコーストの犠牲にならなければならなかったのか?
ヒトラーや一般のドイツ人に嫌われただけならまだしも、
全ヨーロッパに蔓延した反ユダヤ主義は
どんな理由があっての事なのか?
何故殺されなければならないほどにくまれ
殺りくを傍観されたのか?
何故どこからも救援が無かったのか?
世界で唯一当時新世界と呼ばれたアメリカが受け入れたが、
それもナチス台頭のユダヤ人弾圧初期の頃の話。
大戦の動乱が進み難民が殺到すると、
さすがのアメリカも次第に入国条件のハードルを上げ、
受け入れ制限政策に舵をきり、
積極的な救済に動くことはなかった。
来るものは条件付きで拒まず。
それがアメリカの態度だった。
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に登場する
ユダヤ人悪徳商人シャイロックに代表される
悪人のイメージがユダヤ人全体の印象だったとしたら、
あまりに悲しすぎる。
仮にそのような悪人が多数存在していたとしても、
それは民族全体にあてはまる訳ではあるまい。
同じ数だけ善人が存在し、
大多数は普通に生活する庶民に過ぎなかったのではないのか?
ユダヤ民族が団結して
組織的な犯罪、殺人、弾圧・抑圧、搾取を長年繰り返してきたのなら
多少は納得もできるだろうが、そうではあるまい?
ただユダヤ教に固執し、
社会に積極的に溶け込む努力が足りなかっただけで、
商才にたけた人物が他民族より多く、
金持ちが多かったというだけで、
そこまでの憎悪の対象になるのか?
ならなければならなかったのか?
人類の歴史は終始あまりに人命の価値が軽かった。
第二次世界大戦終結後の
条約・法律・社会制度・人権の仕組みが
整えられた現在でも
紛争や差別や対立や難民が絶えないが、
それ以前はそれらが未整備の状態の中、
おびただしい悲劇が起きた。
その中にあっても、
ユダヤ人ホロコーストは異彩を放つ突出した悲劇だった。
ヨアンナは納得できないでいた。
しかしただ彼女がきれいごとの世界、
お花畑の中の住人だったわけではない。
単なる軽佻浮薄なヒューマニズムから
気まぐれの衝動的な行動として手を差し伸べたのではない。
彼女の生い立ちに思考の原点、行動の指針があった。
故国を捨てシベリアに逃避した難民の子として、
途上両親を失い、
周囲の悲劇を多数目撃し、
それ以上の善意の救済を経験し、現在まで生かされてきた。
善意は人を救う。
無関心や憎悪は人を死にも追いやる。
自分はどちらの道を選択すべきか?
その答えが総てだった。
彼女は瀕死の逃亡ユダヤ人にパンを施す度、
匿うため一夜の隠れ場所を提供する度、
自分の無力さを感じていた。
できる事の限界を感じていた。
この人たちを遥か遠くの国、
日本に送ることができたら。
きっとたくさんの人を救えたのに・・・。
自分たちの民族も武力で占領され、
支配されている苦しい状況に居ながら
ヨアンナはそんな事を考えていた。
こんな状況の中、
あるひとりの男の言葉が思い浮かばれる。
―マルティン・ニーメラー―
反ナチ運動家で、弾圧された経験から
後に記された詩からの言葉である。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき
私は声を上げなかった
私は共産主義者ではなかったから
ナチスがユダヤ人を連行して行ったとき
私は声を上げなかった
私はユダヤ人ではなかったから
そしてナチスが私を攻撃したとき
私のために声を上げる者は
誰一人残っていなかった
ゲットー蜂起が鎮圧され終結すると、
明らかにヨアンナは沈んでいた。
フィリプはその気持ちが理解でき、心を痛めた。
意を決し、すべての勇気をかき集め、
告白しようと思った。
今しか機会はない、この時を逃したら、
二度とチャンスは来ないだろう。
できるだけそばにいるよう努力し、
彼女の信頼と安心を勝ち得たかもしれない今、
打ちひしがれ、先行き不透明で不安に駆られる中、
愛する者として、庇護者として名乗り出よう!
そしてある日とうとう告白の時は来た。
本当はビスワ川のほとりなどに連れだって
ロマンティックな環境の中で
誠意を示すべきだったのだが、
ナチスの兵士がいたるところに存在する状況では
とてもではないがふさわしくない。
仕方ないが彼女の居住するアパートで
他の人が忙しく動き回る中、一瞬二人だけになった。
今だ!
「ヨアンナさん、少し良いですか?
大切なお話があります。」
まただ!声が上ずってしまった。畜生!!
しかし心の声を押し殺し、
平然を装い彼女の答えを待った。
その改まった様子に何かを感じたのか、
彼女は少し緊張したような表情になった。
「はい、何でしょう?」
彼の正面に向き直り、彼女は聞いた。
緊張した面持ちでハンカチを握りしめながら口を開く。
「手短に言います。私と結婚していただけませんか?
この戦乱の非常時に、
貴女の置かれた今の環境で唐突にこんなこと言われても
困惑するのは分かっています。
歳の離れたこんなオジサンに
告白されるのは迷惑かもしれません。
それでも貴女に私の気持ちを伝えたい。
打ちひしがれた貴女の心を私の愛で満たしたい。
孤独と不安と危険から守りたいのです。
この地は危険と不条理に満ちています。
貴女を理解し心から愛し続けたい私の気持ちを、
どうか受け取ってください。
全力で幸せにします!」
長い沈黙が続いた。
こわばる彼女の表情からは答えは見えてこない。
この不安と緊張は永遠に続くのか?
そう思った時、彼女の重苦しい口が開いた。
「おっしゃることは分かりました。
私が孤児だから同情して
おっしゃっているのではないのですね?
それでは少し時間をください、
考えさせていただきたく思います。」
「この場で断らないと云う事は、
少しは脈があるのですね?」
「もちろんです!真剣に考えさせてください。
でも突然だったし、今の私の状態を考えると、
すぐには答えを出せません。」
「良かった!この場で即座に断られるかと思っていましたので。
待ちます!いつまでも待ちます。ええ、待ちますとも!」
数日後再度訪れた時、
待望の返答を受けとることができた。
「こんな私ですが本当によろしいのですか?」
「私には何もございません、
身ひとつで嫁ぐ事になります。
一旦嫁いだら、何があっても他に帰る場所はありません。
そんな私でも・・・」
フィリプは言葉を遮るように、
「私の命に代えて一生あなたを守ります!愛し続けます!」
「ああ、神よ!心から感謝いたします!」
ここでもしヨアンナが現代の日本人だったなら、
間違いなく
「神様にではなく、私に感謝してよ!」
と思ってしまうだろう。絶対に!
ほどなくヨアンナは慎ましやかな式を挙げ、
フィリプの用意したワルシャワ市内の一角の
アパートの新居に移り、
暗い世相の中、精一杯の明るい新婚生活をおくった。
しかしそんな幸せな日々は長くはなかった。
ワルシャワ市民蜂起
1944年6月22日
ソビエト赤軍がバグラチオン作戦を決行、
ドイツ中央軍団が壊滅的敗北を期し、
敗走を始めた。
7月30日赤軍がワルシャワまで
あと10km地点まで迫った。
8月1日ポーランド国内軍は赤軍に呼応するように、
ワルシャワに於ける武装決起を申し入れ打ち合わせた。
しかしその前日の7月30日、
危機感を抱いたドイツ軍が反撃、
甚大な損害を赤軍は被っていた。
更に補給が行き詰まり、
結果赤軍は進撃をそこで停止した。
しかしポーランド国内軍に
赤軍の進撃停止の情報は伝えられず、
それどころか、
前日の7月29日にはモスクワの放送局から
決起開始を呼びかけるラジオ放送が流れ続けていた。
これを聴いていたワルシャワ国内軍は
赤軍の位置から進撃からワルシャワ到達には
時間はかからないと判断、
8月1日17時約5万人の国内軍が決起を開始した。
そして重要官庁、駅、橋をいち早く確保、
ドイツ軍の拠点である兵舎、補給所を襲撃した。
その決起時間は後に『W』と呼ばれ
サイレンと共に黙とうを捧げる日となっている。
決起開始後重要拠点確保の報を受け
決起指導者のタデウシュ・コモロフスキは
ワルシャワ市民に対し、ラジオ電波でこう呼びかけた。
親愛なるワルシャワ市民よ!
承知の通り再び抑圧からの解放のため、
多くの同志が立ち上がっている。
父が!兄が!弟が!友が!隣人が
あなたのため戦いの渦中へ身を投じている!
私たちの手から無残に奪われてしまった、
愛する祖国と自由を再び取り返すため、
持てる力とありったけの勇気を振り絞り、
自らの生も死も厭わない苦難の道を突き進んでいる!
誰のためか?何のためか?
生きてきた証を残すため、
砕かれた誇りを取り戻すため、
生まれ育ったこの地に咲く花々と営みを蘇えらすため、
そして何よりも大切な母、愛しい妻や恋人、
何としても守りぬかねばならぬ我が子たち!
今まさに銃をとり、歯を食いしばり、
銃弾の飛び交う中、敵陣に向かって
突っ走ろうとしている!
全ては守るべきものがあるからだ!
何故今立つか?
それは気の遠くなるほど長い苦難の道のりを歩み続け、
ようやく扉に辿り着いたからだ。
その扉の向こうは自由なのか?明るい未来なのか?
誰もが望む希望なのか?
それは誰も分からない。
だが私は確信する!扉の向こうの世界は、
その先に続く道は、
自分で切り開いてゆくべきところだと。
父祖が築いてきた脈々と流れる
栄光と、挫折と、喜びと、悲しみと、
つつましくも幸せな暮らしの昨日を、今日を、
誰もが望む輝ける明日へと変え、
後に続く者たちにその力と望みを託すために!
親愛なる市民よ!
我が同志は立ち上がっている!
後に続く者たちよ!
自らの成すべき役割を自覚し、
今できる事に全力を尽くしてほしい!
あなたひとりの力は決して微力なんかではない!
神が授けた尊い奇跡を起こす鐘を鳴らすのだ!
高らかに打ち鳴らせ!歓呼の声を聴け!
暗雲を吹き飛ばす嵐を巻き起こせ!
決して後悔してはいけない。
立つときは今なのだ!
希望の扉はすぐ目の前にある!
『神が我らと共にあるならば、
誰が我らに逆らうか!』
最後に諸君に問う!祖国は誰のものか?
市民は奮起した。
ワルシャワ市内には、
治安部隊を中心とした12000名の
駐留ドイツ軍がいた。
しかしそのうちの戦闘実働部隊は1000名のみだった。
しかし武器を持たない国内軍は数で圧倒しても
目標のうち兵舎と補給所のみしか占領できずにいた。
しかしその占領地から武器と小火器と軍服を奪い、
国内軍に配られ多少の改善があった。
そして決起のメッセージに呼応し
多くの市民が国内軍に参加、
ドイツ軍の反撃に備え、バリケードを築き張り巡らした。
その中には勿論国内軍のフィリプと、
青年会のメンバーのひとりであったヨアンナの姿があった。
当初フィリプはヨアンナの参加に猛烈に反対。
夫婦初?の険悪な夫婦喧嘩を展開した。
しかしヨアンナは一歩も引かず、
強引に補給・伝達係として参加した。
鎮圧軍司令官エーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は
ヒトラーの命を受け、
蜂起した国内軍の鎮圧及び徹底した
ワルシャワ市内の破壊を忠実に実行すべく作戦を決行した。
8月3日
近隣に駐屯していた部隊をかき集め臨時戦闘団を編成、
西側から攻撃を開始した。
攻撃部隊の中には素行の悪いカミンスキー旅団や
ディルレヴァンガーSS特別連隊が含まれ、
戦闘には目もくれず、略奪、暴行、虐殺に励んだ。
その様を目撃し、市民は怒りを新たに結束、
戦意高揚の効果が生まれた。
7日激しい市街戦が続き、
国内軍占領地が分断され、
包囲されていたドイツ部隊が解放された。
19日国内軍猛反撃。電話局占領。
120名のドイツ兵捕虜となる。
カミンスキー旅団やディルレヴァンガー部隊に対する報復として
捕虜のうち彼らを全員その場で処刑した。
一方赤軍に追従していた第一ポーランド軍は
国内軍支援のため、
ヴィスワ川の渡航を許された。
しかし輸送力に余裕があった赤軍は
動かず力も貸さず静観した。
やむなく第一ポーランド軍は、
必死に国内軍レジスタンスへの支援をしたが、
全く不足していた。
彼らの目に燃え盛るワルシャワ市街が見え、
涙の中に口惜しさから
唇から血が滲むほど噛み締めたという。
ここで新たに登場した第一ポーランド軍とは何者?
第二次世界大戦のキッカケとなるドイツ軍のポーランド侵攻。
その破竹の勢いにたちまちポーランド全土が飲みこまれ
余勢をかってソビエト領内まで攻撃の手を伸ばした。
しかしやがて無敵だったドイツ軍の勢いにも陰りが見られ、
退却に退却を重ねついにソビエト領内から駆逐され、
更にポーランド領の東半分をソビエトが占領すると、
ソビエト政府によるルブリン傀儡政権が打ち立てられた。
そして直ぐさまソビエト赤軍にうち従う軍隊が組織された。
それが第一ポーランド軍である。
憎むべき事に、
ソ連はアメリカ、イギリスが承認した
ポーランド亡命政府の息のかかる
国内軍の支援を申し出たが同意せず、
ドイツ軍のワルシャワ鎮圧に手を貸した。
やがてドイツ軍の物量に圧倒された国内軍は
次第に鎮圧され蜂起は終息に向かっていった。
8月31日国内軍は北側解放区放棄、
9月末ほぼ壊滅した。
1944年10月2日
放棄指導者タデウシュ・コモロフスキの降伏を
鎮圧軍司令エーリヒ・フォン・デム・バッハが受け入れ
蜂起は終結した。
結果蜂起参加者はテロリストとして処刑。
レジスタンス、市民合わせ22万人が戦死、
若しくは処刑された。
そしてワルシャワ市内は鎮圧軍により破壊を徹底、
ヒトラーの厳命は忠実に守られた。
しかしその後、イギリス政府がラジオを通じ、
レジスタンスへの処刑は戦犯と見なすとの放送を流し、
警告したため、処刑は途中で中止された。
間一髪で処刑から逃れたフィリプ。
ヨアンナと生還を神に感謝したが、
1945年1月12日ようやく進撃してきた赤軍は
レジスタンス幹部を逮捕。
ポーランド自由主義政権の可能性の芽を摘むため、
鎮圧傍観と弾圧の裏切りに終始した。
何とか逃亡に成功したフィリプは森に逃げ込み
反共パルチザンとして
数年共産政府要人暗殺テロ活動などに参加、
1950年2月銃撃戦の末ソ連兵に射殺された。
その5年前、
ワルシャワ近郊の避難先に居を定めていた
ヨアンナは元気な男子を生んでいた。
その子はアダムと命名された。
その一月後、
反体制パルチザンとして
射殺された夫フィリプの身元が割れ、
ソ連治安部隊がヨアンナの居宅を急襲、
付き添いの元青年会メンバーひとりが
抵抗の素振りを見せたため、
ヨアンナと共に射殺された。
ようやく5歳になったアダムだけが生き残り、
残りのメンバーに引き取られた。
ヨアンナ35歳。
最後までアダムの行く末を案じながら
息を引き取った。
おわり
ボレスワフ・オルリンスキ大佐は
メカニックのフィリプ・クビャク軍曹とともに
ワルシャワから東京間10,300kmを飛行するため、
晴天の中、一路東へと旅経った。
これはヨーロッパ人の日本への初飛行であった。
一行はモスクワ、ハルビン等を経由しながら
九月5日に日本の所沢飛行場に到着し、
多くの日本人から熱烈な歓迎を受けている。
当時のポーランド情勢は、1918年第一次世界大戦終結と共に
ロシア、ドイツ、オーストリア=ハガンガリー帝国支配から解放され、
1918年独立、主権を回復した。それからわずか8年足らず。
しかもその間、ポーランド・ソビエト戦争を経験している。
1919年2月から1921年3月まで
ボリシェビキ政府とのロシア革命干渉の戦争で、
祖国ポーランドが分割された1772年以前の領土を回復し、
1791年以後の国家の版図を復活させるため、
ロシア内戦の混乱に乗じてロシア革命、
第一次世界大戦からの戦線離脱・敗戦と
こちらも建国間もないソビエトに侵攻した。
この戦争でポーランド軍は一時劣勢に立ち、
ワルシャワが包囲されるという窮地まで経験している。
結果何とか勝利し、領土回復を果たしたが、その国力は一気に疲弊した。
およそ150年もの間亡国・分割支配に苦しみ、
独立後も失地回復、誇りと名誉と意地を取り戻すために
戦い続けたポーランド人。
そんな苦難の中にあった中、
驚くべき技術の発展を見せた国でもあった。
それは航空技術。
ズィグムント・プワフスキという一人の天才航空技術者により、
1928年直列エンジンを搭載した
全金属製高翼単葉機のP.1を設計している。
当時世界最高性能を誇る戦闘機である。
その2年前の日本渡航。
当時のポーランドの航空技術の高さを証明する
画期的な出来事であり、
下地である技術の水準の高さを物語っていた。
ここでひとつの疑問が残る。
それだけ高い技術と知識を持つ国が何故侵略されたのか?
近隣諸国の侵略を許し何度も分割・亡国を
経験しなければならない国や民族は、
果たして国力全体の比較では劣っていたのか?
否、そもそもポーランドという国は、
中世においてポーランド王国、ポーランド・リトアニア共和国として
中央・東欧州随一の栄華を誇っていた。
ただ当時のローマカトリック教会の支配圏内の特徴として、
封建制度が中央集権の発達を阻害し、国力、
とりわけ軍事力の増大を封じ込める役割を果たしていた。
いったいどうやって?
その鍵はキリスト教という絶対的な権力にあった。
神は人の上にある存在であり、
神の使いとしての人間界の組織は教会である。
その頂点にあるのがローマ教会であり
そのまた頂点にあるのが教皇である。
人は神を信じ、その教えに従わなければならない。
それは一般の領民も国王・諸侯も変わらない。
封建社会に於いては、原始の万人の万人に対する闘争状態から
力による安全保障を領民それぞれの個人に約束、実行するのが
社会契約上の根拠となり得る国王・諸侯の権力の源泉である。
しかし国王にしても、諸侯にしても、お互いの領土争いや
権力争いには、戦争による力の屈伏か策略が付き物であり
自分の安全保障には自分の力以外頼れるものはない。
いつも闘争状態の不安の中暮らさなければならないのだ。
その不安を解消させてくれるもの。
それが宗教であり、教会である。
人間を超越した存在、絶対的な権力の下、
神の前では権力者たちも従う根拠であり、
神の名のもと、自分の権力も守られるのだ。
だから国王も諸侯も神の意思の代弁者である教皇の前では
従う必要がある。
歴史的なエピソードとして
『カノッサの屈辱』がある。
神聖ローマ帝国国王が領内の教会の収入を
我が物にしようとしたとき
収入を奪われた教皇は激怒、国王を破門した。
破門された国王はその瞬間、周囲の諸侯から
侵略の脅威に晒され、身の危険を覚えた。
それは国王と周囲の諸侯の力の差が少なく、
諸侯に団結して攻め込まれば
たちまち滅ぼされることを意味するから。
それに対し、早くから絶対王政を敷き、
中央集権化に成功したイギリスやフランスは
ローマ教会の言う事を聞かなくなった。
国内に於いて、自分に逆らう存在がなくなり、
教皇の安全保障がいらなくなったから。
逆に、ローマ教会の身になって考えると、
自らの権力・権威を保持するためには、
各国の国内政治に干渉し、国王・諸侯の分裂
分権状態を保持し続けなければならない。
つまり世俗権力の国王・諸侯の力の均衡があり、
その上に世俗を超越した宗教上の権力が
はじめて威力を揮うことができるのだ。
その中にあって、
ポーランドも主にカトリックが主流ではあったが、
他国とは少々事情が違った。
ポーランドは他民族連邦制的構成で成り立った国で、
宗教の強制は比較的ゆるい傾向があった。
貴族・聖職者の特権が非常に強いおかげで
王権が著しく制限され、地方分権的性格と多様性が強く、
近代国家移行の通過点でもある絶対王政、
中央集権を最も達成しにくい環境にあった。
ただしその政治の仕組みは共和制的近代民主主義の先駆けである。
と云っても、貴族・聖職者が構成する領主制議会に実権があり、
国民の大多数は農奴の身分の範疇で、何の権利も持たなかったが。
そう言う訳でローマ教会の支配力というより、
他民族、多宗教の集合体の地方分権であったが故の中央集権による
国力増強、国防力増強につながらなかった理由であり、
他国の侵略を許した原因となったのである。
更に王位継承争いから分断・国力減退につながり、
他国の侵略を許してしまった。
しかも1775年以降イギリスで始まった
産業革命の波がヨーロッパに席巻したとき、
ポーランドは他国の分割支配により、自由に産業の近代化ができなかった。
だからハプスブルク家が統治するオーストリアにも負けない有力国家であり、
中央欧州文化の花咲く中心地だったポーランドが、
分断支配から解放され1918年に独立するまでの長期間、
たち遅れた産業国家からのスタートを余儀なくされたのだ。
そうした不運から他国に支配された間にあっても
その血を脈々と受け継ぎ、
有名な名門ワルシャワ大学等、高等教育機関を通じ
文化や知識を継承してきたのは、
民族の持つ地力(ベース)の歴史的観点からみて不思議でも何でもない。
話が大きく逸れてしまったので、元に戻す。
さて先ほど登場したメカニックのフィリプ・クビャク軍曹。
彼は盟友でありパイロットのボレスワフ・オルリンスキは年上で
大佐である彼との階級差はあったにせよ、
動を共にする信頼おける仲間だった。
そんな彼らが日本に滞在した一週間、どんな思いでいたのだろう?
それは見るもの聞くものが初めての体験で、
眩暈がするほどの刺激的なものであった。
ヨーロッパ諸国とは正反対の国。地理的位置もそうだが、
価値観、行動様式、建築物に対する思想、料理の伝統など、
数え上げたらきりがないほどの違いに満ちた不思議の世界。
そもそも何故日本を目指した?
日本とポーランドにはそれ以前からの深い繋がりがあり、
互いが特別な国でもあったのだ。
彼らの関心は他のどの地域より興味と魅力に満ちていたので、
必然的に当時の空の大冒険の先に日本を選んだのは当然の選択であった。
そして彼らが予想した通り、いや、
それ以上の期待を超えた経験をすることができたのだろう、
後の彼らの行動に色濃く日本滞在の影響がみられた。
特にフィリプにとって、
彼が日本に対する強い関心を持つキッカケとなった
ポーランド孤児の日本での体験、日本という国の特殊性に着目し、
その後の彼の行動を大きく突き動かす事となった。
帰国後英雄の一員となった彼は少尉に昇進し、
ポーランド北部グダニスクからおよそ200km東に位置する
軍の施設に赴任した。
そうした地理的条件も関係し、
やがてポーランド孤児たちが帰国後過ごした
バルト海沿岸のヴェイローヴォ孤児院に足繁く通うようになる。
日本から帰還した同胞の孤児たち。
興味と親近感と祖国を愛する使命感から自然と足が向くのだろう。
しかし次第に彼の目的は変質していった。
それは一人の少女の存在にある。
初めて出会った時彼は20代前半、彼女はフィリプより一回り以上年下の
現在の日本でいう小学6年生くらいだったが、
その時すでにその夢見るような表情と、
会う人に目の前がパッと明るくなったような気持ちにさせる
快活さと美貌をもった人目につく少女だった。
当初は単にませた少女に過ぎなかったが、
時が経ち訪問回数が増えるに従い、
彼女の成長とその魅力は比例するように増し、
そしていつしか彼は彼女を意識し、
当然のように恋をするようになっていた。
彼女の名はヨアンナ。
時が経ち少女だったヨアンナも大人になり、
自分の居場所と成すべき仕事を見つけ、
孤児院の世話と孤児たちが構成する極東青年会のメンバーとなり、
活動に没頭するようになっていた。
彼らの活動を側面から支援し続けてきた日本大使館との交流でも、
フィリプは彼女と出会う機会が数多くあった。
歳の差が一回り以上違う彼女に対し、
年上の気おくれから彼女に自然な会話などできる訳もなく、
ただぎこちなく、他愛のない挨拶をするのが関の山だった。
ただし彼女の方は彼の気持ちを知ってか知らずか、
時折ポーランドの青く澄んだ夏空のような
気持ちの良い笑顔で話しかけてくるのだった。
「まあクビャクさん、ごきげんよう。
いつも慈善パーティにご協力いただき、
ありがとうございます。
おかげさまで子供たちも皆喜んでいますのよ!
是非今宵もごゆっくりお楽しみください。」
夏に一斉に咲き誇る花々のような匂いが
伝わりそうな軽やかな声でそう言った。
「そう言っていただくと返って恐縮です。
私もあなた達と同じく、
日本を経験した同志だと思って参加させてもらっているのですよ。
だからそんなお気遣いは無用です。」
心の中では「クビャクさん」ではなく、
「フィリプ」と親しみを込めて呼んで欲しいと思っていたが、
そんな言葉を口に出す勇気はなかった。
彼は決してさえない風体の男ではない、
むしろ誰から見てもさわやかな好青年で、
街を歩くだけで、
道行く女性たちが密かに振り向くほどの好男子でもある。
ただ自分より若すぎる素敵な女性に気おくれしていた。
そういう慎ましさと誠実さが彼に備わった特徴でもあった。
「そうでしたわね!
私たちはこの地で数少ない日本体験をしてきた絆で結ばれた友。
クビャクさんは年上ですが大切な親友のような存在なのですね。」
「そうですとも!だから困ったことがあったら
遠慮なく申し出てください。
私にできることなら精一杯お手伝いさせていただきますよ。」
満面の笑みを添えて彼は言った。
「ありがとうございます。とても心強く思いますわ。
私たちの組織はいつも困難な状況の中にいて、
絶えずたくさんの支援者の皆様のお力添えを必要としています。
厚かましいとは思いますが、
必要な時には遠慮なく助けを求めることになると思いますが、
その時はどうぞよろしくお願いいたします。」
そう言って彼女は右手を差し出した。
「喜んで全力を尽くさせていただきます。」
ときめく心を必死で隠しながら、彼は握手した。
その時が初めて彼女に触れた瞬間だった。
その日を期に、
彼と彼女は会う機会がある度に打ち解けた軽い挨拶の他、
ちょっとした季節の話などを織り交ぜた会話をするようになった。
しかしふたりの距離はそれ以上進展することなく
時ばかりが過ぎていった。
それから数カ月の時が経ち、暗黒の年がやって来た。
1939年4月28日、ドイツは
ドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄、
不安と現実の危機が目の前に迫り、同年9月1日早朝、
ドイツ機甲師団が雪崩を打って国境を越えてきた。
瞬く間に占領された祖国。
再び他国の支配に甘んじなければならない辛い毎日の始まりだった。
そんなある日の慈善パーティでのこと。
いつものように彼はヨアンナの姿を目で探しながら、
会場の隅で参加者たちの人間観察をしていた。
しばらく経って彼は彼女の姿を見つけた。
いつものように挨拶に向かうと、
彼女は正面に立つある男性と親し気に話している。
しかもそれは東洋人。会話内容が聞こえないほどの距離のため
いったい何を話しているのか聞き取ることはできない。
しかし、フィリプは片思いの異性に対する鋭い観察力と
一瞬にして発揮される直感により、
ただならぬ親密さを感じ取った。
そのふたりだけの空間には部外者の入り込めない
見えない壁と厚い扉の存在があるように思えた。
「!!!」感嘆符付きの衝撃が背筋を貫く。
務めて冷静を装うつもりでいたが、掌と額の汗は隠し通せない。
少し距離をおいた所で佇みながら、
ただただ汗をぬぐうしかなかった。
会場の同じ空間にいながら、すぐ近くに存在しながら、
天と地ほどの乖離した世界に迷い込んだ気がした。
どれほどの間傍観していただろう。
気がつけば会話を終え、
自分の存在に気がついたヨアンナが私に歩み寄ってくる。
いつもの私に向ける笑みをたたえながら。
「今日もいらしてくれたのですね。
お声をかけてくださればよかったのに。」
(今しがたまでお話されていたあの方はどなたですか?)
そう聞きたい!眩暈がするほど激しく揺れる心を必死で抑えながら、
「貴女が親し気に会話をされていたので、
つい声をかけそびれていました。」
声がひっくり返るのではないかと心配するほど、
高いトーンでうわずった口調になってしまった。
(ああ、情けない!恥ずかしい!大の大人が、
大の男が何というザマだ!!)
その様子に一瞬クスっと笑い、「失礼!」と彼女は言った。
「あの方は日本人で、昔お世話になった事のある方でしたのよ。」
「紙で折った鶴を私にプレゼントしてくれた方。
私の大切な思い出なの。」
少し伏し目がちに彼女は言った。
(私の感情を見抜かれた?どう返したらいい?)
しどろもどろしながらフィリプは少し長い沈黙のあと、
「そうでしたか。大切な方なのですね。
貴女の眼差しを見ていてそう思いました。」
快活そうに応えた。
幾分不自然なフィリプの様子に気づかないのか、
いつもなら鋭いほどよく気がつく娘なのに、
先ほどの日本人の彼との会話の直後のためか、
その余韻から上気した表情のまま、夢見心地で構わず
「そう、あの方と日本は私のかけがえのない思い出。
国に戻ってパンジーや水仙やヒヤシンスを見ても、
穏やかで気持ちの良い夏の日の日差しに身を委ねてみても、
思い出すの。
まだ幼かった日本での生活を。」
近くのテーブルに置かれたワイングラスを見つめながら、
何かを追いかけるような目で独り言のようにつぶやいた。
「私はいつも不安と共に暮らしてきました。それは今も同じです。
両親を亡くし、頼れる兄弟姉妹もなく、
何の力も後ろ盾も持たない孤児が生きてゆくのは、
月も星もない暗黒の夜道を歩くようなもの。
せめて少しの灯りと道標が無ければ生きてゆけません。
秋の風が吹くとき、どんなに暖かなコートを身にまとっても、
冷たさが身に沁み、寂しさが身に応えます。枯葉が風に舞い、
目の前を通り過ぎる時、
今まで生きてきた自分の人生と重なるんです。
木枯らしのような暮らしを、吹けば飛ぶような虚しい営みを。
だから暑かった日本の充実した夏の日を、
人々の温かい眼差しと
楽しかった日常をいつまでも忘れないでいたいのです。
いなくなった両親に成り代わって優しくしてくれた
あの時代に感謝と恩を忘れたくないのです。」
フィリプはヨアンナを堅く抱き締めたい衝動に駆られた。
幾分落着きを取り戻した彼は、
愛おしさで心が満たされ、自らの嫉妬を恥じ、
「私は不用意に貴女の深い悲しみや孤独に立ち入ることはできません。
でも、これだけは気に留めておいてください。
私はいつでも、どんな時もあなたの力になれるような人間でありたい、
貴女の心に寄り添える人間でありたいと願っています。
そしてそう思っているのは私ひとりだけじゃなく、
神も身の回りのたくさんの人たちも貴女に対し願っていることです。
そしていつも見守っています。
それは貴女も感じている筈。そうでしょ?」
今度はまっすぐ彼女の目を見据えて力強く言った。
ふたりは暫く見つめ合っていた、無言で。
ふと我に返り、ヨアンナは伏し目がちになりながら
一言添えその場を辞した。
やがて戦争はその激しさを増し、
戦乱の拡大は留まるところを知らなかった。
1941年10月4日、
在ポーランド日本大使館の閉鎖が発表され、
12月8日午前1時(日本時間)には
日本がイギリスのマレー半島を攻撃し
ここに太平洋アジア戦争が勃発
次いで同12月8日ハワイ真珠湾奇襲、
12月11日ポーランドの日本への宣戦布告と、
怒涛の展開が全世界を覆った。
その戦乱の拡大の少し前、
在ポーランド日本大使館閉鎖の発表の少し前、
ヨアンナの身の回りで悲劇が起きた。
彼女が密かに心を寄せていた井上敏郎が
彼女を庇いドイツ軍の銃弾に倒れた事件が発生。
その日を境に彼女は悲嘆にくれ、
人が変わったように抜け殻生活が始まった。
来る日も来る日も無気力な生活。
もう、お世話しに通っていた孤児院どころではなかった。
そして迎えた閉鎖された日本大使館最後の係官が立ち去る日
彼女は何かにすがりつこうとするかのように、
ヴェイヘローヴォ孤児院を去り一路大使館にあったワルシャワに向かい、
その地に立っていた。
彼女を心配し、
いつも見守っていた極東青年会のメンバーは、
その中心に拠点を置いていた
ワルシャワ市内の複数のアジトの一室を彼女に与え、
万全のサポート体制をとることにした。
一方、ドイツ軍のポーランド侵攻後、
ポーランド政府が瓦解、
政府要人がロンドン亡命政府を組織し、
その指揮下ポーランド国内残存兵士たちにより
レジスタンス目的に組織された軍隊「国内軍」
に参加する事となったフィリプは
偶然にもワルシャワに移転していた、
ヨアンナもワルシャワに来たとの知らせを聞き、
すぐさま駆け付け、何かと面倒をみようとした。
彼女の住むアパートを訪れる時、
独身女性宅への来訪との配慮からメンバーに同行してもらい、
当時ワルシャワ市内では食料が不足し入手困難だったので、
何とか手に入れたジャガイモや豆や、
パン、ワインなど差し入れを持参した。
当の彼女は、影となり日向となり、
自分たち孤児院や青年会のメンバーの後ろ盾となり
庇護してくれた大使館を喪失することで、
心の中の最後の砦を失った
敗戦の残存戦士のような気持ちに陥っていた。
またひとつ私の大切なものが消えてゆく・・・。
見るも無残にやせ細り、生気のない彼女を見て、
フィリップは大そう心を痛めた。
「おお、ヨアンナ!今のあなたの姿を見ていられません!
どうか私にも貴女を守らせてください!
私は神様の次にあなたの事を深く思っています。
どうか、どうか、その闇から連れ出させてください!」
彼女はしかし、大きく何度も頭を振り、
「お心遣いありがとうございます。
でももう暫く放っておいてください!
私は今、無くしたものの弔いをしています。
幼い頃シベリアでの逃避行で両親を亡くし、
友を失い、
大切な日本の想い出の彼を私の身代わりの犠牲で失い、
大使館が去っていきました。
もう少しだけ私の心をあの方たちに添わせてください。」
フィリプはヨアンナの一滴(ひとしずく)の涙を
見たような気がした。
フィリプはヨアンナにつかず離れず、
そっと見守る事にした。
そんな状態が続き、我慢強く通っていたある日。
ヨアンナの視線が自室の窓の横にある壁の
数枚の写真から離れなかった。
フィリプはヨアンナがその写真たちと
会話しているように感じた。
やがて彼女の表情に微かに赤身を帯びた生気が戻ってきた。
そして彼女はゆっくり向き直り、フィリプに言った。
「この写真は日本とお世話になった人たちの写真です。
幼い頃私が日本に滞在したころは、
もう両親はこの世に居ませんでした。
だから勿論この写真には写っていません。
私は父の写真も、母の写真も持っていないのです。
でもこの懐かしい写真たちを眺めていると、
何故か父と母を思い出します。
そしていつも私を励ましてくれるのです。
優しく包み込み、
悲しさや苦しさを和らげてくれるのです。
だから今までずっと写真を見て
父と母を思い出していました。
私の父と母が私に言うの。
もう泣くのはおよしなさい。
あなたに涙はふさわしくない。
あなたがこの世に生を受け神から授かった使命は
周りの人々を明るい陽の光のように照らす事なのだから。
だからいつまでもあなたが塞いでいたら、
皆が不幸になってゆくの。
だからそろそろ顔を上げ前を見て、
自分の目の前に見える道を信じて歩みなさい。
神様も、そしてまわりの皆も
そうする事をまっているのだから。
私は自分をそんな風に思った事はありません。
でもそれが父と母の願いなら、その期待に応えたい
だからもう嘆きという闇と霧をかき分けて歩き出します!
ご心配をおかけしました。」
少しだけ笑顔を見せ約束してくれた。
「貴女にはご両親が見えていたのですね?
きっと優しく立派な方だったのでしょう。」
「ええ、そうですとも!父も母もシベリアでサヨナラしたけど、
いつも私を見守り、
応援してくれていると信じています。
父はある日食料を調達するために
母と私を置いて出たきり帰ってきませんでした。
それから何年も経ってから、
伝え聞きで父の最後の消息を知りました。
父は身に着けていた大切な腕時計と交換して、
やっと手に入れた食料を地元の暴漢に襲われ
奪い取られてしまいました。
そしてその時必死で抵抗し、命までも奪われたと。
最後まで私と母の名を呼びながら息を引き取ったそうです。
その様子を目撃した知人は
自分の保身から助ける事ができなかったと。
申し訳なくて、私たちに顔向けできなくて、
そのことを打ち明けられずにいたと。
いくら待っても父は帰らず、諦め先へ進みながらも、
お金もなく食料と交換できる物も尽き、
とうとう母は私の行く末を案じながら、
父の待つ天に召されていきました。
自分は何も食べず、極寒の中、
暖もとらず私を守り続けた最後でした。
母の死をみとりながらも、
孤児になった私を同行していた隣人たちが私を守りながら
イルクーツクまで連れて行ってくれました。
今私がこの世に生きていられているのも、
たくさんの人たちが手を差し伸べてくれたおかげです。
だから私は父に恥じないよう、母に恥じないよう、
お世話をしてくださった皆さんの心に応えられるよう、
生きてゆかねばなりません。」
フィリプはその時から彼女に
生涯を捧げる決心をしていた。
例え結ばれることが無くても。
ワルシャワゲットー蜂起
その頃のワルシャワはドイツ軍による支配の中、
混沌と劇的な変革の渦中にあった。
その一番の主人公はワルシャワ在住のユダヤ人の存在だった。
ドイツ軍のポーランド侵攻直前当時、
ワルシャワにはユダヤ人が37万5000人いた。
実に市内人口の30%を占め、
アメリカニューヨークに次ぐ多さだった。
ワルシャワ占領直後から、
ユダヤ人封じ込めの政策が検討されていたが、
1940年3月以降市内にチフスが蔓延し始めた。
特にユダヤ人居住地区に。
同年10月2日正式にユダヤ人評議会に命じ、
ゲットー建設が始まり、11月には完成をみた。
その広さは従来の居住地区の3分の2、
ワルシャワ全面積の2.4%、
最大人口は44万5000人に及んだ。
それはナチスドイツによる全ゲットー最大規模を誇った。
更に完成間もない11月16日、ゲットーは封鎖され、
特別に通行許可証が発行された時以外の通過は許されなかった。
ゲットー内の運営はドイツ当局の監督のもと、
ユダヤ人評議会が行った。
その中にはユダヤ人ゲットー警察さえ存在した。
その運営は自由主義的統治で、
ブント、社会主義シオニスト党、
青年運動などが活発に地下活動も行っていた。
しかし同じユダヤ人社会でありながら、
貧富の格差も顕著に出現し、
飢餓に苦しむ貧困層に対しては
ユダヤ人相互援助協会(ZTOS)が組織され救済にあたった。
ゲットー内では
一般の市場原理に伴う生産活動も活発に行われたが、
仕事を持たないものは、強制労働に駆り出された。
1942年7月22日、ラインハルト作戦決行に伴い、
ユダヤ人を東部に移送する旨通告された。
ゲットー解体と強制収容所移送に伴う
ホロコーストの始まりである。
トレブリンカ絶滅収容所移送は、
決して戻ることのない片道切符の旅。
そのスピードは極めて迅速で、わずか10日足らずで6万人、
8月半ばまでに全体の半数、
第一次移送終了の時点で30万人が駆り出され、
死出の旅へと向かわされた。
それまで無抵抗の姿勢を貫いていたユダヤ人社会にも、
ようやく抵抗への機運が高まり、秋頃から準備が始まった。
共産党、シオニスト党、
社会主義者で構成されたブントが10月20日に合弁、
ユダヤ人戦闘組織(ZOB)結成、
戦闘団など22の部隊が組織された。
総指揮官は
モルデハイ・アニエレヴィッツ(24)が任命された。
彼らがまず標的にしたのはゲットー警察、
その上部組織のユダヤ人評議会へのテロだった。
それと平行し、
抵抗に必要な武器の調達が至上命題だった。
武器購入資金を得た組織は
ゲットー部外のポーランド人に密かに協力を要請、
武器入手を企図した。
しかし頼みの綱のポーランド人達も
ドイツによる被支配階層であり、
そう簡単に準備できるわけではなかった。
しかも全てのポーランド人が
ユダヤ人に協力的というハズもなく、
むしろ反感・差別意識の強い者が多数を占めていた。
そんな背景もあり、
多額の購入資金を託したにも関わらず、
僅かな武器しか入手できなかった。
指揮官モルデハイの目論見では、
少なくとも拳銃100丁、
小銃数丁を見込んでいたが、実際に渡されたのは、
たったの拳銃10丁のみであった。
いくら抗議してもそれ以上は渡されず、
思わず天を見上げた。
ドイツ人による殺害の脅威に晒され、
隣人のポーランド人に見放され、
孤独で絶望的な戦いを強いられる現実を
改めて見せつけられた気がした。
決起=鎮圧による死
無抵抗=絶滅収容所行による死
生という選択肢も可能性もゼロの明日に
涙すら出てこなかった。
それでも決起を選ぶ理由は、
民族と各々の人生の誇りと意地を守るために
他ならなかった。
あらゆる手立てとネットワーク、
手段を駆使し、新たに数丁の機関銃、
ポーランド人レジスタンス組織「国内軍」などから拳銃50丁、
手りゅう弾50個、爆薬など最低限の支援を得た。
先ほどと、ここでも登場したフィリプも所属する国内軍。
説明が先と重複し、くどくなるが、
ポーランド政府残存要人がロンドン亡命政府を組織し、
その指揮下国内残存兵士及び有志たちにより
祖国の独立と自由を標榜し、
レジスタンス目的に組織された地下組織軍隊である。
しかし圧倒的な軍事力を誇るドイツ軍に対し
あまりに貧弱な武装しかできない義勇軍にすぎなかった。
話を戻す。
1943年4月19日750人の戦闘員が決起、
火炎瓶と少数の銃で
ドイツ武装親衛隊と警察の部隊に武力蜂起した。
初日こそドイツ軍を撃退したが、
翌日体制を立て直したドイツ側は徹底した焦土作戦を決行、
5月16日に完全鎮圧戦闘は終了した。
結果残存市民5万6000人が連行され、
射殺・収容所において特殊処理(ガス室送り)された。
その後ワルシャワゲットー跡地に強制収容所が建設され、
新たな悲劇の象徴に生まれ変わった。
ゲットーの瓦礫の撤去作業に強制収容所の囚人と、
ポーランド人労働者が動員された。
また蜂起による戦闘中
ゲットーの外に逃亡したユダヤ人狩りが行われ、
ポーランド人市民による密告が横行、更にギャングが現出し
見つけ出してはユダヤ人からお金などの財産を奪い取っていた。
その間、その様を目撃した
一般の善良なポーランド人市民たちはどう思っていたのだろう?
たとえユダヤ人が嫌われていたとしても
その悲劇にはさぞ心を痛めていただろう。
そして明日は我が身の運命を悟ったのだった。
ゲットー近くに住まうヨアンナは
その一部終始を目撃していた。
時に逃亡してきたユダヤ人を匿い、
食料を与え、できる限りの援助に務めた。
しかしその行為を知るに至り、
支援していた青年会のメンバーから
ドイツ側への発覚を恐れ厳しく窘められた。
彼らとて決して平気で傍観していたわけではない。
反抗の準備ができていなかったのだ。
火の粉を自ら掃えない現状では
関わることは自殺行為に他ならない。
涙を飲んで見過ごすしかなかった。
被支配層同士が団結できない悲哀が彼らの心を寒くした。
しかし何故ヨアンナは身に危険を顧みず
ユダヤ人に救いの手を伸べたのか?
そもそも何故ユダヤ人は絶滅を企図され、
ホロコーストの犠牲にならなければならなかったのか?
ヒトラーや一般のドイツ人に嫌われただけならまだしも、
全ヨーロッパに蔓延した反ユダヤ主義は
どんな理由があっての事なのか?
何故殺されなければならないほどにくまれ
殺りくを傍観されたのか?
何故どこからも救援が無かったのか?
世界で唯一当時新世界と呼ばれたアメリカが受け入れたが、
それもナチス台頭のユダヤ人弾圧初期の頃の話。
大戦の動乱が進み難民が殺到すると、
さすがのアメリカも次第に入国条件のハードルを上げ、
受け入れ制限政策に舵をきり、
積極的な救済に動くことはなかった。
来るものは条件付きで拒まず。
それがアメリカの態度だった。
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に登場する
ユダヤ人悪徳商人シャイロックに代表される
悪人のイメージがユダヤ人全体の印象だったとしたら、
あまりに悲しすぎる。
仮にそのような悪人が多数存在していたとしても、
それは民族全体にあてはまる訳ではあるまい。
同じ数だけ善人が存在し、
大多数は普通に生活する庶民に過ぎなかったのではないのか?
ユダヤ民族が団結して
組織的な犯罪、殺人、弾圧・抑圧、搾取を長年繰り返してきたのなら
多少は納得もできるだろうが、そうではあるまい?
ただユダヤ教に固執し、
社会に積極的に溶け込む努力が足りなかっただけで、
商才にたけた人物が他民族より多く、
金持ちが多かったというだけで、
そこまでの憎悪の対象になるのか?
ならなければならなかったのか?
人類の歴史は終始あまりに人命の価値が軽かった。
第二次世界大戦終結後の
条約・法律・社会制度・人権の仕組みが
整えられた現在でも
紛争や差別や対立や難民が絶えないが、
それ以前はそれらが未整備の状態の中、
おびただしい悲劇が起きた。
その中にあっても、
ユダヤ人ホロコーストは異彩を放つ突出した悲劇だった。
ヨアンナは納得できないでいた。
しかしただ彼女がきれいごとの世界、
お花畑の中の住人だったわけではない。
単なる軽佻浮薄なヒューマニズムから
気まぐれの衝動的な行動として手を差し伸べたのではない。
彼女の生い立ちに思考の原点、行動の指針があった。
故国を捨てシベリアに逃避した難民の子として、
途上両親を失い、
周囲の悲劇を多数目撃し、
それ以上の善意の救済を経験し、現在まで生かされてきた。
善意は人を救う。
無関心や憎悪は人を死にも追いやる。
自分はどちらの道を選択すべきか?
その答えが総てだった。
彼女は瀕死の逃亡ユダヤ人にパンを施す度、
匿うため一夜の隠れ場所を提供する度、
自分の無力さを感じていた。
できる事の限界を感じていた。
この人たちを遥か遠くの国、
日本に送ることができたら。
きっとたくさんの人を救えたのに・・・。
自分たちの民族も武力で占領され、
支配されている苦しい状況に居ながら
ヨアンナはそんな事を考えていた。
こんな状況の中、
あるひとりの男の言葉が思い浮かばれる。
―マルティン・ニーメラー―
反ナチ運動家で、弾圧された経験から
後に記された詩からの言葉である。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき
私は声を上げなかった
私は共産主義者ではなかったから
ナチスがユダヤ人を連行して行ったとき
私は声を上げなかった
私はユダヤ人ではなかったから
そしてナチスが私を攻撃したとき
私のために声を上げる者は
誰一人残っていなかった
ゲットー蜂起が鎮圧され終結すると、
明らかにヨアンナは沈んでいた。
フィリプはその気持ちが理解でき、心を痛めた。
意を決し、すべての勇気をかき集め、
告白しようと思った。
今しか機会はない、この時を逃したら、
二度とチャンスは来ないだろう。
できるだけそばにいるよう努力し、
彼女の信頼と安心を勝ち得たかもしれない今、
打ちひしがれ、先行き不透明で不安に駆られる中、
愛する者として、庇護者として名乗り出よう!
そしてある日とうとう告白の時は来た。
本当はビスワ川のほとりなどに連れだって
ロマンティックな環境の中で
誠意を示すべきだったのだが、
ナチスの兵士がいたるところに存在する状況では
とてもではないがふさわしくない。
仕方ないが彼女の居住するアパートで
他の人が忙しく動き回る中、一瞬二人だけになった。
今だ!
「ヨアンナさん、少し良いですか?
大切なお話があります。」
まただ!声が上ずってしまった。畜生!!
しかし心の声を押し殺し、
平然を装い彼女の答えを待った。
その改まった様子に何かを感じたのか、
彼女は少し緊張したような表情になった。
「はい、何でしょう?」
彼の正面に向き直り、彼女は聞いた。
緊張した面持ちでハンカチを握りしめながら口を開く。
「手短に言います。私と結婚していただけませんか?
この戦乱の非常時に、
貴女の置かれた今の環境で唐突にこんなこと言われても
困惑するのは分かっています。
歳の離れたこんなオジサンに
告白されるのは迷惑かもしれません。
それでも貴女に私の気持ちを伝えたい。
打ちひしがれた貴女の心を私の愛で満たしたい。
孤独と不安と危険から守りたいのです。
この地は危険と不条理に満ちています。
貴女を理解し心から愛し続けたい私の気持ちを、
どうか受け取ってください。
全力で幸せにします!」
長い沈黙が続いた。
こわばる彼女の表情からは答えは見えてこない。
この不安と緊張は永遠に続くのか?
そう思った時、彼女の重苦しい口が開いた。
「おっしゃることは分かりました。
私が孤児だから同情して
おっしゃっているのではないのですね?
それでは少し時間をください、
考えさせていただきたく思います。」
「この場で断らないと云う事は、
少しは脈があるのですね?」
「もちろんです!真剣に考えさせてください。
でも突然だったし、今の私の状態を考えると、
すぐには答えを出せません。」
「良かった!この場で即座に断られるかと思っていましたので。
待ちます!いつまでも待ちます。ええ、待ちますとも!」
数日後再度訪れた時、
待望の返答を受けとることができた。
「こんな私ですが本当によろしいのですか?」
「私には何もございません、
身ひとつで嫁ぐ事になります。
一旦嫁いだら、何があっても他に帰る場所はありません。
そんな私でも・・・」
フィリプは言葉を遮るように、
「私の命に代えて一生あなたを守ります!愛し続けます!」
「ああ、神よ!心から感謝いたします!」
ここでもしヨアンナが現代の日本人だったなら、
間違いなく
「神様にではなく、私に感謝してよ!」
と思ってしまうだろう。絶対に!
ほどなくヨアンナは慎ましやかな式を挙げ、
フィリプの用意したワルシャワ市内の一角の
アパートの新居に移り、
暗い世相の中、精一杯の明るい新婚生活をおくった。
しかしそんな幸せな日々は長くはなかった。
ワルシャワ市民蜂起
1944年6月22日
ソビエト赤軍がバグラチオン作戦を決行、
ドイツ中央軍団が壊滅的敗北を期し、
敗走を始めた。
7月30日赤軍がワルシャワまで
あと10km地点まで迫った。
8月1日ポーランド国内軍は赤軍に呼応するように、
ワルシャワに於ける武装決起を申し入れ打ち合わせた。
しかしその前日の7月30日、
危機感を抱いたドイツ軍が反撃、
甚大な損害を赤軍は被っていた。
更に補給が行き詰まり、
結果赤軍は進撃をそこで停止した。
しかしポーランド国内軍に
赤軍の進撃停止の情報は伝えられず、
それどころか、
前日の7月29日にはモスクワの放送局から
決起開始を呼びかけるラジオ放送が流れ続けていた。
これを聴いていたワルシャワ国内軍は
赤軍の位置から進撃からワルシャワ到達には
時間はかからないと判断、
8月1日17時約5万人の国内軍が決起を開始した。
そして重要官庁、駅、橋をいち早く確保、
ドイツ軍の拠点である兵舎、補給所を襲撃した。
その決起時間は後に『W』と呼ばれ
サイレンと共に黙とうを捧げる日となっている。
決起開始後重要拠点確保の報を受け
決起指導者のタデウシュ・コモロフスキは
ワルシャワ市民に対し、ラジオ電波でこう呼びかけた。
親愛なるワルシャワ市民よ!
承知の通り再び抑圧からの解放のため、
多くの同志が立ち上がっている。
父が!兄が!弟が!友が!隣人が
あなたのため戦いの渦中へ身を投じている!
私たちの手から無残に奪われてしまった、
愛する祖国と自由を再び取り返すため、
持てる力とありったけの勇気を振り絞り、
自らの生も死も厭わない苦難の道を突き進んでいる!
誰のためか?何のためか?
生きてきた証を残すため、
砕かれた誇りを取り戻すため、
生まれ育ったこの地に咲く花々と営みを蘇えらすため、
そして何よりも大切な母、愛しい妻や恋人、
何としても守りぬかねばならぬ我が子たち!
今まさに銃をとり、歯を食いしばり、
銃弾の飛び交う中、敵陣に向かって
突っ走ろうとしている!
全ては守るべきものがあるからだ!
何故今立つか?
それは気の遠くなるほど長い苦難の道のりを歩み続け、
ようやく扉に辿り着いたからだ。
その扉の向こうは自由なのか?明るい未来なのか?
誰もが望む希望なのか?
それは誰も分からない。
だが私は確信する!扉の向こうの世界は、
その先に続く道は、
自分で切り開いてゆくべきところだと。
父祖が築いてきた脈々と流れる
栄光と、挫折と、喜びと、悲しみと、
つつましくも幸せな暮らしの昨日を、今日を、
誰もが望む輝ける明日へと変え、
後に続く者たちにその力と望みを託すために!
親愛なる市民よ!
我が同志は立ち上がっている!
後に続く者たちよ!
自らの成すべき役割を自覚し、
今できる事に全力を尽くしてほしい!
あなたひとりの力は決して微力なんかではない!
神が授けた尊い奇跡を起こす鐘を鳴らすのだ!
高らかに打ち鳴らせ!歓呼の声を聴け!
暗雲を吹き飛ばす嵐を巻き起こせ!
決して後悔してはいけない。
立つときは今なのだ!
希望の扉はすぐ目の前にある!
『神が我らと共にあるならば、
誰が我らに逆らうか!』
最後に諸君に問う!祖国は誰のものか?
市民は奮起した。
ワルシャワ市内には、
治安部隊を中心とした12000名の
駐留ドイツ軍がいた。
しかしそのうちの戦闘実働部隊は1000名のみだった。
しかし武器を持たない国内軍は数で圧倒しても
目標のうち兵舎と補給所のみしか占領できずにいた。
しかしその占領地から武器と小火器と軍服を奪い、
国内軍に配られ多少の改善があった。
そして決起のメッセージに呼応し
多くの市民が国内軍に参加、
ドイツ軍の反撃に備え、バリケードを築き張り巡らした。
その中には勿論国内軍のフィリプと、
青年会のメンバーのひとりであったヨアンナの姿があった。
当初フィリプはヨアンナの参加に猛烈に反対。
夫婦初?の険悪な夫婦喧嘩を展開した。
しかしヨアンナは一歩も引かず、
強引に補給・伝達係として参加した。
鎮圧軍司令官エーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は
ヒトラーの命を受け、
蜂起した国内軍の鎮圧及び徹底した
ワルシャワ市内の破壊を忠実に実行すべく作戦を決行した。
8月3日
近隣に駐屯していた部隊をかき集め臨時戦闘団を編成、
西側から攻撃を開始した。
攻撃部隊の中には素行の悪いカミンスキー旅団や
ディルレヴァンガーSS特別連隊が含まれ、
戦闘には目もくれず、略奪、暴行、虐殺に励んだ。
その様を目撃し、市民は怒りを新たに結束、
戦意高揚の効果が生まれた。
7日激しい市街戦が続き、
国内軍占領地が分断され、
包囲されていたドイツ部隊が解放された。
19日国内軍猛反撃。電話局占領。
120名のドイツ兵捕虜となる。
カミンスキー旅団やディルレヴァンガー部隊に対する報復として
捕虜のうち彼らを全員その場で処刑した。
一方赤軍に追従していた第一ポーランド軍は
国内軍支援のため、
ヴィスワ川の渡航を許された。
しかし輸送力に余裕があった赤軍は
動かず力も貸さず静観した。
やむなく第一ポーランド軍は、
必死に国内軍レジスタンスへの支援をしたが、
全く不足していた。
彼らの目に燃え盛るワルシャワ市街が見え、
涙の中に口惜しさから
唇から血が滲むほど噛み締めたという。
ここで新たに登場した第一ポーランド軍とは何者?
第二次世界大戦のキッカケとなるドイツ軍のポーランド侵攻。
その破竹の勢いにたちまちポーランド全土が飲みこまれ
余勢をかってソビエト領内まで攻撃の手を伸ばした。
しかしやがて無敵だったドイツ軍の勢いにも陰りが見られ、
退却に退却を重ねついにソビエト領内から駆逐され、
更にポーランド領の東半分をソビエトが占領すると、
ソビエト政府によるルブリン傀儡政権が打ち立てられた。
そして直ぐさまソビエト赤軍にうち従う軍隊が組織された。
それが第一ポーランド軍である。
憎むべき事に、
ソ連はアメリカ、イギリスが承認した
ポーランド亡命政府の息のかかる
国内軍の支援を申し出たが同意せず、
ドイツ軍のワルシャワ鎮圧に手を貸した。
やがてドイツ軍の物量に圧倒された国内軍は
次第に鎮圧され蜂起は終息に向かっていった。
8月31日国内軍は北側解放区放棄、
9月末ほぼ壊滅した。
1944年10月2日
放棄指導者タデウシュ・コモロフスキの降伏を
鎮圧軍司令エーリヒ・フォン・デム・バッハが受け入れ
蜂起は終結した。
結果蜂起参加者はテロリストとして処刑。
レジスタンス、市民合わせ22万人が戦死、
若しくは処刑された。
そしてワルシャワ市内は鎮圧軍により破壊を徹底、
ヒトラーの厳命は忠実に守られた。
しかしその後、イギリス政府がラジオを通じ、
レジスタンスへの処刑は戦犯と見なすとの放送を流し、
警告したため、処刑は途中で中止された。
間一髪で処刑から逃れたフィリプ。
ヨアンナと生還を神に感謝したが、
1945年1月12日ようやく進撃してきた赤軍は
レジスタンス幹部を逮捕。
ポーランド自由主義政権の可能性の芽を摘むため、
鎮圧傍観と弾圧の裏切りに終始した。
何とか逃亡に成功したフィリプは森に逃げ込み
反共パルチザンとして
数年共産政府要人暗殺テロ活動などに参加、
1950年2月銃撃戦の末ソ連兵に射殺された。
その5年前、
ワルシャワ近郊の避難先に居を定めていた
ヨアンナは元気な男子を生んでいた。
その子はアダムと命名された。
その一月後、
反体制パルチザンとして
射殺された夫フィリプの身元が割れ、
ソ連治安部隊がヨアンナの居宅を急襲、
付き添いの元青年会メンバーひとりが
抵抗の素振りを見せたため、
ヨアンナと共に射殺された。
ようやく5歳になったアダムだけが生き残り、
残りのメンバーに引き取られた。
ヨアンナ35歳。
最後までアダムの行く末を案じながら
息を引き取った。
おわり
凄い知識です!
しかも、知識の羅列ではなく、物語として見事に描ききってるところが凄いですね。
塩野七生さんの『ローマ人の物語』とかを、連想させます。
ただ…
僕としては、根拠ないユダヤ人蔑視…
更に言えば、人種差別に彩られ、それが、自国の自由解放の為の戦いの妨げとなる欧州の中にあって、人種差別と言う軛のない日本のありようを、今は亡き敏朗の面影や記憶を通じて、僕ならば描きたいかな。
そして、ヨアンナが、当たり前のようにユダヤ人に手を差し伸べようとする原点は、敏朗との思い出にある。
それを、ドラマとして描きたいかな…
かくて、肌の色も違う、文化や言葉も違う。宗教にいたっては、ほんの数十年まで、今の社会で言う児童ポルノ並みに忌み嫌われてきてキリスト教を信じる異国の人間に、当たり前に親切にせっした日本の人々…
しかも、ほんの少し顔を合わせただけの自分に、全人生をかけるほどの恋心をよせ、命と引き換えに自分を助けてくれた敏朗の思い出にある。
その事を、歴史書のようにではなく、叙情豊かなロマンス小説のように、僕ならば描きたいかな…
でも、おそらく僕が思っている事と似てようなニュアンスよ事を、やはり、淡々と乾いた文章で描き切ってるところが、この小説の良さなのでしょう。