uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


アッツ島・キスカ島戦記 ~兵士たちの想い~ 後編

2020-02-06 21:28:37 | 日記

前章のあらすじ

 1942年4月18日アメリカ軍による
B‐25爆撃機の日本本土空襲(ドーリットル空襲)
が敢行され、大本営は大きな衝撃を受けた。
この事件を受け、大本営は北部太平洋地域の
防衛強化が急務であると考え、
その後の日本本土空襲を阻止する事を目的に
ミッドウェー作戦が策定され
6月5日(アメリカ標準時6月4日)から7日
にミッドウェー島付近で海戦が行われた。
 同島攻略を目的に進撃した日本側海軍を
アメリカ海軍が迎え撃ち衝突した海戦である。
日本海軍機動部隊と、一方のアメリカ海軍機動部隊、
および米ミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、
日本海軍機動部隊は空母4隻と
その搭載機約290機の全てを喪失、
極めて甚大な被害を被り、
その後の戦局に大きな影響を残した。
 この時のミッドウェー作戦に於ける
陽動作戦の一環としてアッツ島攻略作戦が
実行されたのだった。
 そして日本軍はアッツ島・キスカ島を占領、
支配下においた。
しかしここに日本軍の拠点があることは
アメリカにとってアメリカの本土への脅威になった。
 しかもアッツ島とキスカ島は
奪取されるまではアメリカの領土であり、
日本軍に占領されたままでいるということは、
国民の士気にかかわり、我慢がならない事であった。
 アメリカ軍は反転攻勢を開始すると、
南方と同様、
北部太平洋方面も精力的に攻略を始めた。
 その一方日本軍は当初この地域を余り重視せず、
形ばかりの最小限の守備隊と
偵察機部隊しか配置しようとしなかった。
 しかし、アメリカ軍の空襲や
輸送船への攻撃が激しくなり、
守備力増強に迫られた日本軍は
兵力増強や飛行場の建設などに着手した。
だがアッツ島沖海戦にみられるように
国力に勝るアメリカの次第に増強された戦力と
阻止攻撃に阻まれ、
アッツ島・キスカ島とも
飛行場が完成する前に
アメリカ軍の本格的反攻に晒された。
 そして5月29日 司令官山崎保代陸軍大佐以下
残存兵約300名の決死突撃(バンザイ突撃)により
日本軍守備隊はついに玉砕した。
 アッツ島が陥落したことで、キスカ島の守備隊は
(陸海軍あわせて6000名余)
アムチトカ島米軍基地とアッツ島に挟まれ
完全に孤立してしまった。







  キスカ島撤退作戦





 1943年5月12日午前中、
大本営海軍部で関係者があつまり、
太平洋方面の情況判断をおこなわれた。
大本営陸軍部では、
北方軍作戦参謀安藤尚志陸軍大佐が、
参謀次長秦彦三郎陸軍中将・作戦部長綾部橘樹陸軍少将
・作戦課長服部卓四郎陸軍大佐達と、
北部太平洋方面の情況及び今後の作戦について検討した。
同日午後、アメリカ軍アッツ島上陸の報告を受け、
アッツ島確保の方針を打ち出す。
 アッツ島への増援部隊は、
第七師団(師団長鯉登行一陸軍中将)から
抽出する事になっていた。
 13日 陸海軍部は
アッツ島に増援部隊をおくりこむことで一致していた。
しかし連合艦隊には南方戦線への戦力注入で余力がなく、
北方への新たな戦力捻出には異論があり、微妙であった。
 5月14日 海軍部はアッツ島への緊急輸送に対し
「(一)落下傘部隊 (二)潜水艦輸送 (三)駆逐艦輸送」
の計画策定を推し進めた。
 アッツ島守備隊は善戦しているが
至急増援部隊をおくる必要があることを再確認した。
5月16日から17日の大本営陸海軍合同研究会では、
刻々伝えられる情勢から悲観的な空気に包まれていった。
 旧式戦艦(扶桑、山城)と第五艦隊各艦および落下傘部隊で
アムチトカ島を攻略する「テ」号作戦も検討されたが、
もはや時機を逸しており成算も疑問視された。
 5月18日 大本営は「熱田(アッツ島)奪回の可能性薄し」
とアッツ島放棄を内定。
 大本営は北海守備隊を如何にして
撤退させるかの検討に入った。
その内容は、キスカ島は潜水艦を主力に
駆逐艦と巡洋艦を併用。
 アッツ島は
「熱田湾ハ水深三米程ニテ潜水艦ハ入レナイ、
「ボート」一隻モナシ、
午前三時以後ハ絶エズ哨戒駆逐艦動キツツアリ。
ココハ最後ハ玉砕ヤムナシト云フ案モアル。

というものであった。
 5月28日 大本営陸海軍部は戦況交換を行う。
戦局全般の研究会が開かれた。
5月30日 大本営はアッツ島守備隊全滅を発表、
初めて「玉砕」の表現を使った。
 玉砕という表現とその事実が
実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてだった。
また山本五十六元帥戦死公表の直後だったため(5月21日)、
国民は大きな衝撃を受けた。
 大本営は
「山崎大佐は常に勇猛沈着、
難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道した。
 実際は5月16日に
補給と増援の要請を打電しており、虚偽の発表であった
同年9月29日 
アッツ島守備隊将兵約2600名の合同慰霊祭が、
札幌市の中島公園で行われた。


 アッツ守備隊玉砕の報告は
5月30日 昭和天皇に伝えられた。
昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長に対し
「最後まで良くやった。
このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」
と命令した。杉山はすかさず、
「守備隊は全員玉砕したため、
打電しても受け手が居りません」
と言った。
これに対して昭和天皇は
「それでも良いから電波を出してやれ」
と返答したという。

 無念にも散って逝った守備隊へ向けた
昭和天皇の御言葉は
決して届かないであろう事を承知した上で
アッツ島へ向けて打電された。


 アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近い
キスカ島守備隊は取り残された形となったが、
5月20日キスカ島からの撤退を決定していた。
 海軍では木村昌福少将が第一水雷戦隊司令官となり、
潜水艦による第一次撤収作戦及び水雷戦隊による
第二次撤収作戦を実施、
キスカ島の将兵の脱出・撤退は成功した。
 日本軍キスカ撤収直後、
連合国軍はコテージ作戦を発動。
8月15日 キスカ島上陸作戦を敢行、
しかし当然ながら、空振りに終わった。



     撤退作戦の時系列的経過


 制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られた戦域に
孤立無援となっていたキスカ島守備隊。
退くに退けず、
 待つのは死か降伏かという状態になってしまっていた。



 キスカ島守備隊 の陣容
陸軍北海守備隊司令官峰木十一郎少将以下2700名
陸軍北方軍司令官樋口季一郎中将 麾下
海軍五十一根拠地隊司令官 秋山勝三少将2800名

 アッツ島にアメリカ軍が上陸した後に
増援を送ることは、ほぼ不可能であった。
アッツ島守備隊が戦っていた5月21日、
大本営は北部太平洋アリューシャン方面の放棄を決定。
キスカ島の守備隊は撤退させることとした。
作戦名は「ケ」号作戦であった。

   

    第一期作戦

 高速艇である駆逐艦や軽艦艇などの水上艦艇で
夜陰に乗じて撤退を行うのが最も効率が良く
比較的安全な方法であったが、
水上艦隊による撤退作戦には消極的だった。
 最前線での輸送、撤退任務に駆逐艦を投入した場合、
海軍は南方作戦に於いて
駆逐艦のかなりの数を失っており、
これ以上駆逐艦を投入することは避けたかった。
 代案として潜水艦艦隊での撤退作戦を立案、実行した。

 5月21日 日本海軍と日本陸軍は協定を結び、
「熱田島(アッツ島)守備部隊ハ
好機潜水艦ニ依リ収容スルニ努ム」
「鳴神島(キスカ島)守備部隊ハ
成ルベク速ニ主トシテ潜水艦ニ依リ
逐次撤収スルニ努ム 
尚海霧ノ状況、敵情等ヲ見極メタル上状況ニ依リ
輸送船、駆逐艦ヲ併用スルコトアリ」と指示。
5月29日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、
機動部隊の北方作戦参加をとりやめ、
北方部隊と第二基地航空部隊により陸軍と協同し、
「ケ」号作戦(キスカ島撤退作戦)を下令した。
この時第19潜水隊と伊155号潜水艦が
北方部隊の指揮下に編入された。

 5月30日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は
「ケ」号作戦実施要領を発令。
参加兵力は第一潜水戦隊(司令官古宇田武郎少将)
の潜水艦15隻。
 そのうち沈没と損傷のため、
実際に参加した潜水艦は13隻であった。

 アッツ島玉砕2日前の5月27日、
伊7潜水艦がキスカ港に入港60名を収容、
帰途につく。
 6月10日 キスカ島所在人員は、陸軍2429名、
海軍3210名、合計5639名である。
 当初、潜水艦の撤退作戦は
苦労しつつ行われていた。
 次第にレーダーに捕捉され砲撃され
撃沈されるようになった。
 6月15日、伊9が撃沈。
 6月17日、古宇田司令官は
キスカ周辺で行動中の潜水艦に一時待機を命じる。
 6月18日 潜水部隊指揮官は
伊7・伊169・伊36・伊34にキスカ突入を命令。
6月21日、第7潜水隊司令玉木留次郎大佐座乗の
伊7潜は米駆逐艦捕捉されて損傷。
 司令、潜水艦長戦死、
キスカ島南水道二子岩に擱座して放棄爆破処理される。
6月22日 潜水部隊指揮官は
伊34・伊169・伊171と
伊36の幌筵帰投を命じる。
6月23日 北方部隊指揮官は
潜水艦輸送作戦の中止を発令、
第一期作戦成果
撤収人員 
海軍308名、陸軍58名、軍属506名、計872名。
 しかし潜水艦は次々に損傷し、また3隻を喪失
目的を貫徹できず、第一期「ケ」号作戦は失敗に終わった。


    第二期作戦 

 潜水艦による撤退作戦が不調に終わったため、
セオリー通り当初想定された
水雷戦隊による撤退作戦が立案された。
 しかし正面から堂々と作戦を行っていたのでは
キスカ島周辺のアメリカ艦隊に発見されるのは不可避である。
そこでこの地方特有の濃霧を利用、
霧に紛れて高速でキスカ湾に突入
素早く守備隊収容、離脱を図る
という計画を実行する事とした。
 6月24日 北方部隊指揮官は、
「ケ」号作戦第二期作戦の実施を下令、
6月28日、軍隊区分等を発令した。

 作戦を成功させるにはふたつの絶対条件があった。
 1視界ゼロに近い濃霧の発生。
2電探及び逆探を装備した艦艇の配備。
 1は濃霧が発生していれば空襲を受けずに済み、
キスカ島東側の
アムチトカ島アメリカ軍の航空基地爆撃機の
空襲を受ければ全滅もあり得た。
 このキスカ島の天候状況は
撤収部隊の死命を制する絶対条件であった。
また電探及び逆探は自軍の艦の濃霧の中での
事故防止と哨戒の重要な用途を担っていた。
 第一次作戦に参加した潜水艦の中から数隻を抽出、
撤収部隊に先行しキスカ島近海に配備、
地域の気象情報の探索周知の任務を負う事とした。


 第二の条件として
当時日本艦隊には巡洋艦・駆逐艦クラスで
電探を装備した艦はほとんどなかった。
 敵艦レーダーで発見され、撃沈されるのを避けるため
濃霧は敵の空襲から日本艦隊を守ってはくれるが、
同時に日本軍肉眼による見張り能力を低下させる。
 これを補うためには絶対条件として逆探と電探が
必須アイテムとなった。
 これには実行部隊の
第一水雷戦隊司令官に着任したばかりの
木村昌福少将から強い要望が出され、
連合艦隊は就役したばかりの
新鋭高速駆逐艦島風を配備する。

 島風は就役当時から二二号電探と
三式超短波受信機(逆探)を搭載していた。
 仮に肉眼でアメリカ軍に発見されても、
アメリカ艦と誤認するよう
阿武隈、木曾の3本煙突の1本を白く塗りつぶして
二本煙突に見えるよう偽装工作を施し、
駆逐艦にも偽装煙突を装着、
各艦とも用意万端、
さらに第10駆逐隊などが
掻き集められての出撃となった。


 1943年6月28日
キスカ島守備隊撤退作戦「ケ」号作戦が発動された。
敵情偵察・気象通報に
北方部隊潜水艦部隊が幌筵を出撃。
水上部隊は7月7日幌筵を出撃した。
 この部隊の目的は
味方守備隊の撤退を隠密裏に行う事であり、
成功の成否の鍵は
アメリカ軍部隊との接触を避ける事にあった。
 しかし、万が一に備えて夜戦の用意も怠らなかった。

 7月10日 
アムチトカ島500海里圏外で撤収部隊が集結。
一路キスカ島へ向かう。
 Xデーは12日。しかしキスカ島に近づくにつれ、
霧が晴れてきたため突入を断念。
 その翌日も翌々日も霧が晴れ、突入を断念。
この慎重を期した行動は
木村少将自身の経験から来ていた。
 上空援護のない状態での空襲は
水雷戦隊にとって致命的であり
木村少将は嫌というほど知っていた。
 燃料の残量も少なくなってきたことから
15日 一旦突入を諦め幌筵へ帰投命令を発した。
 木村少将の「帰れば、また来られるからな」
と言い残しての命令だった。


   再出撃

 手ぶらで根拠地に帰ってきた
木村少将への批判は凄ましかった。
第5艦隊司令部のみならず、
連合艦隊司令部、更に大本営から

 非難轟々であった。
突入しなかったからだけでなく、
8月は霧が晴れ、
アメリカ軍の上陸作戦予想されたことにもあった。
 つまり、撤収作戦が
ほぼ不可能になることを意味していた。
 更に備蓄していた重油が底をつき
焦りから来たものでもあった。
 だが木村少将はこの批判を意に介さなかった。
濃霧が発生するのをじっと待っていた。
 木村少将の判断は当然であり、
焦りは禁物、それが総てであった。
 7月22日 7月25日以降、
キスカ島周辺に確実に霧が発生するとの予報。
 同日夜、撤収部隊は幌筵を再出撃した。


 艦隊はカムチャツカ半島先端占守島から
北太平洋を南下し、アッツ島南方海上にて待機、
天候を見てキスカ湾へ進路をとり、高速で突入、
守備隊を迅速に収容、
再びアッツ島南方海域まで全速で離脱、
その後幌筵に帰投ルートが計画されていた。



  キスカの奇跡


 29日1水戦司令部気象班は
濃霧の可能性大との予報を出す。
気象観測に出した潜水艦各艦及び
キスカ島守備隊からの通報でも
それを裏付けられたため、
木村司令官は突入を決意。
 1水戦司令部から5艦隊司令部へ
「本日ノ天佑我ニアリト信ズ適宜反転サレタシ」
の信号が届いた。
 艦隊では突入の準備が急遽進められ
各駆逐艦に燃料を補給した。
 敵艦隊との遭遇を避けながら
7月29日午後0時、
艦隊がキスカ湾に突入した。
 突入時に旗艦阿武隈が敵艦隊発見と報告、
直ちに魚雷4本を発射、
島風も発射し全弾命中した。
 しかし目標は敵艦ではなく
軍艦に似た形の島であった。
 霧がどれほど濃かったかを示していた。
 13時40分 艦隊投錨。
キスカ湾内は一時的に霧が晴れる幸運があった。
ただちにキスカ島守備隊員約5200名が
大発のピストン輸送により
わずか55分という短時間で迅速に収容。
 守備隊全員を収容後、
ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱した。
 直後からまた深い霧に包まれ
空襲圏外まで無事に離脱することができた。

 各艦の収容人数
阿武隈 1202名
木曾 1189名
夕雲 479名
風雲 478名
秋雲 463名
朝雲 476名
薄雲 478名
響 418名、合計5183名であった。

 その日の夕刻、
撤収部隊は浮上航行中の
アメリカ海軍の潜水艦と近距離で遭遇した。
 だが各艦とも偽装工作をおこなっていたため
米潜水艦は撤収部隊をアメリカ艦隊と誤認、
両者とも素通りした。
 7月31日 全潜水艦の幌筵帰投。
撤収艦隊は8月1日までに
幌筵に全艦無事に帰投。
 気象通報に出した潜水艦も全艦無事帰投し、
戦史上極めて珍しい
無傷での撤退作戦は完了した。



 ここまでの完璧な撤退作戦成功には
実は日本側にとって都合が良過ぎるような
ありえない米軍の行動が複数回あった事。
それは不可解な現象が
米軍に起きていたとしか思えない行動だった。

 それらの幸運が重なり成功へと導かれていた。


  有りえない行動その1


 7月22日 アメリカの飛行艇が
アッツ島南西200海里地点にて
レーダーで7隻の艦艇を捕捉。
 その期間は第一次、第二次撤収作戦の合間であり、
その地点に日本軍艦艇は存在していなかった。

 7月26日 ミシシッピーはじめ、米軍各艦艇が
一斉にレーダーにエコーを捕捉、
直ちにレーダーによる射撃を開始、
40分後反応は消えた。

 しかしその時も日本軍はそこにはいなかった。
その日は幌筵出撃して一日目で、
濃霧のため、友軍艦同士の衝突事故を起こし
その損傷の大きさから若葉が船団を離脱、
帰投した頃だった。

 結果その日米軍は幻の敵に対し、
盛大に無駄弾を浪費してしまった。

 現在の解釈では、
この時の事を米艦隊の
一斉レーダー誤認とされているが、
何故かサンフランシスコのレーダーにだけは
一切反応がなかった。

 この時日本側は
アメリカの緊急平文通信を傍受していた。
 そして米軍はどうやら
同士討ちしているようだとの認識を持っていた。
 しかしその実は、米軍の同志討ちではなく、
レーダーにだけ捕捉された
「幻の艦隊」と戦っていたのだった。
 そしてレーダーから反応が消えたのを
日本の艦隊を全て撃沈したと
思い込んでしまっていた。

 そしてその思い込みが
とんでもない油断に繋がってしまった。

 これで(全艦撃沈したのだから、)
1日や2日包囲を解いて留守にしても
影響はないであろうとの判断に至った。

 そして幻の艦隊への攻撃で消費した弾薬を
補給するため、
7月28日哨戒用を含め、
全艦後方の補給基地へと移動させてしまった。
 そして偶然にも同日そのチャンスに
濃霧をついて
日本の水上部隊がキスカ島に突入した。
 7月30日 補給を終えた米軍艦船は
元の通りの配置を完了した。
 しかしその時はすでにキスカ島から
日本軍守備隊は総て撤収済みであり、
島は無人島と化していた。

 そんな事になっているとは露知らず、
アメリカ軍は8月に入っても砲撃を繰返し、
雨あられと砲弾を浪費していた。

 そして驚くことに、2週間も島が無人である事に
気づかずにいた。


  有りえない行動その2
 
 撤収を終えキスカ島を急ぎ離脱した日本軍艦隊は
前述の通り、米軍潜水艦と近距離で遭遇していた。

 しかし、各日本艦船の偽装が功を奏し、
また濃霧だったこともあり、
敵に気づかれることなく、双方がすれ違っている。  
 だが、いくら偽装していたとは言え、
濃霧に包まれていたとは言え、
果たして疑う事無く、
無警戒にやり過ごしてしまうものなのか?
傍から見ると、何とも間抜けな話に思えてしまう。



  有りえない行動その3

 コテージ作戦。
米軍のキスカ島上陸作戦。
上陸部隊の兵力34426名。
 アメリカ陸軍の
チャールズ・コーレット少将の指揮のもと、
参加艦艇はペンシルベニア、アイダホ、
ミシシッピの戦艦3隻と重巡洋艦ポートランド、
軽巡洋艦サンタ・フェなど艦艇100隻あまりを動員、
事前にキスカ島に対して激しい砲爆撃が行われた。
 1943年8月13日 
攻略部隊がアダック島から出撃した。
 15日 攻略部隊はキスカ島に到着した。
すでに日本軍は脱出し無人であった。
 それを知らないアメリカ軍は
圧倒的な兵力での万全を期した上陸だった。
 しかし周囲を警戒しても「いるはずの日本軍」が
一向に攻撃を仕掛けてこないので
兵士たちは疑心暗鬼に陥ってしまった。
 極度に緊張していたからか各所で同士討ちが多発、
最終的に死者100名、負傷者数十名を出す結果となった。
「いるはずの日本軍」が
「いつ不意を付かれて襲われるか分からない」と
更に兵士達の緊張状態が高まった結果、
動く物を無差別に日本軍兵士と勘違いし
同士討ちが起きたのである。
 アメリカ軍は前述の通り日本軍の撤退を知らなかったため、
同士討ちが起きても仕方ない状況だった。
 後にアメリカの戦史家サミュエル・エリオットは、
作戦史の中で
「史上最大の、最も実践的な上陸演習であった」
と皮肉るほどの惨憺たる結果と云える。

 しかしそんなことが果たして
実際に起きても良いものなのか?


 キスカ島での撤退作戦の中で起きた
数々の日本にとって都合の良い偶然は
窮地にあった日本軍守備隊と
救出に向かった艦隊をも守った事になる。

 この不可思議な現象は単なる偶然と
米軍という組織集団にあった中での
勘違いの積み重ねだったのだろうか?

 それともあの幻は
寡兵をもって米軍と対峙した
アッツ島の日本軍の英霊だったのだろうか?
英霊たちが一緒に戦ったというのか?

 オカルト染みた話になってしまったが、
私には何かしらの意思を感じる。

 ここで改めて彼らの気持ちを知りたくなる。
今になって英霊に問う事はできないので
アッツ島の玉砕で
奇しくも生き残ることができた人の
インタビューに注目してみる。

 アッツ島の奇跡の生還者は27名。
彼らの証言を聞くと
彼らは一様にごく普通の人生を過ごす、
普通の青年だったと云う事。
 戦争が無ければ
普通の人生を全うしたであろう戦友に
思いを馳せる普通の人だった。
 決して逆らう事の出来ない命令に従い、
バンザイ突撃をした若者たち。
 国を守る正義感と義務感が
彼らを突き動かしたのか?
 勿論それが無ければ突撃などできないだろう。
 しかしそれだけが総てではないように思える。

 死して尚、国を、家族を、仲間を守り抜こうとする
その意思は、想像を超えた凄まじさを感じる。

 彼らの生き様、死にざまを、
私は決して忘れてはならない、そんな気がする。


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3 コメント

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Unknown (sato0120121)
2020-05-22 12:12:48
この頃、一般民間人は、アリンコと同じ扱い?日本って、生まれたところ=出自っていうんでしたっけ?それ次第
ほんと、弾圧されて、紙一枚で命を捧げる一方で、口ひとつでいきおおせているひとも…いまも、変わっていないのかなぁ
ちなみに、うちにお墓があるのも、こうやって私が持ち家に住んでいられるのも、死んで、母親に…といって戦死した叔父さんのお陰みたいですけど
返信する
Unknown (uparupapapa )
2020-05-22 12:56:05
@sato0120121 貴重なコメントありがとうございます😊

また私のblogに幾度もお越し頂きありがとうございます。

当時の憲法では国民は『臣民』であり、基本的な人権は後付けの法律で制限されてきました。
アリンコと同一視するのは当時の人たちに対してさすがに失礼過ぎますが、戦時中国家に対する無条件な滅私奉公を求められたのは確かです。
でも当時の国民である私たちの父祖は、そんな状況の中でも崇高な誇りを持ち、心が折れそうな悲惨な環境下でも、その時にできる最善の道を選択し全うしてきたと私は思っています。
この戦記は、今は亡き父が私に話してくれた戦争体験をヒントに舞台を変え、史実と創作を織り交ぜた物語です。
私は国粋主義者ではありませんが、戦争で生き残り私たちに語り継いでくれた重い体験を、人としての尊厳を全うした生き様を語り継ぐ義務があると思っています。
本当はもっと深く掘り下げた物語に仕上げたかったけれど、blogの日記にUPしただけの環境ではこの辺が限度でした。
そう遠くないいつの日か、(戦争ものに限らず)もっと本格的な作品を書き上げようと考えています。
今後も拙い日記を宜しくお願いします。
返信する
Unknown (サテュロス)
2020-10-02 07:28:31
おはようございます。
最後のエピソードは、実に不思議なお話ですね。
僕は、毎月靖国神社の参拝を欠かさず、何度となく遊就館も拝観させて頂いてますので、ここは、普通に英霊達が、キスカの戦友達と共に戦ったのであろうと信じ、手を合わせておきたいと思います。
返信する

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