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このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。
#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
(snowdrop様のblogリンク先)
Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。
第17話 鳥羽伏見の戦い前夜
再婚の退助に対し、
初婚の展子は家の体面もあり、
内輪だけでも婚儀をとの希望もあり、
ささやかな式が執り行われた。
「これで退助がフラフラする事はもうあるまい。
カッ、カッ、カッ!」
再び身を固めた事を媒酌人の叔父・平井政実は
上機嫌で大変喜んだ。
「叔父上!」
退助は眉間にしわを寄せ、
小声でそれ以上余計なことを喋るなと
目で合図した。
鋭い展子はすかさず
「あら、退助様、
今までフラフラなさっていたのですか?
どうフラフラされていたのでしょう?」
こちらも小声で
ひな壇の隣にいる退助に聞いてきた。
退助の過去の評判を知るにつけ
聞きたくなるのは当然である。
それに対し、脛に傷持つ退助は当然とぼけて
「ワシがフラフラなどするはずはあるまい。
あくまで独り身男の一般論として言ってみただけじゃろ。」
「そうかしら?怪しい・・・。
叔父上様ァ~!」
展子は叔父に向かって問い詰めようとするが
慌てた退助が遮る。
「叔父上、ご多忙の中、
本日は大酌人の大任、お引き受けくださり
新妻の展子共々、心から感謝申し上げます。
私は明日には登城の上、
直ぐに喫緊の仕事に取りかからねばなりません。
つきましては別途ご相談したき儀がございますので、
後程お付き合い願いとうございますが、如何?」
「フム、そうか?あい分かった。」
本当は相談など無かった。
退助は目配せで政実叔父の昔話を封じた。
「時に叔父上、云々・・・・・。」
話題を変える事に成功した退助を横目で見る展子は、
大そう不満げであったのは勿論である。
(もっと退助様の事を知りたいのに・・・恨めしや。
今夜は質問攻めにしてあげましょうぞ。)
この時展子による退助への尋問の刑が確定した。
その日の夜、退助にとって防戦一方の
最も過酷な一夜になったのは言うまでもない。
「新婚初夜だというのに、可哀そうに。
チ〜〜ン🙏」
(・・・・作者の独り言です)
翌日、またしてもいつぞやの時と同様に
寝不足となった退助は、
言葉通り久しぶりに登城した。
ここで土佐藩を巡る情勢を
若干おさらいしたい。
列藩による四候会議は失敗に終わり、
政権内部での主導権争いに敗れた諸侯、
とりわけ薩摩藩の西郷隆盛は、
幕府を交えた列藩連合政権に見切りをつけ、
倒幕に大きく舵を切る決意をした。
倒幕実行の機運の高まりと西郷との密約実行要請を受け、
ベルギー製最新鋭銃
『アルミニー銃』300丁を手に入れた退助は、
それまでの弓隊を銃撃隊に組織を改編、
土佐勤王党残党、下士や郷士を加え、武力討幕部隊として
後の迅衝隊(隊員数600名)を組織した。
ここで注目すべきなのは、
町人袴着用免許以上の者に
砲術修行允可の令を布告したこと。
武士以外に門戸を広げ、兵制改革、近代式練兵を行うなど
明治維新に繋がる先進的・画期的改変を実行したのである。
(これとは別に、
上士で構成し鳥羽伏見の戦いに参戦した(後に登場する)
『胡蝶隊』という部隊も存在した。)
しかし7月8日京都から帰藩した後藤象二郎が
坂本龍馬と共に起こした策『大政奉還論』を豊信公に献策。
藩論は振り子のように大きく動く。
大政奉還が成されると、倒幕の大義名分が無くなる。
それでも退助はあくまで武力討幕を主張。
「大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。
徳川氏、馬上に天下を取れり。
然らば馬上に於いて之(これ)を復して
王廷に奉ずるにあらずんば、
いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。
無名の師は王者のくみせざる所なれど、
今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。
此時に際して断乎たる討幕の計に出でず、
徒(いたずら)に言論ののみを以って
将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。」
(大政奉還論など空名無実である。
徳川300年の幕藩体制は
あくまで武力によって作られた社会秩序ではないか。
であるならば、武力によってしか覆すことはできない。
なあなあの話合いなどで将軍を退任させようなどと、
そんな生易しい策では
早々に破綻するのは必定である。)
大政奉還論を全否定した退助は、
全役職を解任され再び失脚した。
呆れ返る展子。
しかし何故か笑顔を見せてこう言った。
「見合いの席での『度々失脚』のお言葉は
本当だったのですね。」
その内心は、新婚早々多忙を極めた退助が
「恐ろしく暇になる。」と云った
退助の言葉を思い出し、
是非そうなって欲しいと願ったからである。
ようやく水入らずの
落ち着きある新婚生活ができると
喜ぶ展子であった。
しかし・・・・・
それはつかの間の糠喜びだった。
全役職を解任された退助は平然とし、
少しもしょげ返ってはいなかった。
即ち京都で合戦が勃発すれば、
薩土討幕の密約に基づき、
同士と共に脱藩、
武力討幕に加わるつもりでいたからである。
1867年(慶応3)11月9日
大政奉還成る。
1868年1月(太陰暦 慶応3年12月)
失脚中の退助を残し、土佐藩兵(胡蝶隊等)上洛。
伏見の警護に着任。
薩摩藩西郷隆盛、薩土密約に基づき、
乾退助を大将として国許の藩兵を上洛・参戦を
求めてきた。
1月27日鳥羽伏見にて開戦勃発。
土佐の山田隊、吉松隊ら
藩命を待たず薩土密約履行のため参戦する。
情勢が想定外に大きく変化した事に慌てた藩庁は、
2月2日退助の失脚を急遽解く。
更に迅衝隊の大隊司令として出陣、
戊辰戦争に参戦すべしとの命が下る。
これにより退助の脱藩計画は消滅する。
大手を振って参戦できるのだ。
展子の願望はあっけなく砕け散り、
退助の出征を見送る事となった。
最後の夜。
真冬の澄んだ夜空に浮かぶ月が
ふたりの姿を映し出す。
展子は退助の胸の中で呟く。
「浮気しないで帰ってきて。」
退助は展子の顔を覗き込み、
「どうかご無事で、とかの言葉は無いんか?」
展子が顔を上げ、退助を見据えて言う。
「あなたが無事でお帰りになるのは
間違いないと信じております。
ただ、私(わたくし)の見て居らぬところで
何をされるのか、
そちらの方が心配です。
ほら、ご媒酌の叔父上様も
言っていらしたじゃないですか。
『独身時代、フラフラしていた』と。」
「だからあれは一般論であると申したであろうが。」
「この私にそんな言葉を信じろと?
・・・無理!!」
翌朝、やはり涙の出征見送りとなった。
3月11日退助率いる迅衝隊が美濃大垣に到着。
しかしその3日前の
1868年(慶応4)3月8日和泉の国、堺港で
世間を揺るがす大事件が起きた。
つづく
翌日、またしてもいつぞやの時と同様に
寝不足となった退助は、
言葉通り久しぶりに登城した。
ここで土佐藩を巡る情勢を
若干おさらいしたい。
列藩による四候会議は失敗に終わり、
政権内部での主導権争いに敗れた諸侯、
とりわけ薩摩藩の西郷隆盛は、
幕府を交えた列藩連合政権に見切りをつけ、
倒幕に大きく舵を切る決意をした。
倒幕実行の機運の高まりと西郷との密約実行要請を受け、
ベルギー製最新鋭銃
『アルミニー銃』300丁を手に入れた退助は、
それまでの弓隊を銃撃隊に組織を改編、
土佐勤王党残党、下士や郷士を加え、武力討幕部隊として
後の迅衝隊(隊員数600名)を組織した。
ここで注目すべきなのは、
町人袴着用免許以上の者に
砲術修行允可の令を布告したこと。
武士以外に門戸を広げ、兵制改革、近代式練兵を行うなど
明治維新に繋がる先進的・画期的改変を実行したのである。
(これとは別に、
上士で構成し鳥羽伏見の戦いに参戦した(後に登場する)
『胡蝶隊』という部隊も存在した。)
しかし7月8日京都から帰藩した後藤象二郎が
坂本龍馬と共に起こした策『大政奉還論』を豊信公に献策。
藩論は振り子のように大きく動く。
大政奉還が成されると、倒幕の大義名分が無くなる。
それでも退助はあくまで武力討幕を主張。
「大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。
徳川氏、馬上に天下を取れり。
然らば馬上に於いて之(これ)を復して
王廷に奉ずるにあらずんば、
いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。
無名の師は王者のくみせざる所なれど、
今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。
此時に際して断乎たる討幕の計に出でず、
徒(いたずら)に言論ののみを以って
将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。」
(大政奉還論など空名無実である。
徳川300年の幕藩体制は
あくまで武力によって作られた社会秩序ではないか。
であるならば、武力によってしか覆すことはできない。
なあなあの話合いなどで将軍を退任させようなどと、
そんな生易しい策では
早々に破綻するのは必定である。)
大政奉還論を全否定した退助は、
全役職を解任され再び失脚した。
呆れ返る展子。
しかし何故か笑顔を見せてこう言った。
「見合いの席での『度々失脚』のお言葉は
本当だったのですね。」
その内心は、新婚早々多忙を極めた退助が
「恐ろしく暇になる。」と云った
退助の言葉を思い出し、
是非そうなって欲しいと願ったからである。
ようやく水入らずの
落ち着きある新婚生活ができると
喜ぶ展子であった。
しかし・・・・・
それはつかの間の糠喜びだった。
全役職を解任された退助は平然とし、
少しもしょげ返ってはいなかった。
即ち京都で合戦が勃発すれば、
薩土討幕の密約に基づき、
同士と共に脱藩、
武力討幕に加わるつもりでいたからである。
1867年(慶応3)11月9日
大政奉還成る。
1868年1月(太陰暦 慶応3年12月)
失脚中の退助を残し、土佐藩兵(胡蝶隊等)上洛。
伏見の警護に着任。
薩摩藩西郷隆盛、薩土密約に基づき、
乾退助を大将として国許の藩兵を上洛・参戦を
求めてきた。
1月27日鳥羽伏見にて開戦勃発。
土佐の山田隊、吉松隊ら
藩命を待たず薩土密約履行のため参戦する。
情勢が想定外に大きく変化した事に慌てた藩庁は、
2月2日退助の失脚を急遽解く。
更に迅衝隊の大隊司令として出陣、
戊辰戦争に参戦すべしとの命が下る。
これにより退助の脱藩計画は消滅する。
大手を振って参戦できるのだ。
展子の願望はあっけなく砕け散り、
退助の出征を見送る事となった。
最後の夜。
真冬の澄んだ夜空に浮かぶ月が
ふたりの姿を映し出す。
展子は退助の胸の中で呟く。
「浮気しないで帰ってきて。」
退助は展子の顔を覗き込み、
「どうかご無事で、とかの言葉は無いんか?」
展子が顔を上げ、退助を見据えて言う。
「あなたが無事でお帰りになるのは
間違いないと信じております。
ただ、私(わたくし)の見て居らぬところで
何をされるのか、
そちらの方が心配です。
ほら、ご媒酌の叔父上様も
言っていらしたじゃないですか。
『独身時代、フラフラしていた』と。」
「だからあれは一般論であると申したであろうが。」
「この私にそんな言葉を信じろと?
・・・無理!!」
翌朝、やはり涙の出征見送りとなった。
3月11日退助率いる迅衝隊が美濃大垣に到着。
しかしその3日前の
1868年(慶応4)3月8日和泉の国、堺港で
世間を揺るがす大事件が起きた。
つづく
最後の、展子の言葉
「浮気しないで帰って来て」
退助が「どうか ご無事でとかの言葉無いんか」
そのあと、展子の返す言葉がいい✨
退助が、ふらふらの意味が浮気でなくても😊
「無事を信じている」というところが、ネ😆
コメントありがとうございます😊
戦に出る夫を送り出す妻の心境を、私なりに想像してみました。
正直、読んでくださった方(特に女性)の感想が気になり、ビクビクものでしたので、
とても嬉しく思います。
励みになるお言葉、今回もありがとうございました。
勇気を持って描き続ける事ができそうです。