uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(26)

2021-02-14 06:31:29 | 日記











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snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。










   第26回 凱旋


 退助の戊辰戦争は、
その後に起きる箱館戦争を残し終わった。


 
 1868年11月17日
総督 板垣退助、朝廷より凱旋の令を拝す。
これに伴い凱旋の全軍に諭戒した。


「不肖、退助、推(お)されて一軍の將となり、
當初、剣を仗(たづさへ)て諸君と共に故郷を出づるの時、
生きて再び還る念慮は毫(すこし)も無かりし。
屍(しかばね)を馬革に裹(つゝ)み、
骨を原野に曝(さら)すは固(もと)より覺悟の上の事なり。
想はせり今日征討の功を了(を)へ、
凱旋の機會に接せんとは。
これ何等の幸せぞや。
ひとつ悲みに堪へざるは、
吾等、戰友同志は露に臥(ふ)し、
雨に餐(まか)するの餘(あまり)、
竟(つひ)に一死大節に殉じ、
永く英魂を此土(こゝ)に留むるに至る。
眸(ま)のあたり賊徒平定の快を見て
之を禁闕(きんけつ)に復奏する事
能(あた)はざるの一事なり。
而して我等、
此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、
低徊(あてなき)躊躇(さまよひ)の情(こゝろ)に
堪へざるものあり。
それを何事ぞや諸君らの中に
刻を競ふて
南に歸さんと冀(こひねが)ふは。
そもそも此の殉國諸士の
墓標(おくつき)に対し心に
恥づ處なき乎(や)。
今時、凱旋奏功の時に臨み、
敢て惰心を起して
王師(にしきのみはた)を汚す者あらば、
忽(たちまち)にして軍法を以て處す。
然れば全軍謹んで之を戒めよ。」

  板垣退助
 

 退助が凱旋にあたり残した諭戒は、
戦死し、現地に残す英霊たちへの労りと気遣い、
そして生き残った兵士たちの自分本位の
望郷の逸(はや)る気持ちを諫め、
勝軍の狼藉を厳しく咎めるものだった。

 薩長土連合の官軍兵士の中には、
会津藩が俄(にわ)か仕立てに結成した
会津女性隊を捕獲後に性的暴行したり、
市中への放火、略奪を犯す者など
鬼畜にも劣る不心得者が多発した。

 現在に至る会津人の怨讐も
その時の官軍の行状に起因したものもあった。
(ただし、放火、略奪は会津側もやっているが。)

 「年貢を半分にしてやる。」と
噓を言い、農民を徴兵するなど、
略奪、謀略の限りを尽くした戦(いくさ)。


 あまりに人を愚弄した支配者たち。
とうとう農民は怒りを爆発させる。
官軍の勝利が見えた時、反抗の時は来た。
それが「ヤーヤー一揆」である。
 一揆が始まったのが11月16日。

その翌日、退助たちは朝廷から凱旋の令を拝する。

 引き上げが決まった退助は、
わが身の凱旋ではなく、
何とか被害を受けた農民の
窮状を救う手立てはないかと考えた。

 会津戦争は、退助率いる
迅衝隊・断金隊等の超人的活躍で
予想より大幅な短期終結をみた。
当然準備した兵糧も大量に余った。
 これを持ち帰るのは難儀であり
無駄な負担となる。

 そこで迅衝隊左半大隊司令
片岡健吉を呼び出す。

片岡司令に対し
「ワシらの戦は終わった。
この地を引き払う前に、
多大な迷惑をかけた会津領民に対し、
残った兵糧を分け与えようと思う。
 これは相談ではない。
ワシの独断による命令である。
 故(ゆえ)に、兵糧浪費の責任と
それに伴う罪は、総てワシが負う。
 ただし、与えた領民たちには
領外への他言は無用、
内密にするよう、含み置くように。」
「何故(なにゆえ)内密に?
人心掌握の良き宣伝となりましょうに。」
「人気取りの評判なんぞ要らん。
今まで歩んできた他の戦で、
施(ほどこ)しは行っておらん。
 ワシたちの責務は、今できる最善を尽くすのみ。
だが今回だけの例外的援助措置は、
他の国の被災した者たちにとって
全くの不公平であろう?
これを聞いた二本松や宇都宮の民は何と思うか?」
「は!分かり申した。
廻りに触れ回る事の無きよう、
よく申し伝えます。」
合点がいった片岡司令は、
退助の配慮に感心し、復命した。

こうして凱旋に必要な最低限の兵糧を残し、
会津領内の戦被害に遭った地区の民に対し、
立場の上下に関わらず、
家族の人数分が公平に行き渡るよう、
直ちに庄屋(村長)を通じて配り終えた。

 退助の独断で行ったその行為は、
会津平定の功と
その後の戦(いくさ)始末の手際よさが評価され、
新政府により不問に付された。

ただ官軍日誌にも、政府の公式記録にも
一切残されていない。
当事者たちの記憶の中にだけ、
埋もれた事実であった。

 
全ての被災民に
余剰兵糧が平等に行き渡った頃合いを見計らい、
退助は検分のため、
いくつかの民家を非公式に視察する。

そこで退助が見たもの。

 ある農家の前を通過したとき、
丁度その家では夕餉の支度と
配膳を終えたところだった。
粗末な家の開け放たれた縁側の奥で、
 7~8歳くらいであろうか?
幼き娘子が目を丸くして言う。
「わぁ~!!
ぜぇ~んぶお米の飯だ!!
これ、本当に喰ってええんか?」
「ああ、有難き官軍様からの授かりもの。
心して喰え。おかわりもできるぞ。」
「えぇ?本当ヶ!!
夢の様じゃ!夢の様じゃ!!夢の様じゃ!!!
正月でもそんなに喰えたこと無いのに。」

「うめぇ~!!」

 稼業としてコメ作りをしているのに、
小作人の子供たちはお腹いっぱい
コメのご飯など食べた事は無い。

 いつも粟(あわ)か稗(ひえ)のみ。
そんな粗末な食事でさえ、
お腹いっぱい食べるなど夢のまた夢なのだ。

 一度だけでも、粟と稗だけの飯を
食べてみると良い。
不味くて食べられたものではないから。

 退助は思った。
「日本全国に蔓延する貧困の闇と不平等。
何としてもワシが変えねば。」



 
 12月12日、一揆の行方を見届ける前に
御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督 板垣退助が、
東山道総督府先鋒参謀 伊地知正治と共に東京に凱旋した。

 
 1868年9月3日江戸から東京に改称。
その直後の凱旋だった。
到着後退助は、新妻 鈴の元に会いに行く。
鈴は相変わらず、チャキチャキの江戸っ子だった。
 退助を前に空色の笑顔で迎え、
ポンポンと思った事を言う。
開口一番
「あれぇ?退助様少しお痩せになりましたぁ?
でもその方が水も滴る良い男と云うもの。
 鈴は自慢の夫を持てて幸せ者でございます。
でもその服装は・・・、取って付けた借り物みたい。
ちょっとダサいかも?」
「何?新調した最新式の洋装で決めて来たのに、
何と失礼な女子(おなご)ぞ!
成敗してくれようか?」
 退助の目は笑い、おどけた口調で言った。
そして
「ご無事のお帰り、おめでとうございます。
の言葉とかは無いのか?」
「ご無事のお帰り、おめでとうございます。」
と、オウム返しにウインクしながら、
お茶目な鈴が言う。
「これだから江戸の女子は・・・。はぁ(*´Д`)」
それを聞いた鈴は
「これだから土佐の男は・・・。はぁ(*´Д`)」
と返す。更に
「今は江戸とは申しません。
「東京」と呼び名は変わっておりまする。」
何とも憎々し気に口を尖らし、追い打ちをかける。
 ムスッ!とする退助。

数日後、千住に手ごろな空き家を見つけ
新婚家庭の居を定めた。


 さて・・・、
今度は難解の土佐の本妻
「展子(ひろこ)」の元に行かねばならぬ。

 何の落ち度もない展子に対し、何と云おう。
このとき程、幾千の戦(いくさ)の敵より
妻を怖く感じた事は無い。



   つづく

こりゃ!退助!!~自由死すも退助死せず~(25)

2021-02-11 03:58:31 | 日記









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     第25話 会津戦争~孤独な戦い~


 会津戦争は1868年(慶応4)6月15日の
白河口の戦いに始まり、
9月15日の二本松城の戦い等を経て
若松城籠城戦にて結末を迎える。

 
 上野戦争に於いて彰義隊殲滅作戦を立案、
指揮を執った大村益次郎は、
仙台藩、米沢藩への攻撃、
その後完全に孤立化させた会津藩への総攻撃を
主張した。

 それに対し、退助と伊地知正治は
会津藩への直接攻撃を主張、
退助たちの案が採用され
会津若松城への進軍が開始された。

 新政府軍は10月6日主街道を避け、
脇道を通り母成峠にて会津守備隊と激突、撃破した。
 その後約40㎞の電撃移動を敢行、
10月8日会津若松城の前に姿を見せる。

 会津領各地に守備隊を分散配置していた
会津側は虚を突かれた。

 実は会津藩側も兵員不足を認識し、
対策を取っていた。
 少年兵で構成した白虎隊の他、
領内の農民などの庶民たちが次々と徴兵されている。
 しかし彼らは領主への忠誠心は無い。
徴兵しても逃亡を繰返し、
士気は低く、全く戦いに協力しなかった。

 後の世のテレビドラマなどを見ると、
勇猛な会津藩の戦いの描写が
見る者の感動を誘っている。
 しかしその実態は藩士である武士だけが戦い、
殆どの領民は藩に対し、恨みしか持っていない。
 その結果の非協力的態度だった。

 勿論会津戦争を含め、戊申戦争は武士の戦争。
武士以外の庶民に関りは無い。

 しかし近代の戦争は総力戦であり、
農民や商人にとって
「あっしには関りの無い事でござんす。」
とはいかない。
 そういった意味で戊辰戦争は
武士中心の最後の戦争と云える。

 その後勃発した西南戦争は、
薩摩藩側は武士が主体だが、
 政府軍は平民からも徴兵した混合軍であり
質的な違いがあった。

 旧体制を守ろうとした最後の武士の軍隊が負けた。
時代の転換点と云えるのが、
この会津戦争と、
その後戊辰戦争を終結させた函館戦争なのだった。

 会津戦争で会津藩が負けた原因。
それは領民全体の協力を得られなかったから。
 近代兵器云々より、まずそれが一番まずい。

 人心掌握の点で会津藩はうまく行っていなかった。
付き従うべき領民にそっぽを向かれては、
勝てる筈はないのだ。

 では何故領民たちが非協力的だったと云えるのか?
私が指摘する論調は
「聞いた事がないよ!」という人がほとんどだろう。
でも史実は残念ながらそうなのである。
 
その根拠は年貢にある。

農民たち、町人たちの立場に立ってみると分かる。

 一般的な幕府天領は五公五民であるが、
会津藩は53%(資料に残る会津藩年貢率)であり、
しかも京都守護職に任命され、
多数の藩士を派遣するに至り、
更に徴用金が課せられ、会津戦争時
町人たちは資産の殆どを徴発されている。

 年貢で53%徴収され、
農民の殆どが小作であるため、
更に小作料が上乗せされむしり取られる。
 汗水流してようやく収穫した米の
何と6割以上が自分のものでなくなる。

 誰がそんなにたくさん差し出したいか?

 そうした背景もあり、
侵略してきた新政府軍を官軍様と呼び、
会津軍藩士を『会賊ども』と呼び捨てにしている。

 更に開戦前夜、
家老西郷頼母の母や妻子など21人が自刃したが、
当の頼母は敗戦後行方不明になっている。
 敵前逃亡した頼母。

 総大将の松平容保は罪一等を減じ謹慎処分となる。
全ての責任者として切腹するべき人が、
その責任を取っていない。

トップとナンバー2がその有様。

 白虎隊の悲劇など
壮絶で悲惨な部分のみが脚光を浴びているが、
実情を見透かした庶民の間では
逆に支配者が変わることにより
希望を見いだし、喜んでいる。

 その証拠に
会津藩の降伏を契機に、重税に苦しむ農民たちが、
1868年(明治元)11月16日~翌1月13日
ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)を起こしている。
 
また養子の喜徳とともに東京に護送された容保。

 しかし庶民は何の関心も示さず、
見送りにも殆ど現れていない。

 勇猛な戦いぶりとは裏腹に、
言葉にならない程、
無様な戦後を見て退助は思った。
 
 実は無様だったのは会津だけではない。
鳥羽伏見も、甲州勝沼の戦い、二本松、上野戦争など、
どの戦いも共通して幕府軍は無様であった。

 支配する領民の協力を得られず、
冷徹な視線を浴びながら
士分のみの孤独な戦いを強いられた。


 江戸時代の長所として
文化の熟成や教育水準、
進んだ治水・集約農業などをあげる向きもあるが、
度々起きる飢饉。
 過酷な年貢と小作制度。
人口の大半を占める小作農民にとって
江戸時代は地獄の時代だった。

 江戸時代の人口統計を見ると、
終始総人口は伸びていない。
 人口2700万人に達した途端、飢饉に合い
2500万人台に減る。
 飢饉が終わり徐々に人口が増えるとまた飢饉、
2500万人台に戻る。
 
餓死と間引きの人口減少。

 徳川家康公の発した言葉。
『百姓は生かすべからず、殺すべからず』
それが江戸幕府の方針だった。

 過酷な年貢や厳しい身分制度。
武士に許された特権『切捨て御免』のような理不尽。
やむに已まれぬ一揆でも死罪。
260年も虐げてきた支配層に対し、
一体誰が自らの命を投げ出すというのか?


『武士になりたい』との一念で結成した
新選組のような例外は、その後当然現れない。

 

 しかし列強の覇権争いが激化し、
侵略の意図から日本に進出してきた世情の中
神戸事件や堺事件が頻発する。
 
 不平等条約を強要され、国際緊張に晒された日本。

 外国勢力の圧力に屈しない強い国家をつくるには、
旧態然とした幕藩体制、
非合理的で非生産性に満ちた社会制度を
根本から変えていかなければならない。

 いち早く中央集権国家を打ち立てた
イギリスやフランスに習い
近代国家に変貌させなければならない。
 イタリアやドイツのように
いつまでも封建制度から脱却できない国は、
近代化が遅れ、活路を植民地獲得に求め
再分割の悲惨な戦争の渦中に
自ら飛び込む事となる。
 
 ましてやアジアの遅れた技術と
意識しか持たない国は尚更。

 日本はセポイの乱やアヘン戦争で負けた
インドや清国のように
植民地化されてはいけない。


 多くの民が笑顔で暮らし、
外国の圧力など簡単に跳ね返すことができる国家。

 退助は考える。

 不条理な身分制度を廃し、
誰にもチャンスの門戸が開かれた平等な社会。

 不平等条約を撤回させる強力な国家を造るため、
殖産興業、国民皆兵、富国強兵の実現。

 自由な言論、及び経済的生活の保障による
貧困からの脱却と幸福の希求。

 五箇条の御誓文の目指す精神を
推進する事こそ、自分のすべき責務であると
改めて思い、決意するのだった。



 戦争や国民皆兵を礼賛しているのではない。
当時の国際社会は弱肉強食のそうした時代だったのだ。
 生き残るためには強くなければならない。
そうした時代だったことに注意を払うべきである。


 その点で云うと退助はただの戦(いくさ)馬鹿ではない。
戦(いくさ)そのものより、
その後の手当を大切にしてきた。

 その結果、退助を慕っての
断金隊、護国隊などの結集。
日光の戦いを避け東照宮の文化遺産を保護して以降、
民衆の人心を掌握。
 三春藩の名誉を守る無血開城により、
その感謝の気持ちと
退助の人柄に心酔した者たちを中心にした
(後に表す)自由民権運動の活発化。

 そして会津藩では
敗戦後の傷ついた藩士の心情を慮り
名誉回復に努めた退助。
 またヤーヤー一揆に対し、
積極的鎮圧行動には出ず、
会津藩の旧役人を交渉の矢面に立たせ、
多くの要求を実現させた。

 その戦後処理の温情と対策に感謝し、
多くの会津人が土佐を訪れている。

 それとは対照的に、
(信じられない事に、)
戦争後150年以上経過しても、
未だに怨讐に取り憑かれている
会津人と長州、薩摩人。

 退助の戦後処理が
如何に卓越した行為であったかを
如実に物語っている。


 1868年11月17日
御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督
板垣退助は新政府より凱旋の令を拝し、
12月12日東山道総督府先鋒参謀
伊地知正治と共に東京に凱旋。
 一連の功績、
特に会津攻防戦での采配は
「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられ、
恩賞として賞典碌一千石を賜る。
1869年(明治元)1月 土佐藩陸軍総督に任命され、
家老格に出世、家禄600石に加増された。

 ただし、退助本人は出世や
俸禄の加増には興味を示さず、
江戸の妻、鈴、土佐の妻 展子に思いを馳せ、
凱旋再会後、妻たちに何と言葉を掛けようか?
 そればかり考えていた。

 凱旋の移動中は
退助にとって(妻たちとの対峙前の)
嵐の前の休息となる。

 特に展子の出迎えの反応が
怖いと思う退助であった。



    つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(24)

2021-02-04 16:08:21 | 日記


  








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  第24話 東北遠征

 菊、里、展子、鈴・・・。
退助の女性遍歴を見ると、
あるひとつの傾向がある。
 それは容姿ではなく、
退助に対する態度というか、
相対的な立場にあった。
 好みというより、
接し易さが重要なのだ。
 常に影のように付き従う
撫子のような女性は苦手だった。 
 それは上級武士出身の生い立ちと
親譲りの性質にある。

 退助の両親も、退助自身も、
身分の上下を厳格に守るような
人付き合いは好きではない。
 常に畏(かしこ)まれ、指示待ちの者は疲れる。
自分の意見や感じたことを
正直にぶつけて欲しい。
 退助に対し物怖(ものお)じせず、
何でもズケズケ言ってくるような性格。
 自分より強い立場で追い込んでくる女性。
 つまり最初の女性(ひと)、お菊に原点があった。

 女性に追い込まれると心地よいのだ。

少々変態じみて聞こえるが、
追い込むことで自分(退助)という男に興味を示し、
言葉のゲームを楽しむような
そんな時間を共有できる女性。
 そういう人を面白いと思う。
知らず知らず好きになる。

 でもそんな女性の好みを
当の退助は気づいていない。




 退助と鈴の簡易婚礼は滞りなく終了したが、
新居が決まっているわけではない。
 まだまだ江戸の治安は悪く、
そんな時なのに、すぐ遠征に出なければならない。
 本格的な新居探しは、凱旋後と云う事になる。

しかし何故深尾はこんな大切な時期、
強引に婚姻を推し進めたのか?
 
 それは退助がしばしば単独行動や
少ない供しか引き連れず、
危ない目に遭っていたからだった。

 指揮官としてあまりに自覚が足りない。
無謀な行動や、隙のある行動をとり過ぎる。
 まだまだ戦いは続くのだから、
もっと慎重に行動させるべく、
もう一人妻を持つことで
責任感を自覚させようとしたのだった。

 深尾の狙い通り、二人目の妻を持ち、
これ以降の退助は、鬼神のごとき
獅子奮迅の活躍を見せながらも
慎重に行動する司令官の風格を身に着けていた。

 深尾の策にまんまとはまる
実は結構単純な退助であった。

 そんな退助は休む間もなく迅衝隊を率い、
宇都宮戦争第二次攻城戦の援軍として遠征した。
それは江戸城開城以降新設された
『奥羽鎮撫総督府』という組織の新政府軍が、
第一次攻城戦で旧幕府軍に負け、
宇都宮城を奪われたからであった。

 壬生城の戦い、野洲戦争を経て
退助率いる迅衝隊は
ここでも当然のように
鮮やかな手柄を立て勝利する。

 宇都宮城奪還後、戦の舞台は日光に移った。
退助ら迅衝隊は、旧幕府軍の大鳥部隊を追う。
 その結果旧幕府軍と今市付近で交戦、
追われるように大鳥隊は徳川家の聖地である
日光廟を背に陣を張った。
 
 決戦準備を整えたその時、
日光山僧たちが退助のもとに嘆願書を提出した。
 日光東照宮を戦災にまみれさせないで欲しい
との申し入れである。

 退助は真摯な態度で訴えに耳を傾ける。

 そして日光という土地は
初代領主である山内一豊公を
土佐に封じた御恩を
何代も後に続いた豊信公が
未だ忘れていない事。
 そんな主君の意を汲み、
土佐藩の代表として敬意を表すべきである。
東照宮の文化遺産である建築や宝物を守りたい。
そんな聖地を戦災で失うのは愚かな行為である。
故に日光山を戦場にするのは是非避けたい
との思いを旧幕府軍の大鳥に向け使者を送り、
日光山を下山するよう説得した。 一方旧幕府軍は多数の負傷者を抱え
疲労も限界にある事。 また物資不足も深刻化していたため一旦下山し
会津での決戦を決めた。

これにより、日光は戦火を免れた。

6月10日会津藩・仙台藩連合軍が白河城を占領。
(第一次白河城攻防戦)
 退助の新政府軍の別動隊は、
長引く白河の戦いの間、
1868年(慶応4)6月24日(新暦8月12日)
僅か一日で棚倉城落城させ、
その後も続き次々と城を落とした。
 しかし注目すべきは
驚異的な退助の迅衝隊の動きで
棚倉の戦いの前、何と5月15日(新暦7月4日)
上野戦争に参加しているのだ。 時系列上、第22話の上野戦争が
先に紹介された形になり混乱するが、
宇都宮戦争から東北へと
戦場が移る間に上野戦争があったのだ。
(ややこしくてすみません。)
 1868年(慶応4)6月21日
宇都宮城の戦い、とんぼ返りで
7月4日に江戸にて上野戦争、
更に東北に移動、8月12日に棚倉城戦。

 まさに退助が率いる
迅衝隊や断金隊はスーパーマンであった。

9月2日三春藩、奥羽越列藩同盟を脱退。

その陰にはある人物の活躍があった。
 三春藩郷士河野広中である。
河野は棚倉城落城の知らせを聞くと、
退助率いる断金隊に赴き直談判をする。
 三春藩は東北の小藩。
石高5万石でしかない。
周辺の奥羽越列藩同盟への
諸藩の参加の動きに抗しきれず、
止む無く同盟に引きずり込まれたが、
元々勤王の志に重きを置く藩であった。
 河野は云う。
「奥羽越列藩同盟を脱退、新政府軍に加盟したい。」
そして三春藩の窮状と、
そもそも勤皇の藩であることを訴えた。
河野の言を聞き退助は、
「貴殿の申し出は嬉しいが、
それは仲間への裏切りではないのか?」
しかし退助の反応に臆することなく、
正面からしっかり見据え、
「錦の御旗に背く事こそ大罪であり
造反の極み。
 我らの意思は勤王にあり。
それこそが三春武士の本懐です。」
と言い切った。
 ここで退助の側近
断金隊隊長、美正貫一郎が執り成す。
「ひとりで訴えにきたその心意気。
この者、信じるに足る人物とお見受け致す。」
すると退助は、
「美正殿、あい分かった。
貴殿が言う通り、
ワシもこの者の胆力と誠実さを信じよう。」
かくして三春藩は戦禍を免れ、
奥羽越列藩同盟を脱退、
新政府軍への加入が認められた。
 そして河野達三春藩は
会津藩攻略のため、
最大限の協力を自ら買って出る事になる。
 

磐城平攻略を果たした新政府軍と
断金隊が合流。
 退助は高らかに宣言する。
「次の敵は三春藩!者ども進め!!」
三春藩の造反を列藩同盟諸藩に悟らせないよう
三春藩攻略の進軍のポーズを取り続けた。

 三春藩領に到着すると、
重臣たちが出迎えていた。
 互いに頷きあい、
かくして三春城無血開城は成された。
 これはあくまでも三春藩が寝返ったのではなく、
雄々しく戦ったがダメだったと諸藩に思わせるため。
三春藩の名誉を守るための心遣いだった。

 その後河野は退助と行動を共にし、
その人柄に惚れ、
自由民権運動の強力なメンバーとなった。
 
でもそれは別の話。



三春藩の案内にて徹底底抗戦にあいながらも
二本松城を撃破した。
 

進軍する度、味方を増やす退助。
いよいよ会津攻防戦に臨むのであった。

   

   つづく




こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(23)

2021-02-03 12:20:45 | 日記


 







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    第23話 また見合い

 

 まだ戊辰戦争の最中だというのに、
迅衝隊総督 深尾成質から信じられない言葉を聞いた。
 「妻をめとらぬか?」
思いもよらない申し出に、退助は言葉に詰まる。
「しかし私には国許に妻がおります。」
「そんな事は存じておる。
それを承知で言っておるのが分らぬか?」
分らぬか、と言われて少々ムッとする退助。
「何故今、私に別の妻なのですか?」
「お主は今や、歴戦のヒーローぞ。
土佐の期待とこの国の将来に
なくてはならぬ男になったというのに、
そのお主に未だ子が居らぬ。
そんなことで良いと思ってか?」
「別に。良いと思っております。
何故いけないのです?」
「お主は先祖の板垣姓を名乗ったではないか。
名門の誉れ高い板垣姓を名乗ると云う事は、
後々までの覚悟と責任が必要ではないのか?
今、後継の者を残さずして何とする。
離れて暮らすお主の妻に
子が儲けられると申すか?
 この戦で明日の身の存続も分からぬのに、
何を呑気に構えておるのじゃ?
 自覚が足らんぞ!!」
そう言われてはぐうの音も出ない退助であった。
「しかし私は、恥ずかしながら
妻の展子(ひろこ)を愛しております。」
「『愛してる』???このワシの前で
よくもいけしゃあしゃあと
その面(つら)で言ったもんじゃ!」
「この面?(手鏡を持つ仕草で)
あら、いい男!」
「何、ふざけて寝言をほざいておる。
たわけた事を言ってないで、
現実に戻ってこい!
次の戦(いくさ)が始まる前に
さっさと見合いのお膳立てをするから
そのつもりでおれ。
 これは国許の殿(容堂公)からの要望でもある。
話しは以上。」

 

「殿の要望?この嘘つき!!」
退助は思った。
 (殿がそこまでお節介を焼くか?
無粋を嫌う殿の事。
そんな気は絶対に使わぬはず。
大方、深尾殿の縁者から
娘を片付けたいので
誰か適当な者はおらぬか?
と泣き付かれたのであろう。)


 戦前(いくさまえ)の
駆け込み婚は聞いた事があるが、
戦(いくさ)の最中(さなか)、
敵陣中での見合いなど、
そんな非常識で破天荒な事、聞いた事無いぞ。
しかし弱った、これは断れない。
上官の深尾成質からの
謂わば強制的に近い申し渡しに
途方に暮れる退助であった。

 展子に何と言おう?
きっと大きな衝撃を受けるであろう。
出来れば傷つけたくない。
もう、口をきいてくれぬであろうな。
夜も共にしてはくれぬだろう。
しかしさすがに内緒という訳にもいくまい。
 何と書こう?迷いに迷う退助であったが、
 急ぎ国許の妻展子に
正直に見合いを告げる書を送った。

 退助からの手紙を受け取った展子は、
案外冷静だった。
 この当時、身分の高い者たちが、
何人もの妻を持つのは
当たり前の時代。
 夫の退助だけが例外と思う方が
身勝手な独りよがりと、
反対に非難されてしまう
女にとって悲しい時代なのだ。

 しかし悲しくない筈はない。
寂しくない筈はない。
 夫は戦場に出て、
もう何か月も帰ってこないでいる。
生きて帰れるのかさえ分からない。
 軍功なんぞ立てなくともよい。
立身出世なんぞしなくともよい。
 ただ無事であって欲しい。
私の元に帰ってきて欲しい。
 涙を堪(こら)え夫を送り出したが、
満面の笑顔で夫を迎えたい。
 浮気はするなと言って送り出したはずなのに、
まさか私以外に妻を持つ?
 今は涙に暮れても、
夫の前だけでは気丈でいよう。
 そう決心する展子であった。

 承諾の書を展子から受け取った退助。
一言「済まぬ。」と心で詫びた。

 数日後、どこから聞いたか
制度取調参与福岡孝弟が退助に皮肉を言った。
「退助殿に近々御縁談があるそうな。
おめでとうござる。
 国許の奥様もさぞお喜びの事でしょう。」

 福岡孝弟は古くからの因習、
特に多妻を許す権妻制度に反対を表明、
廃止を主張している。
 そんな孝弟だから、
日頃から自由と平等を標榜する退助に対し、
情け容赦ない追い打ちの言葉を放つ。
「退助殿の言う自由とは、平等とは、
男社会の為だけの志だったのですね。」
 反論できず、黙ってその場を去る事しかできない。
(フッ!所詮ワシもただの男。
情けないが、今は自己矛盾でも
受け入れざるを得まい。
孝弟に言われなくとも分かっておるわい。)


 3日後、退助は見合いの席に臨んだ。
相手は小谷善五郎が娘、鈴(すず)と云った。
 深尾成質の縁者であり、
今は江戸住まいという。
 退助の第一印象は、
チャキチャキの江戸っ子の正体を
取り澄ました見合いの着物という鎧に隠した
現代っ子の様だと感じた。

 ・・・しかし心惹かれる。
ハッキリ言って好みのタイプだった。


  だから男って・・・



 「板垣退助である。」
「小谷鈴と申します。」
「こんな非常時に婚礼話など
驚いたであろう?」
「はい、正直大そう驚きました。」
「ワシが何をしているかは聞いておろうな?」
「はい、勿論存じております。
とても偉い軍人さんだと伺っております。」
「フム、そんなに偉くはないが、
はるばるこの江戸まで出張ってまいった。」
「ご活躍は江戸中の評判でございます。
歴戦の勇士であられましょう。
 瓦版に描かれたあなた様のお姿とは
似ておらぬとは思いましたが。」
「そうか、似ておらぬか?
そもそもワシが瓦版?
どのように描かれておったというのか?」
「それは男前に。
まるで歌舞伎役者市川團十郎の様でございます。」
「歌舞伎役者か。
で?実際のワシと比べて、
どちらが男前であるか?」

「それはもちろん、市川團十郎でございます。」
「ははは、本人を前にして大胆不敵な答えであるなぁ」
「でもあなた様もご愛敬と、
どこか憎めない、人を引き付ける魅力を感じます。
 何故でございましょう?
何処となく、ほっとけない危うさと言うか、
母性本能をくすぐられるようなお方かと。」
「やっぱり和主は只者ではないな。
初対面の人物に遠慮なくそこまで言うか?」
「そうでございましょうか?
 私など、江戸のそこいらに無数に埋もれた
パンピー(一般ピープル)に過ぎませぬ。」

退助は、江戸留学の経験がある。
だから江戸の女の事はソコソコ知っている。
 で、その結論。
やっぱり江戸の女は恐ろしい。
そういつもズケズケと思った事を言われていたら、
こっちの身が持たぬではないか。


「ワシには既に国許に妻が居る。
それも知っておるか?」
「はい、それも存じております。」
「和主はワシの江戸での妻と云う事になるが、
それでも良いというのか?
不満は無いのか?」
「不満などございませぬ。
何せ私は団十郎に負けない男前の
貴方様に嫁すのですから。
 後世までの誉れになります。」
「さっき団十郎の方が男前だと申したではないか。」
「団十郎とは違った男前だと申しております。」
「あれぇ?そうだったか?」
「もう、男のくせに細々と・・・。
詰まらぬ事にこだわらず、
男らしく泰全と構えてくだされ。」

 初対面なのに、
早くも尻に敷かれそうな退助であった。

 再び戦(いくさ)に戻る二日前、
形ばかりの祝言をあげた。


   

     つづく