私達は物質の世界に住んでいる。
だから、たぶん私達のほとんどが物質におもむきをおいているように感じる。
でもあちらの世界では真心や想い…物質がない分そういうものに偏重する傾向があるようだ。
想いの純潔さ、純粋さ、想いの重さとでもいうのだろうか。
例えば、困っている人がいるとして、純粋に心から心配する人と、困ってて仕方ないからお金を出してあげる人がいるとする。
私ならどちらにもすごく感謝すると思うが、なんやかんや言ってもお金を出しているのだからと、お金を出してくれた人に恩義をすごく感じるかもしれない。
でも、あちらの世界の者はどうも違うようなのだ。
やはり肉体がない分、物質的な物がない分、感覚が違うのかもしれない。
果たして自分の想いの純度がどのくらいのものなのかは私達にはたぶん、きっとわからないと思う。
でも向こう側の者にはそれがくっきり色鮮やかに明確に観えているのだろう。
そういえば、前に亡くなった人が自分のいる世界の話をしてくれたことがあった。
私達の想いが大きなエネルギー体になって飛び交っていると。
だから俺のために祈ってくれと言われたことがあった。
その人はその時、まだ成仏できていなかった。
私はその時初めて祈りの偉大さを学んだ。
そして想いの強さを知ったのだ。
お金がたくさんあっても満たされないことを学んだ。
お金がなくても充実する満足さも学んだ。
心が平和で、楽しいと感じられて、優しい気持ちでいれる日々が本当の幸せだとわかった。
こころから感謝できる毎日がある贅沢さを学んだ。
自分らしく入れることが私にとって本当の幸せなのだと思う。
私達の中には再生、再創造することのできる充分な原子エネルギーがふくまれてることを思い出してほしい。
真の安心はものを持たなくてもできることの中にあるんだよ
多くの祝福が常にあなたを、そして今みつけますように…✴︎