隣の市に住んでいる末っ子の夫婦が
幼い三人の子を連れて突然やって来て、
元気な姿を見せてくれました。
五才の孫娘が仏壇の木魚を鳴らしている時、
お年玉のように熨斗袋を渡し、
お父さんとお母さんを大切にしてねと言いますと
ニッコリと微笑んでうなずいていました。
今は専用の小さな可愛らしい『盆玉』の袋があるそうです。
執着の愛と法愛
大毘婆沙論(だいびばしゃろん)第二十九 に、
愛にも二種あり、
一に染汚(せんな)愛はいわゆる貪(とん)なりと。
二に不染汚(ふせんな)愛はいわゆる信なり。
愛にして貪(とん)ならざるはすなわちこれ信なりとあります。
貪(むさぼ)らない、私心(わたしごころ)のない愛が『法愛』であり『大慈悲心』なり。
吾々は我と他が分かれていると認識していますが
本来は本々一つであります。
『我』と『他』は一体であると一切を捨て去り、再認識することが『和解』でありであります。
此の和解が『法愛』であります。
有情、非情すべての生きとし生けるもの、有りとし、あらゆるものと和解し、
手を繋ぎ合うことが真実の『愛』であります。
此の『真実の愛』に目覚めると無限がひろがり、
心穏やかな極楽浄土の世界が開けてまいります。
幼い三人の子を連れて突然やって来て、
元気な姿を見せてくれました。
五才の孫娘が仏壇の木魚を鳴らしている時、
お年玉のように熨斗袋を渡し、
お父さんとお母さんを大切にしてねと言いますと
ニッコリと微笑んでうなずいていました。
今は専用の小さな可愛らしい『盆玉』の袋があるそうです。
執着の愛と法愛
大毘婆沙論(だいびばしゃろん)第二十九 に、
愛にも二種あり、
一に染汚(せんな)愛はいわゆる貪(とん)なりと。
二に不染汚(ふせんな)愛はいわゆる信なり。
愛にして貪(とん)ならざるはすなわちこれ信なりとあります。
貪(むさぼ)らない、私心(わたしごころ)のない愛が『法愛』であり『大慈悲心』なり。
吾々は我と他が分かれていると認識していますが
本来は本々一つであります。
『我』と『他』は一体であると一切を捨て去り、再認識することが『和解』でありであります。
此の和解が『法愛』であります。
有情、非情すべての生きとし生けるもの、有りとし、あらゆるものと和解し、
手を繋ぎ合うことが真実の『愛』であります。
此の『真実の愛』に目覚めると無限がひろがり、
心穏やかな極楽浄土の世界が開けてまいります。
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