グルメストアフクシマのブログ

男鹿にある大正七年創業の
お肉とお惣菜のお店グルメストアフクシマ
(有)福島肉店スタッフのブログです。

船川の今昔 第一船入場防波堤とおばこ丸

2018-10-15 21:33:13 | 船川 今昔
こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。

道の駅男鹿 オガーレ(複合観光施設)のオープン、間もなくですね~♪…はぃ?ですよね、すみません(笑)
この出だしの下書きから5カ月、既にオガーレはオープンしその事についても書きたい事はありますが、
ますはこの記事の下書きも今更ですが完成、投稿します。

FBに年が明けたくらいに書いたのですが、
道の駅の駐車場の部分の整備が進む中で衝撃の発見がありました!
…埋まっていた防波堤が現れたのでございます!係船柱(ボラード)と、男鹿石の並ぶ様子(間知石(けんちいし)積み工法)が確認できますね!おーーーーってなりましたよ!


いやー本当興奮しました!
そしてもしかしたら、祖父が昔撮った写真の中に防波堤が確認できるものはないかなーと探したところ、出てきました♪
60年くらい前に撮ったこの防波堤やオガーレが建設された部分(海とその一帯)の写真も見つけて本当興奮しました!





僕は以下、これらの写真を見るまで知らなかったのですが、
船川発着の遊覧船が(オガーレの入り口くらいの道路わきに位置する所から)
昔は出ていたのですね。
▼おばこ丸



現在(オガーレ建設中・道路工事中の3月頃)との比較



そしてさらに興奮したのが、おばこ丸就航に関して 記録ではなく、人から直接情報を得られた事です。
それは、ひのめ市が行われた7月22日から一週間行われた
ふなかわなつかし写真展 (地域おこし協力隊の松野さん企画・主催)にて。

栄町 清水文具さんで。


この写真展、もっと告知してたら良かっただろ!という声もありましたが、
口こみでじわじわ話題を呼び、地元の方々がなつかしい写真をどんどん持って来てくれて展示が増えていく、という面白い現象が。
そして、なんと、おばこ丸をだしていた船長さんの息子さんがいらっしゃってあれこれお話を伺える機会もあったのでした!
おばこ丸の写真はうちからだしていたのですが、話題にあがり、喜んで頂いたようです(^^♪
その息子さんというのは、現芦沢町内会の副会長さんで、おばこ丸の船長さんはお父様だったんですね。
多くの地元の人がこれを機に知った事もあったようです。久々の再会もここであったり、
つながりができたり、ここでの交流も楽しく盛り上がったようでした。


これまで見たことも無い写真が数点、自分の中で謎だった事が、地元の方々との交流を通し
結構明らかになりました!
その発見も興奮だったけど、交流そのものが楽しくの期間でした!

噂には聞いていたけど、初めて見てこれか!てなったのが、
ソースかつ丼が美味しくて有名だったたのし食堂さんの写真、
昭和天皇陛下男鹿駅到着時に突風で帽子が飛ばされる一枚
元浜町がまだ浜でハタハタ漁で賑わっていた写真の細かい部分まで確認できる原版(?)、
船川美人なる紹介のある冊子、





(一杉堂さんより▲)

さて、ここからは、参考までにという情報の羅列ですが、
まずは、
▼毎度おなじみの古地図。第一防波堤、しっかりのってますね♪
鉄道友の会寄贈とありますが、実はもともとうちの祖父が持っていたもので、巡り巡って以前男鹿駅長をしていた方(同じく同会員)から市に流れたわけでございます。


▼築港はじめの頃 埋め立てのこの段階で既に築かれていたことがわかりますが、(左上)
正式な記録としては第一船入場は大正3年(1914年)に完成した防波堤とあります。


▼築港事務所(今の魁新報社さんの男鹿支局に位置)と奥に第一船入場防波堤

(市より)

▼地図


▼航空写真(昭和40年前後)
現在の市役所に位置していた旧船川第一小学校の校舎も確認できます。

(男鹿なびさんより)

▼旧男鹿教会のあった高台から 1920年ころ




▼中川氏寄贈写真 市から 現在でいうとオガルベからオガーレの方向


▼現在のオガーレのところ2 

▼ちなみにオガルベのところ、昔は中川氏の会社の事務所でした。駅方向。


この流れで書きたいのが、
中川邸からみた写真と昔の写真の比較、古地図を照らし合わせて分かった事、
海に浮かぶ線路は実際どんな感じだったのか地元の方に確認して分かった事など。
また、「しかく」といわれていた広場、保量川の海へ抜ける部分の写真もわかるものがでてきたのですが、
盛沢山なので、次の記事でまとめたいと思います(^^♪

追記 おまけ
今はオガーレのはじにうつりました当時の踏切


船川築港100周年 2 中川重春氏~元浜町 三角広場

2011-08-11 01:06:52 | 船川 今昔
こんにちは、コロッケ・ハンバーグのグルメストアフクシマです。

築港100年 vol2前回の続きです。
topにあげた写真は男鹿線から海側のまだ文化会館も立つ前の船川です。
文化会館入り口にある興味深い建設図とは

かなり大きいので直接ご覧になることをおすすめ致します。 

歴史に関しては堅苦しいので(でもとても面白いです)文字は少なく
写真をメインに簡単にアップしていきます。

明治終りの何もない船川港から大正初期、当時の人達はどういった事を考えていたのでしょうか。

▲築港から約20年で(この写真はだいぶ後です。)
外国との貿易をするまでに至り国の備蓄基地が建設されるまで急スピードで整備され続けます。
背景には最初の男鹿市長 中川重春氏の活躍があります。
様々な面からお話を耳にした事がありましたが 秋田稲門会 からの文面は裏事情も読めるなかなか面白い記事です。

『男鹿が生んだ英傑「中川重春伝」(渡部誠一郎著)を読んでいたら、「早稲田大学同窓会秋田支部」の名前を見つけた。
 対岸貿易の夢に燃えていた中川重春は当時、23歳。事業欲溢れる中川青年は、火力発電を選び、船川電気の設立を思い立った。ところがなかなか思うようにいかず、窮状を大隈総理に訴え、頂上作戦で問題解決を図ろうとした。
 早稲田に学んだ重春は、天下も大隈、秋田も坂本知事となり、我が世の春の思いだった。早速、坂本知事の了解を得て、早大出身の井上広居代議士(後秋田市長)に相談した。 そこで、大隈首相に面会を求める口実として、重春を「早稲田大学同窓会秋田支部」の代表に仕立てて、カバ張りのステッキを贈呈するという方法をとることにした。
 これによると、秋田稲門会は大正3年、86年前に設立されていたということになる。
 ともかく、早大出身の重春青年は先輩諸氏から金を出してもらい、ステッキを作ってもらった。ところが無一文の重春は東京までの旅費がない。そこへ新婚間もない妻光代さんが、嫁入りの際に持参した晴れ着を全部タンスから出し、「これを売って旅費を工面してほしい」
 山内一豊の妻ならぬ女房の援助のお陰で、重春は京都の八木別荘で大隈総理と面会できた。重春が恭しくステッキを贈呈した。すると大隈さんは、ステッキをクルクル回しながら「井上広居君は元気かね」と東北旅行の追憶談に及び、尽きることなき雄弁に(とうとう船川電気の件を)陳情する糸口がないまま、引き下がざるを得なかった、とある。』              
『夢とロマンの早稲田人、中川重春は、昭和38年73歳で逝かれた。
中川重春の葬儀には、早大名誉教授、横手市出身の平田富太郎先生からメッセージが届いている。
「先生は男鹿が生んだ一代の英傑。とりわけ船川築港、対岸貿易の開拓振興は圧巻であり、秋田の歴史に不滅の足跡をとどめられた。その行動と実践の礎となっているのは大隈重信の三訓、すなわち理想なきものは滅ぶ、進まざれば退く、あたわざるにあらず、勇なきなりーである。早大の一後輩として先生を深く追慕する」』

というもの。初めてそういったやりとりがあって現在の男鹿があることを知りました。早稲田とのつながりもある、というのは何も考えずに卒業した私でもますますやらなければ、と勝手に変な使命感に溢れ燃えるのでした。それぞれの母校を愛する精神で先人から学び地域を愛し地域を創る、とありましたが理屈では分かってもこれまた現実に感じとって学ぶ事は今の数百倍は勉強と行動が必要です、それゆえもっともっともっともっと真摯に学び真摯に経営に向き合わなければと思うわけです。
…脱線失礼しました。
さて、
裏の中川公園はこの中川重春氏の「中川」ですがいまだに中川邸跡があるのも面白いです、父や祖父からも聞いていた中川邸の話はとても興味深く個人的にはこの市役所の裏の中川公園と山と旧邸宅が観光資源になったら良いな、とも思います。


▲約30年前の船川。

▲拡大したものです。整備される計画段階からあったこの当店の前の三角形地帯。
そして元気な福島肉店の姿も航空写真におさめられております。


▲昭和30年代 の当店前、三角広場 砂地で広く、船川の祭りはここで規模も大きく開かれていたようです。盆踊りや仮装もすごかったみたいです。

▲同じところから現在。上の写真から約50年。

▲祖父 肉屋でありながら交通指導隊に選ばれ夢中だったようでこのような姿です。
三角広場の三角のさきっちょらへん。

▲現在の三角形のさきっちょらへんから元浜町をとらえる。2011年8月10日

▲別の角から 2011年8月10日

▲もひとつ別の角から 2011年 8月10日


▲昭和30年代の当店前から伊藤時計店さん

▲当時のアルバム。昔の写真はたくさんあって、船川の写真も面白いのが結構あります。

▲50年前の現在の男鹿市役所に位置していた船川第一小学校。

鉄道の記録もたくさんあります。祖父は鉄道好きで国鉄関係者としても様々な記念イベントで招待されていたようです。
以下 男鹿のものをメインに。

▲SL運転席から見る男鹿駅到着シーン 昭和30年代。

▲男鹿駅停留中のSL。立派ですね。

▲築港が進んでいる様子も少し見えます。

▲ 今の子供達が生まれた頃には既に存在していたローソンも 花火会場も みなと病院も 文化会館も プライウッドも まだ何も無い頃の船川港、すがた青果さんの手前あたりからの撮影です。

▲ TOP 男鹿駅からすぐでた泉台付近より。

▲展望台が立つ前の寒風山も見える 羽立踏切より。

▲八郎潟干拓前の貴重なSL船越~天王の橋をわたる。
男鹿線、SL、特急電車、新幹線の写真もたっぷりあります(笑)
鉄道や乗り物好きな血があるのを感じます。

「わたしたちの男鹿」という小学生中学年で配られた教科書からも
船川の歴史を学べます。
築港以前のルーツを探ると脇本城、安東氏、菅江真澄の道へ入ります。
非常に面白いです。
三角形地帯はどうしてできたのか、故意に作ったのか、はみ出しものなのか、
この謎も解いていきたいです。
現在の状況(客観的数字のデータ、例えば高齢化率30%以上の超少子高齢化+過疎化+様々な好ましくない事例)をもとにどうのこうの、と考える事も多々あるのですがこれはまた後ほどアップしたいと思います。
いずれにしても 「笑い」 があれば良いと思います。
笑う港には福きたる!

船川築港100周年  1

2011-08-10 07:18:06 | 船川 今昔
こんにちは、コロッケ・ハンバーグのグルメストアフクシマです。

私達の住む船川が築港されて今年で100年 
※ちなみに「開港」は昭和5年、西暦1930年なので
今年で81年目、「築港」されたのが100年です。間違った表記も多々ありますのでご注意ください。

100周年記念事業として、様々なイベントが展開されております。例えば4月30日にはドキュメンタリー映画「里湖~八郎潟物語~」が男鹿市民文化会館で放映され(11月大潟村でも予定されております。)、他ブッダ、また船川丸の一般航海、ブルジョワ客船飛鳥Ⅱの一般船内見学会、今月は帆船「日本丸」や北前船「みちのく丸」の寄港などがあります。

男鹿の様々な事業者の方がイベントに合わせ出店し少しにぎやかな船川となっております。
夜は帆船がトンネルを越えると綺麗に見えて、何事かと寄港した夜早速見てきました。

日中の帆を広げた日本丸の姿は素晴らしいものでしたが

夜もまたいとをかし。
さて船川の歴史はとても面白いです。
そもそもどうしてこの地が港町として栄えたのか、
3月11日 美女のお寺の住職さんから船川の歴史を学んでいた最中でしたので自主授業再開です。
船川は男鹿半島のつけねの南西に位置し、その地形的条件から波浪が少なく、古くから天然の良港、「風待ち港」「避難港」として利用されていました。
明治40年から本格的な測量調査が始まり、明治43年に港湾調査会により第2種重要港湾に指定され、明治44年から本格的な築港が開始されました。

昭和5年(1930年)に5千トン岸壁が完成し、外国貿易港の第一歩を踏み出し、
昭和26年(1951年)には港湾法の制定により重要港湾に指定されました。
昭和57年(1982年)には石油国家備蓄基地の立地が決定し、国家エネルギー備蓄基地として現在に至っています。
どのように築港されたのか、興味深い資料が現在文化会館に資料展示されております。

図書館でも船川の歴史に関してはたくさん資料があり確認できますが、入ってすぐある大きな建設図面は、
そうそうお目にかかれません。すごいです!!このようなものは初めて拝見しました。
その当時の図面に現在の船川の地形が赤いラインで示されております。
地味ですが アート でもある、非常に価値の高いものです。

その様子や
現在のお店があった場所がなぜ元浜町なのか
三角形の広場のうつりかわり等、祖父や祖祖父の撮った写真も交え
次のブログに続きます。