こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。
SLおが の記事の続編です。
祖父(2代目福島基良)の写真が今回の企画のホームページや旧男鹿駅でSL写真展として展示されているという旨を前回書きましたが、
JRさんともやりとりする中で、改めて知った事も結構ありました。
以前も昔の事に触れる際、何度か小出しにしてきた昔の写真、
改めてこちらのブログ記事で、祖父の撮った昭和30年代のSLの写真(男鹿ー秋田のものに限る)
をご紹介したいと思います。
▼まずは、ホームページやチラシの見出しにもなった、C11の入る船川駅(男鹿駅)構内の写真です。昭和30年5月の撮影です。
▼JRさんのページより
タンク型が10両を引っ張ってたのかー!と改めて思ったのですが、テンダーかどうかは、馬力もあるとは思いますが問題は距離なんですね。船川駅構内に貯炭場(石炭置き場)もあったので、距離としても秋田往復は問題無かったんだろうなーと推測。今の新男鹿駅はこの写真でいう奥にあるわけですが、旧男鹿駅舎の輪郭もこの時から変わってませんね。
残しておいてほしい昭和のかほり、国鉄のかほりのする建物の一つ。
▼羽立駅を出てトンネルの方へ向かう 昭和40年代 気動車 ディーゼル 昭和30年代には船川線にもディーゼル車が登場。後述しますが、昭和37年にディーゼル機関車DD51の1号機がここを走ります。
▼下新城 昭和30年 同じく男鹿線 C11 244 10両編成 ちなみにC11 242 の写真もちらちらでてきます
▼脇本 昭和31年 バックに寒風山
▼D60 貨物用テンダー 土崎工場から秋田 昭和30年~昭和31年頃
D50の改造 ナンバーから浜松とわかる。土崎工場でも同じようにD60がD50からつくられてました。
▼C51 昭和36年頃 手前二人は、3代目福島基秋と幼馴染の森山しんじさん(妻寛子の叔父にあたる)
しんじさんもまさか姪っ子と幼馴染の子が結婚するなんて予想できなかったでしょうに。。
ちなみに僕は幼少時、森山歯医者さんで大泣きの連日だったそうな(笑)
C57 シゴナナや貴婦人の愛称も テンダー(炭水車)にかかる屋根の具合いいなー。
▼C57 昭和32年 下新城
▼C11 昭和32年 現在の男鹿なびさんの裏手の高い部分から
男鹿駅構内 昭和 32年6月 船川駅構内
▼「船川駅の海側のスペース 「しかく」と呼ばれていてみんなここで遊んだり、運動会も行われたそうな。
奥に現在の漁港や備蓄基地の方の築港が進む様子も見える。
▼おなじく「しかく」 こちらは寒風山がバックで海沿いの道路がまだなくてみんな茶臼峠を通って脇本に出ていた時代
この堤防で釣りをしていた方もたくさんいたそうな。写真の手前側に石炭置き場があった。貯炭場ですね。
▼前回にも登場、祖父が所有していたこちらの古地図。現在以前駅長だった方が男鹿市に寄贈したという事で、
市の資料としてもよく出てきております。
この古地図をトリミングし拡大してみると、「しかく」のはじ、船入場の堤防側に「貯炭場」とあります。
▼そして、この貯炭場どんな感じだったのかを見つけました!船川港港湾事務所から 発見された築港当時の貴重な写真 土木学会さんのページより閲覧ダウンロード可能です。写真真ん中あたりの盛り上がったところが貯炭場ですね。
▼さらに拡大する
貯炭場の防波堤がそのまま第一船入場の防波堤と伸びていますが、それらの写真も見つけましたのでこれものせます。
▲父の友人
道の駅男鹿 オガーレの建設で、駐車場を作る際に一度は埋められたこの堤防が顔をだしました。現在確認できます。
駐車場と海側の道路の間にあり、最初でてきた時はそうとう興奮しちゃいました(笑)
▼この防波堤から撮った写真で、当時は遊覧船も運行していたんですね。おばこ丸!
オガーレの駐車場になっている部分の写真ですが、おばこ丸の位置が、駐車場の入り口くらいかな。
これくらいにしておきますが、土木協会のページにいくとこの第一船入場ができるまでの様子や漁協の様子、
防波堤の記録も確認できます。
▼当時の地形図も参考にのせておきます。 5万分の1
作成したのは当時の大日本帝國陸地測量部で、極秘、秘 という文字が入っていたり扱いも一部のみだったそうな。明治20年代から昭和10年頃に作成されているという事ですが、築港の進み具合から判断するに、昭和5年以降と推測できます。今は自由にダウンロードできます。スタンフォード大学のブラナー地球科学図書館を中心に地図の調査やスキャニングが進められているそうです。スタンフォード大学 日本地図 とか古地図 で検索するとでてきます。
地図を眺めながら…最も大きな違いはやはり八郎潟がまだ干拓される前なわけで、大潟村も存在しない時代。なんとも不思議。琵琶湖に次ぐ大きさの八郎潟、どんな景観だったんでしょ!
シーサイドロード(と呼ぶ人はほぼいないけど現在メインの船川ー脇本を結ぶ道)もまだないので、茶臼を越える船川街道がメインロード。
▼男鹿線(当時は船川線ですね。)のマップも当時のものを見つけました!
地名、廃線、また存在しないライン、変わらぬ部分、様々面白いですよね。
話の脱線ついでに、男鹿駅の今昔の比較したものも▼
▼八郎潟鉄橋と呼ばれていた大潟村の干拓が始まる前 正式名は八郎川橋梁
船川駅より港側に船川港駅があり、石油等を運ぶ貨物車が船川港駅まで運ばれていました。
男鹿線の写真の定番スポットにもなっているこちらの鉄橋
今は船越鉄橋と呼ばれていますが、現在の橋とこの当時の橋とで異なる点が多くあります。
まず、位置。高さ。つくり。…へーそうなんだ、という方と、なんだってー!!!マジかーーーー!!!となる方と分かれると思いますが、僕みたいな後者の方必見な貴重な記録も祖父は残していました。
何のことかというと、鉄橋の新旧切り替え工事や、試運転、式典の様子です。
▲雪ののった寒風山…冬~春の時期だったんですかね。まだ展望台も無い時代。
左のが新 右が旧。
▼天王側 自性院さんも今と変わらない輪郭で確認できます。
この鉄橋の工事の記録写真だけでも結構な枚数があります。
両脇には船越駅と天王駅がありますが、船越駅を出て天王側にレールは緩く右にカーブし、鉄橋に入るあたりで微妙に左に曲がっているのは、この旧新切り替えの名残ですな。
道路と線路の間にも三角地帯になって余っているようにみえるスペースも確認できます。
昭和30年代に入って八郎潟の干拓工事が始まり、これまで漁等で行き来していた小船では問題なかったのですが、工事の船を通すには難しく、現在の橋に架け替える事になったそうです。完成は昭和38年(1963年)
八郎潟の干拓工事が本格化する年とも重なります。この架け替えと大潟村も切り離せない話なんですなぁ。
ちなみに新しい鉄橋は、エレベーター式に橋が上昇し、高さのある船も通していたようです。
面白いのは、ここに写っている鉄道関係者、工事関係者の孫達が知り合いだったり友人だったり世代を越えてご縁もあるということ。
さて、話はSLに戻りまして
前述した「貴婦人」や「シゴナナ」の愛称があった C57
デゴイチ こと D51様
▼昭和32年 追分駅構内
▼当時の「昔」のSL 博覧会
▼最後に 船川駅構内 出だしの写真と同じタイミング 角度が少し違うC11の一枚
ありがとうSL!
試運転からの一週間余り、新たに教わった事も多々あり、改めて調べて学んだこともあり、濃厚な時間で楽しかったです!
②の次に保量川と海を結ぶ泉台の橋のとこの話 と予告しておりましたが、
今回はDLおがでもありましたので、次の記事でディーゼル機関車や昭和天皇陛下のいらした際のお召列車、特急つばさと特急白鳥の秋田駅同時発車の様子ものせておこうと思います。
以上 2代目 福島基良 の昭和30年代の写真と 付随する資料でした。