人間は常に他人を評価・区別して生きている。仕事でも恋愛でも遊びでもスポーツでも、何から何まで「比較する」ことをやめない生き物だ。社会において自分の立ち位置を知ることは、組織の中で上手く生き伸びていくための方法である。だが我々が目指すことは生涯「ずーっと他人に打ち勝ち続ける」ことなんだろうか。物事には絶対的評価と相対的評価の2つがある。他人と自分を比較してどちらが上か、というのが相対的評価。もう一方は一つの理想像を追い求めて、それにどちらが近づいているかを比較するのが絶対的評価である。相対的評価の世界でしか生きていない人は(格闘技などに象徴されるように)、相手を倒すことによってしか自分を表現出来ないわけだ。宮本武蔵は生涯60余度にわたる試合で相手を文字通り倒すことによって、自分の剣が一番強いことを世に知らしめた。
しかしこのやり方では、いつ迄たっても「現時点で一番」という条件が付いての評価であってゴールが無い。AとBを比較して優劣を決める方法では、常に戦う相手(しかも相当強い相手)がいないと、答えが出ないのだ。しかも、いつなんどき新しい挑戦者が現れて、逆に自分を倒さないとも限らない。だから、強いという評価を「安穏として心楽しむ」ためには、相手の出現に「頼らない」で最高の評価を獲得する必要がある。それが「絶対的評価」である。
相対的評価がオール・オア・ナッシングであるのに比べて、絶対的評価は独立した評価基準が「競技者の外」にあって、挑戦者の努力の結果が「どれだけ理想に近いか」という形で評価される。つまり、自分と「ターゲット」との戦いであり、試合の「直接の対戦相手ではない」ことが特長である。勿論試合は相手との戦いであるから、戦いの中で非情になることもあり、駆け引きだって当然出てくる。だが究極の目指すところは単なる勝ち負けが目的ではなく、むしろ「理想の戦いが出来たかどうか」という一点に集約されるのだ。その典型的な例が私の愛する「ゴルフというスポーツ」である。ゴルフは自然との勝負だと言われているが、これなどは正にゴルフの本質を表しているものと言えよう。
勿論、ゴルフにはプロフェッショナルな試合が存在し、相手とスコアの多い少ないで優勝を争うスポーツではあるが、本当のプレーヤーの喜びは「自然の気象条件をかいくぐり、設計者の意図を知った上でそれを克服して」ベストスコアを出すことなのだ、というのは昔から言われていることである。その喜びは何にも増して大きいものであり(アマチュアの場合)、楽しんでいる同伴競技者も「その喜びを分かち合う」ことが出来る素晴らしいスポーツだと思う。だからフィールドには勝者しかいなくて、全員が会心の満足感を味わうことだって充分あり得る。プロスポーツにおいて、最高の一打には敵味方関係なく惜しみない拍手が送られるゲームというのは、そうそう無いのではなかろうか。これこそ、ゴルフが「紳士のスポーツ」と言われる所以である(ゴルフ好きの私の、ちょっと自画自賛かも)。
つまり、これは皆が「絶対的評価で見ている」からこそ、自然と生まれる日常風景なのだ。これが争いごとに巻き込まれることなく、全員が幸せに生きていく秘訣である。素晴らしいものを素直に素晴らしいと認めると同時に、私もその喜びを得られるように努力しよう!、と考えるのだ。素敵なことである。
では、普段の生活にこれを応用するにはどうすればいいか?。簡単である。日々何かを評価する時に、自分の評価・判断は「相対・絶対、どちらなのか?」を考えることである。そうすれば、自分という人間が「どんな人間か」も段々と分かってくる。人間は己を日常的に実際より高く評価し、他人を低く評価することで「相対的地位のアップと自己満足及び自信」を保とうとする生き物である。それが生きる支えになっている人も少なからずいるだろう。だから知らぬ間に、人のやることにすぐ「大したこと無いよ」と言ってしまう「悪口病」に冒されている人が、実は大勢いる、という社会状況が生まれてくる。
今の時代、人々は、社会における自分の評価を上げていかないと、「誰も注目してくれなく」なっていき、社会の底辺に埋没してしまうのではないか、という恐怖から逃れられないからである。これは言い方を変えれば、近頃よく聞くようになった「承認要求」である。生きていくためには、みんなに「いいね」と言ってほしいのだ。そして「いいね」をもらうために一番簡単な方法、つまり「失敗者叩き」を始めるのだ。
こういう負の連鎖に陥らず、社会全体で幸せになるためには「絶対的評価の習慣」を身に付けなければいけない。もし何かの評価を振られてあなたがその事に興味がなかった場合、ついつい「そんなのくだらないよ」とディスってしまいがちだが、そこは一旦呼吸を整えて、「へぇーっ、そうなの?。私にはよく分からないけど・・・」、と曖昧に濁すのが正解だと思っている。どんな話題でも話の中心に居続けようとするのは、ある意味「立場・序列にこだわる」人間の集団性の表れかもしれない。どんなグループでも何度か集まって会食などするうちに、自然と一人の人が MC 的役割を担うようになってくる。話題提供者でもあり、話を回すのが上手で場を盛り上げ、最後にグループの意見をまとめる進行役も兼ねるのだが、意外と難しい面もあるようだ。相対的評価をなくし、絶対的評価を身につける秘訣はどこにあるのだろうか?
そこで私は簡単な判断基準を考えてみた。
何か「人の能力」を比較判断する際は、
① 初心者のレベル・・・楽しんでるね
② 中程度のレベル・・・上手いじゃん
③ 高いレベル・・・最高だ
と考えるようにするのである。
この場合の判断のポイントは、「下手」という言葉を絶対使わない事。下手というのは標準より悪いという意味であり、「落ちこぼれ・足手まとい」という排除の動きにもつながる最悪の判断だからである。これは、対象者を下手と言うことで「自分より下」だと序列の下位に落とし、逆に対象者を上手と言うことで「自分を評価者の地位」に押し上げ、一種の監督者の立場に変化させる技術と言える。これは最終的には、グループを相対的評価の中に固定していくことであり、絶対的評価への道を閉ざしてしまう。これが一番簡単なグループの統率の方法であり、今でもスポーツの世界では、チームをまとめるための方法として、日本中で広く行われていると思われる悪弊だ。根本は、相手を下手と言うほど「自分のレベルが上がる」というのは単なる勘違いだ、と言うことである。本当は、競技相手は共に理想を追い求める「仲間」でなくてなならない。
以上、日常的に相対的評価に陥りやすい人間の習性から抜け出して、絶対的評価を自分の判断基準にするための方法を書きました。思いつきから書き始めたのですが、長くなってしまいました。また新しく考えがまとまったら、その都度書くことにします。
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