こないだ何処かの公共図書館がツタヤとの契約を破棄した、とニュースで読んだ。何でも、公共図書館に相応しくない図書を蔵書に選んでいる、と言う理由のようだ。詳しい事は分からないのでニュースをちょっと見ただけでは何ともコメント出来ないが、これを機に本屋と図書館とどう付き合えばいいか考えてみた。
いつものようにセオリーに則り、思考をロジカルに進めて行くことにする。考える順番としては以下の通り、
(1)本屋の種類と役割
(2)図書館の使い道
(3)雑誌と本の違い
(4)本を買うことの文化
(5)ライフスタイルとしての図書館の未来
では、ごゆっくりどうぞ。
(1)本屋の種類と役割
私が本屋に行こうとする理由はいくつかある。1. 目的の本を探しにいく 2. その他の本のチェックと雑誌トレンドの確認 3. 暇つぶし、などがある。もちろん一番多いのが 2. のその他の本のチェックと雑誌トレンドの確認である。本屋は一目で「本の今」が分かる。通販(私はAmazonしか知らないが)の画面では 1. の目的には都合が良いが、ぶらぶらしながら眺めるという無目的だと全く無差別に、大小がリサイズされて入り混じって表示され、商品としての紙質を含めた作品としての価値がイマイチよく分からないし作者のテイストのようなものが感じられないので、私は 1. の目的の本を買おうかどうしようかという時しか利用していない。それも中古本は、残念ながらまだ買ってない。本は私にとって新しい世界との出会いでもある。だから、先に誰かが手を付けた残りというか先に読んだ人の存在が何となく感じられて嫌なのだと思う。だが買ってみれば案外気にならなくて済み、値段も安いし言うことなし、かも知れない。先ずは買ってみることだが、今はお金に困っていないので別に中古品を買う必要もなく新品を買っている。中古品は安いという以外は何の価値も無い。但し、それしか無い時は別である。私は今のところそのような状況に追い込まれていないのでわからないが、探して探してどこにも無い本がAmazonで見つかったりしたら、小躍りしてレジをclick!するだろうなと思うと、ポリシーというほど大してこだわっていないようだ、もちろん、探す段階で中古品かどうかなどは気にはしていない云々、、、何をグダグダ言ってるんだ!とのお叱りが来そうなので先を急ごう。
とにかく私の本屋の基本は帰途の最寄の大きい本屋でぶらぶらし、場合によっては二、三冊買ってホクホクして帰る、である。これは本を読むより数倍楽しい。例えて言うなら馴染みのバーの女より、ふらりと寄ったキャバレーで超モテモテになった心境か。人間なんであれ新しい方が期待に胸も膨れてパンパンになるのは理の当然、手に入れたばかりの「新物」を読み切った時の心躍る何とも言えぬ一段高みに上った自分を想像すると、自然と足取りも軽くなるというものだ。
従って本屋は、本を買うという行為によって作品と作者を自分のものに出来る、と勘違いさせる究極の妄想空間である。私はスタンダールのパルムの僧院を「買って」帰ることができるのだ、あのスタンダールが「私の物」になったと想像するだにワクワクする。洞窟の小枝理論?である。いつ読むかは別にどちらでも良い、所有することが私の悦びなのだ。
(2)図書館の使い道
というわけで本屋の楽しみは分かった。では図書館に行こうとする人は何を求めているのか。本を読みたいから、というのでは余りにも問題意識がなさ過ぎる。考えられるのは 1. お金が無いので仕方なく図書館で借りる 2. お金を掛けるほどでは無いが本を読むという環境が整っている 3. 本屋で売ってない古い本や稀覯本または特殊本を見つける為 4. 研究の為に沢山の本を抜き読みするか参照するので買う必要は無い などである。つまり、所有する悦びは最初っから許されてないので、自然と内容重視にならざるを得ない。
1は、昔でいうと苦学生だが、今は余りピンと来ない。今の貧乏な学生は勉強はしてるだろうが、必要なものは参考書類で書き込みもするから図書館向きでは無いと思うし、いまは減っているのではないかと思われる 2は、純粋に読みたい人で所有することに興味が無い場合または、子供に本を好きになってほしいという教育熱心な親が先ずは環境から本に慣れさせようとする場合で、いずれも図書館の本来の目的に合った人達である。 3 は余程大きな図書館でないと役に立たないし、私はそういう場合は国会図書館を利用しているが、しかし地方の人などは無理であろう。利用出来る環境の人はせいぜい利用すると良いと思うが特殊な用途と言える。むしろ神田辺りの中古本屋街を歩いた方がそれぞれの店で特徴を出しているので探していても楽しいかも知れないが、図書館の用途からは外れるので除外する。何れにしても少数派である。4はもっと少ないかも。大学教授や本を書く職業の人で売れている人は自分で買うから一部の出版関係者やアマチュア文学者などが行くのだろうと思うが、対象範囲が専門的過ぎるのでこれまた小さい図書館では役に立たないし、彼等には時間の制約はないだろうから国会図書館で十分である。そうなってくると国会図書館のキャパシティが心配になるが、もっと専門的なプロ仕様の図書館にしても良いかなと思う。本を読むことを愉しむ人は別の図書館に行ってもらい、国会図書館は研究者や大学教授や出版関係者またはプロの文筆家のみにするのである。やってみれば混乱もなくスムーズになると私は思うが、差別だとか権利の制限だとか騒ぐ「何でも平等」派の人が民主主義を掲げて抗議行動に出るやもしれない中で、また一悶着あるであろう。実態を離れた理論のみの民主主義というものは存在しないのだが、わからない人はいるものである。
結局、現在は図書館を利用している人は多種多様になっており、図書館側がそういう状況について行ってないのが現状である。
(3)雑誌と文学の違い
ここでちょっと横道にそれ、本の種類について考えてみよう。今や雑誌全盛の時代である。つまり、話のネタ本である。媒体を抜きにすればテレビのワイドショーも含め、同じ様な内容で競い合うように発売される。いや話がロジカルでなく申し訳ない、同じ様な内容で何を競い合うのだと言われれば仰る通りで私も困っている。しかし世の中には神田の古書店街のような同業者の集まりがある如く、総需要があり細かいところで差別化がされているなら、より顧客に取っては量的にも質的にも選択肢が増え足を運ぶ気を起こさせるようである。ラーメン通りや焼肉激選区なども、顧客の囲い込み奪い合いの毎日を生き残ってるだけに魅力にも一段と磨きがかかって、エリア全体の底上げに貢献しているのだろうと思われる。雑誌のような、読み捨てで内容だけの所有することを全く要求していないものについては、ネタの新しさが全てで、もともとの価値もそこにある。週刊誌・月刊誌・季刊誌、どれでも基本的には皆同じネタ本である。だからむしろ、本屋で売るものではないと言える。新聞と聞けばネットのニュースアプリを思い浮かべる時代、そもそもデジタルの原稿をアナログの紙に印刷して販売店に配送して手間暇かけて売って、挙句に売れ残って回収して、、、新聞とは何をやっているのか分からない事業である。さっさと廃止してネット配信に切り替えた方が良い。紙の手触りが安心感があるとか、喫茶店で広げて読みながら飲むコーヒーが堪らないとか、毎朝届くので地域のコミュニティ作りに役に立つとか、全て「新聞」本来の目的とは異なるものである。テレビ民放の如く広告媒体として読者には無料で配信する、という時代に早晩なっていくと私は思う。広告もテレビ的になり、15分毎に全画面表示広告が10秒間流れる。広告カットには月額料金を取れば良いが、無料で広告を流されるほうを選んでも顧客はそれ程不快感はないだろう、何しろ今の世は何でも広告とセットなので驚くほど無関心だからである。それでも少なからず刷り込まれているので広告料を払う価値はある。新聞がテレビに敗れたようにテレビが今やソーシャルメディアに敗れる時代、少しづつニュースの概念も変わりつつある。因みに私は1度も新聞を取った事がないというのが自慢である。
話を戻すが、雑誌は本ではない。では実用書はどうだろう。「手芸の楽しみ8月号」とか「ヨーロッパの歩き方・ローマの泉編」とか「脳梗塞の予防」とか、いわゆるhow-to本が山のように並んでいて結構な売れ行きである。私はこれも雑誌に入れている。言葉を使っているが目的は大概言葉でない方が分かりやすい。例えば「100が切れないゴルファーのしている残念な事」を例にとれば分かると思うが、余程ビデオの方が頭に入ること請け合いである。だが如何せん値段がバカ高いので手が出ない。ラウンドにかけるお金からしたらどうって事ない値段だと思うのだが、私の知人にも頑として他人の意見を聞こうとしない猛者がいる。だが彼は80台で回ってくる(こともある)のであながち間違っているとは言えない、が、無料でプロの技を盗むのは大得意である。だから実用書の類は全部ビデオ化してしまうのが正しい、これ私の提案です。
さて、実用書・辞書・語学本・宗教関係・学習書・参考書・コンピュータ・iPhoneハウツーなどなど、全て雑誌その他というカテゴリーに入れて問題ないかと考えます。誰もこのような本を「味わう」つもりで買う人はいないであろう。尚、コレクター本がどっちつかずで悩むところだが、読み捨てるものとはまるで違うので一応本屋の陳列棚は確保したい、が、無尽蔵にお金があれば写真でなく本物がいいに決まってるのでこの際「とりあえず」置いてもいいレベルにとどめる事とする。
残るは王道の「詩歌」「小説」「エッセイ」「哲学」「思想」「文明批評」「伝記」などの本である。私は堀田善衛の「定家明月記私抄・正続」が大好きであるが、この本を読んで歴史とは何かを教わったと断言できる素晴らしい本である。世の中に本屋がなくてAmazonばかりで本を買っていたら、この本と出合う事はなかった。こんな些細な事で私の人生が変わるのかと思うと、本屋の存在はなくてはならないものである、あくまで個人的な体験であるが。
(4)本を買うことの文化
本には2種類ある。一つは何度もなんども読み返しては愛唱し、もはや作者の存在すら消えて自分の血肉とまでなってしまう本、いわゆる愛読書である。もう一つは、あくまで他人の作品である事を前提とし、自分と作者との文学的な交流を愉しむものである。これは絵画や装丁や文字そのものも含め、文学サロン華やかなりし頃の貴族文化の1つのであり、いわゆる流行本である。これは読者と作者が作品を共有し、何らかのメッセージを作者が発信し読者に伝わる事が前提である。今で言うならソーシャルネットワーキングであろうか、レベルは相当に違うがカテゴリーとしては似ていると言える。だが私としては、もう歳も取っていることだし、人生の愛読書探しの時間も残り少ないのでソーシャルネットワーキングはお好きな人にお任せし、私はこちらに専念したいと考えている。
愛読書はいつも自分のそばの目に見える範囲に置いて眺めていたい。読まなくてもいい、いてくれさえすればそれでいい、と、まるで恋人気分丸出しである。愛読書は自分の分身なのだ。所有して肌身離さず、が基本だから本屋で買うことになる。図書館では意味がない。勿論、恋人以上だから新品が良いに決まっている。ソーシャルネットワーキングの作品も、やり取りする仲間がある一定の閉ざされたグループなので当然、所有することが前提である。雑誌やそれに類する書物、本屋に置いてある大半の本と呼ばれているものは、いずれ読まれて捨てられる運命にあるが、別に悲しいとも思わない。いまは読み捨ての時代、いや「読んだら削除」の時代とも言える。
(5)ライフスタイルとしての図書館の未来
そろそろ図書館の未来形も見えてきた。私は図書館は2種類に分かれるべきだと思う。というか自然と別れて行くだろうと考えている。
1つは「本」以外の部分を中心に揃えたある意味雑多なものを置き、「本のある環境」を第一にしたハードルの低いTSUTAYA系のような図書館。本=アミューズメントパークである。本を愛する人々が求める厳格な規律に守られた空間は、ここには無い。代わりに、音楽が流れ子供達も気兼ねなく本を読むことが出来て、コーヒーやミルクなども飲むことが出来る安らぎの空間、これこそまさに本と共にある「時間を愉しむ」ことの出来る図書館である。私語禁止などという無粋な貼り紙はここには無く、静かな声で話す会話すらも、人々の癒しになる場所である。こんな図書館なら行ってみたくなるではないか。全国の図書館の7割は、この「オープン読書スペース」に切り替えるべきである。ローマ帝国衰亡史を全巻通しで読もうという人は、県庁所在地かなんかにある専門的図書館に行ってもらえばいいのじゃないのだろうか。本人もその方が満足だろう。
2つはプロ仕様の図書館である。お金を取っても充分なだけの蔵書とエアコンの効いた読書テーブル、休むための喫茶エリアとデジタルコピー設備の完備した、本と真剣に向き合う知的戦場とでも言うべき「ブックマニア・ アリーナ」だ!ついでに、ネーミングも新時代に相応しく私は気に入っている。公共施設として無料にする案もあるだろうが、サービスの質が伴わないと安かろう悪かろうに陥って、折角のネーミングが泣くことになる。お金はないが勉強したいという人には、面接の上「無料パス」を持たせればいいだろう、要は本当に本が好きな人だけにきて欲しいのである。プロ仕様、実に素敵な響きの言葉だと思う。何も本は売れればそれで終わりの編集者風情が、トレンドは俺に任せろ的なふんぞり返った態度丸出しのバカ面を引っさげてプロ仕様を云々されてもこっちは願い下げ、とっととお帰り頂くぐらいの「気っぷ」のいい司書のかたに仕切って貰いたいものである。こんな図書館が出来たら、私は毎日通って暮らすのになぁ~。 つまり、モンテーニュの象牙の塔である。彼にはお金があったらしいが、時代は殺し合いの悲惨な時代だったようだ。残念ながら、天は二物を与えず、楽しいばかりじゃないんだね。
ところで電子書籍が完璧に全てをカバーするようになったら、ポケットのスマホかカバンのタブレット一個でどんな本も読めるようになる日が来る。そうなれば、図書館も本屋も要らなくなってAmazonがこの世の春を謳歌するわけだ。雑誌の類いはそれで充分かも知れない。だが、愛読書のような肌身離さずそばに置いて眺めていたい種類の本は、デジタルには向かないと思う。人間は自然の生き物である。身の回りにもつい最近まで人工的な素材はどこにもなかった。プラスチックという見たこともない代物が生活の中にズカズカと入ってきてから、全てがおかしくなった。プラスチックは腐らないので、劣化しても土に帰らない。つまり自然界の生成消滅サイクルの外にある見知らぬものなのである。ここで見知らぬと言ったのは自然界がという意味であり、勿論人間には分かっている。だが、頭で分かっている事と自然界の中で安定している事とは全然別の事なのである。理屈で説明できないもの、美しいという感情や美味しいと感じる味覚や悲しいと思う心など全て、この自然界のサイクルの中に息づいている。我々の生きている喜びそのものが、自然の中に自分が組み込まれ自然の一部であることの喜びなのである。従って、雑誌的なポイ捨ての情報はデジタルで用が足りるが、喜びを身に染みて実感したい書物はどうしても紙でなくてはならないのだ。紙が、その書物の中身を代弁してくれるのである。
以上、図書館について私の書物愛を併せて語らせていただいた。皆さんもそれぞれ吐露される心情をお持ちの事と思う、が、全ての世の中の事は一律の理論では通らない。図書館と一言で言ってしまうから、あーでも無いこーでも無いと話がまとまらないのである。ここはネーミングをキチンと決めて料金もしっかり取り、はっきり役割を区別して運営するのがいいと思う。
ちなみに、本屋も便利なだけでは時代の流れに水没してしまうのは明らかであり、並べる本も主張がなければお客が集まらないようになっている。
私なぞは雑誌はコンビニで買うことにしてるが、ついこないだとうとうiPadを買ってしまい、いよいよ電子書籍を読む態勢が整った(と、アップルの戦略に見事に取り込まれている!)。ゴミになるようなものは最初からゴミなので、ゴミの部分である紙が無い電子書籍もありだなぁ~なんて感じている今日この頃、本屋も多様化の時代である。
いつものようにセオリーに則り、思考をロジカルに進めて行くことにする。考える順番としては以下の通り、
(1)本屋の種類と役割
(2)図書館の使い道
(3)雑誌と本の違い
(4)本を買うことの文化
(5)ライフスタイルとしての図書館の未来
では、ごゆっくりどうぞ。
(1)本屋の種類と役割
私が本屋に行こうとする理由はいくつかある。1. 目的の本を探しにいく 2. その他の本のチェックと雑誌トレンドの確認 3. 暇つぶし、などがある。もちろん一番多いのが 2. のその他の本のチェックと雑誌トレンドの確認である。本屋は一目で「本の今」が分かる。通販(私はAmazonしか知らないが)の画面では 1. の目的には都合が良いが、ぶらぶらしながら眺めるという無目的だと全く無差別に、大小がリサイズされて入り混じって表示され、商品としての紙質を含めた作品としての価値がイマイチよく分からないし作者のテイストのようなものが感じられないので、私は 1. の目的の本を買おうかどうしようかという時しか利用していない。それも中古本は、残念ながらまだ買ってない。本は私にとって新しい世界との出会いでもある。だから、先に誰かが手を付けた残りというか先に読んだ人の存在が何となく感じられて嫌なのだと思う。だが買ってみれば案外気にならなくて済み、値段も安いし言うことなし、かも知れない。先ずは買ってみることだが、今はお金に困っていないので別に中古品を買う必要もなく新品を買っている。中古品は安いという以外は何の価値も無い。但し、それしか無い時は別である。私は今のところそのような状況に追い込まれていないのでわからないが、探して探してどこにも無い本がAmazonで見つかったりしたら、小躍りしてレジをclick!するだろうなと思うと、ポリシーというほど大してこだわっていないようだ、もちろん、探す段階で中古品かどうかなどは気にはしていない云々、、、何をグダグダ言ってるんだ!とのお叱りが来そうなので先を急ごう。
とにかく私の本屋の基本は帰途の最寄の大きい本屋でぶらぶらし、場合によっては二、三冊買ってホクホクして帰る、である。これは本を読むより数倍楽しい。例えて言うなら馴染みのバーの女より、ふらりと寄ったキャバレーで超モテモテになった心境か。人間なんであれ新しい方が期待に胸も膨れてパンパンになるのは理の当然、手に入れたばかりの「新物」を読み切った時の心躍る何とも言えぬ一段高みに上った自分を想像すると、自然と足取りも軽くなるというものだ。
従って本屋は、本を買うという行為によって作品と作者を自分のものに出来る、と勘違いさせる究極の妄想空間である。私はスタンダールのパルムの僧院を「買って」帰ることができるのだ、あのスタンダールが「私の物」になったと想像するだにワクワクする。洞窟の小枝理論?である。いつ読むかは別にどちらでも良い、所有することが私の悦びなのだ。
(2)図書館の使い道
というわけで本屋の楽しみは分かった。では図書館に行こうとする人は何を求めているのか。本を読みたいから、というのでは余りにも問題意識がなさ過ぎる。考えられるのは 1. お金が無いので仕方なく図書館で借りる 2. お金を掛けるほどでは無いが本を読むという環境が整っている 3. 本屋で売ってない古い本や稀覯本または特殊本を見つける為 4. 研究の為に沢山の本を抜き読みするか参照するので買う必要は無い などである。つまり、所有する悦びは最初っから許されてないので、自然と内容重視にならざるを得ない。
1は、昔でいうと苦学生だが、今は余りピンと来ない。今の貧乏な学生は勉強はしてるだろうが、必要なものは参考書類で書き込みもするから図書館向きでは無いと思うし、いまは減っているのではないかと思われる 2は、純粋に読みたい人で所有することに興味が無い場合または、子供に本を好きになってほしいという教育熱心な親が先ずは環境から本に慣れさせようとする場合で、いずれも図書館の本来の目的に合った人達である。 3 は余程大きな図書館でないと役に立たないし、私はそういう場合は国会図書館を利用しているが、しかし地方の人などは無理であろう。利用出来る環境の人はせいぜい利用すると良いと思うが特殊な用途と言える。むしろ神田辺りの中古本屋街を歩いた方がそれぞれの店で特徴を出しているので探していても楽しいかも知れないが、図書館の用途からは外れるので除外する。何れにしても少数派である。4はもっと少ないかも。大学教授や本を書く職業の人で売れている人は自分で買うから一部の出版関係者やアマチュア文学者などが行くのだろうと思うが、対象範囲が専門的過ぎるのでこれまた小さい図書館では役に立たないし、彼等には時間の制約はないだろうから国会図書館で十分である。そうなってくると国会図書館のキャパシティが心配になるが、もっと専門的なプロ仕様の図書館にしても良いかなと思う。本を読むことを愉しむ人は別の図書館に行ってもらい、国会図書館は研究者や大学教授や出版関係者またはプロの文筆家のみにするのである。やってみれば混乱もなくスムーズになると私は思うが、差別だとか権利の制限だとか騒ぐ「何でも平等」派の人が民主主義を掲げて抗議行動に出るやもしれない中で、また一悶着あるであろう。実態を離れた理論のみの民主主義というものは存在しないのだが、わからない人はいるものである。
結局、現在は図書館を利用している人は多種多様になっており、図書館側がそういう状況について行ってないのが現状である。
(3)雑誌と文学の違い
ここでちょっと横道にそれ、本の種類について考えてみよう。今や雑誌全盛の時代である。つまり、話のネタ本である。媒体を抜きにすればテレビのワイドショーも含め、同じ様な内容で競い合うように発売される。いや話がロジカルでなく申し訳ない、同じ様な内容で何を競い合うのだと言われれば仰る通りで私も困っている。しかし世の中には神田の古書店街のような同業者の集まりがある如く、総需要があり細かいところで差別化がされているなら、より顧客に取っては量的にも質的にも選択肢が増え足を運ぶ気を起こさせるようである。ラーメン通りや焼肉激選区なども、顧客の囲い込み奪い合いの毎日を生き残ってるだけに魅力にも一段と磨きがかかって、エリア全体の底上げに貢献しているのだろうと思われる。雑誌のような、読み捨てで内容だけの所有することを全く要求していないものについては、ネタの新しさが全てで、もともとの価値もそこにある。週刊誌・月刊誌・季刊誌、どれでも基本的には皆同じネタ本である。だからむしろ、本屋で売るものではないと言える。新聞と聞けばネットのニュースアプリを思い浮かべる時代、そもそもデジタルの原稿をアナログの紙に印刷して販売店に配送して手間暇かけて売って、挙句に売れ残って回収して、、、新聞とは何をやっているのか分からない事業である。さっさと廃止してネット配信に切り替えた方が良い。紙の手触りが安心感があるとか、喫茶店で広げて読みながら飲むコーヒーが堪らないとか、毎朝届くので地域のコミュニティ作りに役に立つとか、全て「新聞」本来の目的とは異なるものである。テレビ民放の如く広告媒体として読者には無料で配信する、という時代に早晩なっていくと私は思う。広告もテレビ的になり、15分毎に全画面表示広告が10秒間流れる。広告カットには月額料金を取れば良いが、無料で広告を流されるほうを選んでも顧客はそれ程不快感はないだろう、何しろ今の世は何でも広告とセットなので驚くほど無関心だからである。それでも少なからず刷り込まれているので広告料を払う価値はある。新聞がテレビに敗れたようにテレビが今やソーシャルメディアに敗れる時代、少しづつニュースの概念も変わりつつある。因みに私は1度も新聞を取った事がないというのが自慢である。
話を戻すが、雑誌は本ではない。では実用書はどうだろう。「手芸の楽しみ8月号」とか「ヨーロッパの歩き方・ローマの泉編」とか「脳梗塞の予防」とか、いわゆるhow-to本が山のように並んでいて結構な売れ行きである。私はこれも雑誌に入れている。言葉を使っているが目的は大概言葉でない方が分かりやすい。例えば「100が切れないゴルファーのしている残念な事」を例にとれば分かると思うが、余程ビデオの方が頭に入ること請け合いである。だが如何せん値段がバカ高いので手が出ない。ラウンドにかけるお金からしたらどうって事ない値段だと思うのだが、私の知人にも頑として他人の意見を聞こうとしない猛者がいる。だが彼は80台で回ってくる(こともある)のであながち間違っているとは言えない、が、無料でプロの技を盗むのは大得意である。だから実用書の類は全部ビデオ化してしまうのが正しい、これ私の提案です。
さて、実用書・辞書・語学本・宗教関係・学習書・参考書・コンピュータ・iPhoneハウツーなどなど、全て雑誌その他というカテゴリーに入れて問題ないかと考えます。誰もこのような本を「味わう」つもりで買う人はいないであろう。尚、コレクター本がどっちつかずで悩むところだが、読み捨てるものとはまるで違うので一応本屋の陳列棚は確保したい、が、無尽蔵にお金があれば写真でなく本物がいいに決まってるのでこの際「とりあえず」置いてもいいレベルにとどめる事とする。
残るは王道の「詩歌」「小説」「エッセイ」「哲学」「思想」「文明批評」「伝記」などの本である。私は堀田善衛の「定家明月記私抄・正続」が大好きであるが、この本を読んで歴史とは何かを教わったと断言できる素晴らしい本である。世の中に本屋がなくてAmazonばかりで本を買っていたら、この本と出合う事はなかった。こんな些細な事で私の人生が変わるのかと思うと、本屋の存在はなくてはならないものである、あくまで個人的な体験であるが。
(4)本を買うことの文化
本には2種類ある。一つは何度もなんども読み返しては愛唱し、もはや作者の存在すら消えて自分の血肉とまでなってしまう本、いわゆる愛読書である。もう一つは、あくまで他人の作品である事を前提とし、自分と作者との文学的な交流を愉しむものである。これは絵画や装丁や文字そのものも含め、文学サロン華やかなりし頃の貴族文化の1つのであり、いわゆる流行本である。これは読者と作者が作品を共有し、何らかのメッセージを作者が発信し読者に伝わる事が前提である。今で言うならソーシャルネットワーキングであろうか、レベルは相当に違うがカテゴリーとしては似ていると言える。だが私としては、もう歳も取っていることだし、人生の愛読書探しの時間も残り少ないのでソーシャルネットワーキングはお好きな人にお任せし、私はこちらに専念したいと考えている。
愛読書はいつも自分のそばの目に見える範囲に置いて眺めていたい。読まなくてもいい、いてくれさえすればそれでいい、と、まるで恋人気分丸出しである。愛読書は自分の分身なのだ。所有して肌身離さず、が基本だから本屋で買うことになる。図書館では意味がない。勿論、恋人以上だから新品が良いに決まっている。ソーシャルネットワーキングの作品も、やり取りする仲間がある一定の閉ざされたグループなので当然、所有することが前提である。雑誌やそれに類する書物、本屋に置いてある大半の本と呼ばれているものは、いずれ読まれて捨てられる運命にあるが、別に悲しいとも思わない。いまは読み捨ての時代、いや「読んだら削除」の時代とも言える。
(5)ライフスタイルとしての図書館の未来
そろそろ図書館の未来形も見えてきた。私は図書館は2種類に分かれるべきだと思う。というか自然と別れて行くだろうと考えている。
1つは「本」以外の部分を中心に揃えたある意味雑多なものを置き、「本のある環境」を第一にしたハードルの低いTSUTAYA系のような図書館。本=アミューズメントパークである。本を愛する人々が求める厳格な規律に守られた空間は、ここには無い。代わりに、音楽が流れ子供達も気兼ねなく本を読むことが出来て、コーヒーやミルクなども飲むことが出来る安らぎの空間、これこそまさに本と共にある「時間を愉しむ」ことの出来る図書館である。私語禁止などという無粋な貼り紙はここには無く、静かな声で話す会話すらも、人々の癒しになる場所である。こんな図書館なら行ってみたくなるではないか。全国の図書館の7割は、この「オープン読書スペース」に切り替えるべきである。ローマ帝国衰亡史を全巻通しで読もうという人は、県庁所在地かなんかにある専門的図書館に行ってもらえばいいのじゃないのだろうか。本人もその方が満足だろう。
2つはプロ仕様の図書館である。お金を取っても充分なだけの蔵書とエアコンの効いた読書テーブル、休むための喫茶エリアとデジタルコピー設備の完備した、本と真剣に向き合う知的戦場とでも言うべき「ブックマニア・ アリーナ」だ!ついでに、ネーミングも新時代に相応しく私は気に入っている。公共施設として無料にする案もあるだろうが、サービスの質が伴わないと安かろう悪かろうに陥って、折角のネーミングが泣くことになる。お金はないが勉強したいという人には、面接の上「無料パス」を持たせればいいだろう、要は本当に本が好きな人だけにきて欲しいのである。プロ仕様、実に素敵な響きの言葉だと思う。何も本は売れればそれで終わりの編集者風情が、トレンドは俺に任せろ的なふんぞり返った態度丸出しのバカ面を引っさげてプロ仕様を云々されてもこっちは願い下げ、とっととお帰り頂くぐらいの「気っぷ」のいい司書のかたに仕切って貰いたいものである。こんな図書館が出来たら、私は毎日通って暮らすのになぁ~。 つまり、モンテーニュの象牙の塔である。彼にはお金があったらしいが、時代は殺し合いの悲惨な時代だったようだ。残念ながら、天は二物を与えず、楽しいばかりじゃないんだね。
ところで電子書籍が完璧に全てをカバーするようになったら、ポケットのスマホかカバンのタブレット一個でどんな本も読めるようになる日が来る。そうなれば、図書館も本屋も要らなくなってAmazonがこの世の春を謳歌するわけだ。雑誌の類いはそれで充分かも知れない。だが、愛読書のような肌身離さずそばに置いて眺めていたい種類の本は、デジタルには向かないと思う。人間は自然の生き物である。身の回りにもつい最近まで人工的な素材はどこにもなかった。プラスチックという見たこともない代物が生活の中にズカズカと入ってきてから、全てがおかしくなった。プラスチックは腐らないので、劣化しても土に帰らない。つまり自然界の生成消滅サイクルの外にある見知らぬものなのである。ここで見知らぬと言ったのは自然界がという意味であり、勿論人間には分かっている。だが、頭で分かっている事と自然界の中で安定している事とは全然別の事なのである。理屈で説明できないもの、美しいという感情や美味しいと感じる味覚や悲しいと思う心など全て、この自然界のサイクルの中に息づいている。我々の生きている喜びそのものが、自然の中に自分が組み込まれ自然の一部であることの喜びなのである。従って、雑誌的なポイ捨ての情報はデジタルで用が足りるが、喜びを身に染みて実感したい書物はどうしても紙でなくてはならないのだ。紙が、その書物の中身を代弁してくれるのである。
以上、図書館について私の書物愛を併せて語らせていただいた。皆さんもそれぞれ吐露される心情をお持ちの事と思う、が、全ての世の中の事は一律の理論では通らない。図書館と一言で言ってしまうから、あーでも無いこーでも無いと話がまとまらないのである。ここはネーミングをキチンと決めて料金もしっかり取り、はっきり役割を区別して運営するのがいいと思う。
ちなみに、本屋も便利なだけでは時代の流れに水没してしまうのは明らかであり、並べる本も主張がなければお客が集まらないようになっている。
私なぞは雑誌はコンビニで買うことにしてるが、ついこないだとうとうiPadを買ってしまい、いよいよ電子書籍を読む態勢が整った(と、アップルの戦略に見事に取り込まれている!)。ゴミになるようなものは最初からゴミなので、ゴミの部分である紙が無い電子書籍もありだなぁ~なんて感じている今日この頃、本屋も多様化の時代である。
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