勝ち目と負い目、人は困っている時に助けてもらったりすると「その人に対して」負い目を感じる。勝ち目と言うのは誰か(困ってるとは限らないが)に「良いこと」をしてあげると、自分が少し偉くなったような気がして気分が良くなることを言う(私の勝手な命名である)。共に日常的に行われている事である。頻繁にそれが行われる関係を「友達」と呼んでいるが、これは「全然知らない間柄でも」当然(稀にであるが)起こりうる。普段我々は余り気にしてないのでいちいち覚えてはいないが、これが仏教で言う所の「功徳」というものの正体である。
さて、私が新しく提案する方法は、人から受けた負い目を、それを親切にしてくれた人に恩返しするのではなく、別の困っている人を助ける事で「プラスマイナスする」ことである。これを「好意の連鎖」と定義する。人に親切にされて、それを相手に親切で返すのでは「プラスマイナス=0」である。勿論負い目であるから「チャラ」にするので、「チャラであること」が社会生活上必要不可欠な「潤滑な人間関係」に必須であることは言うまでもない。
だが貸し借りが二人の間だけで完結していては「社会には全く関係ない」個人的な話である。だが人から受けた負い目を「全く別の人に親切にする」ことでチャラにしていけば、社会の中で親切が「ぐるぐる回って」、しまいには全世界にその好意が「波及」していくこと明らかでは無いだろうか。人は負い目を感じると「その人を良い人」と認識する。つまり友達の間で「良い人」が相互に繰り返しするだけでは、いつまでたっても「良い人」が「すごく良い人」にはならない。何故ならば、人間は何にでも「慣れてしまう」生き物であるからだ。それで「親切も繰り返されれば」ただの普通の動作に成り下がってしまう。
ところが「落ちたボールペンを拾ってあげる」という何気ない行為は取るに足らない親切ではあるけれど、まるっきりの他人がそれをすると受けた人は「有難う」とついつい礼をいってしまうのである。不思議だがこれが人間関係である。この好意の連鎖が「親切が親切を呼び起こし」、しまいには「全世界を巻き込んで」平和な世の中を実現するのである。だが、何もしないでこのような好意の連鎖が続くと思っては「甘すぎる」であろう。そこで「法律で後押し」するのである。
つまり「負い目を受けたらマイナス○○点」とし、それを「別の人に親切にして返したらプラス○○点」として、ずっと継続して足し算していくのである。そして例えば、現在私の持ち点はプラス〇〇点である、という具合にカウントしていくのである。持ち点はマイナスのままでは罰則があり、何日間かの慈善活動などを行わなければいけないとするのである。通期でマイナスの人間は「何とか点数をプラスに」するために「親切のチャンス」を探し、すきあらば「プラス点を作ろう」と努力する、という目論見である。プラス点が高い人ほど「社会的評価」が高くなり、周りの皆から「尊敬される」ことにつながれば、この作戦も案外上手く行くと思うのだが如何であろう。
そう言えば、韓国の慰安婦の問題も「当の慰安婦に罪の償い」をするというのであれば、いつまで経っても問題は解決しない。その負い目を「世界の苦しんでいる人々に向けて救いの手を差し伸べる」ことで「チャラ」にすることが出来れば、日本のやったことをチャラには出来ないまでも「トータルで日本の評価はゼロに戻る」のではないだろうか。これを「善意の振替」と呼ぶのである・・・自分で言うのも何だが、けだし名言ではないだろうか。慰安婦問題もこれで解決である。
ということで色々と戯言を並べてみたが、皆さんも「ご自分の持ち点」を計算してみるのも一興では無いだろうか。私なぞは「長年のわがまま」が祟って「この先一生掛かっても、チャラにすることなど不可能」という有様だが、まだこれからという若い人とか小学生などの幼い子供であれば、まだまだ「いくらでも親切ポイントを貯金するチャンス」があるである。まずは今日この場から、「親切ポイント」の貯金を始めたらどうだろうか。好意の連鎖と善意の振替が世界中をぐるぐる巡って、テロだの殺人だのという暗い話がこの地球上からなくなる日がやってくる「第一歩」になれば、この提案をした私も「鼻が高い」というものである。
まあそんなことは「すぐには」できそうもないが、この運動の記念すべき第一歩が「私だ」とすれば、いつの日にか「創始者の名誉」が私に与えられるんじゃないだろうか。それを夢見て、明日から「第一歩を踏み出して」みようかな、と考えている。
さて、私が新しく提案する方法は、人から受けた負い目を、それを親切にしてくれた人に恩返しするのではなく、別の困っている人を助ける事で「プラスマイナスする」ことである。これを「好意の連鎖」と定義する。人に親切にされて、それを相手に親切で返すのでは「プラスマイナス=0」である。勿論負い目であるから「チャラ」にするので、「チャラであること」が社会生活上必要不可欠な「潤滑な人間関係」に必須であることは言うまでもない。
だが貸し借りが二人の間だけで完結していては「社会には全く関係ない」個人的な話である。だが人から受けた負い目を「全く別の人に親切にする」ことでチャラにしていけば、社会の中で親切が「ぐるぐる回って」、しまいには全世界にその好意が「波及」していくこと明らかでは無いだろうか。人は負い目を感じると「その人を良い人」と認識する。つまり友達の間で「良い人」が相互に繰り返しするだけでは、いつまでたっても「良い人」が「すごく良い人」にはならない。何故ならば、人間は何にでも「慣れてしまう」生き物であるからだ。それで「親切も繰り返されれば」ただの普通の動作に成り下がってしまう。
ところが「落ちたボールペンを拾ってあげる」という何気ない行為は取るに足らない親切ではあるけれど、まるっきりの他人がそれをすると受けた人は「有難う」とついつい礼をいってしまうのである。不思議だがこれが人間関係である。この好意の連鎖が「親切が親切を呼び起こし」、しまいには「全世界を巻き込んで」平和な世の中を実現するのである。だが、何もしないでこのような好意の連鎖が続くと思っては「甘すぎる」であろう。そこで「法律で後押し」するのである。
つまり「負い目を受けたらマイナス○○点」とし、それを「別の人に親切にして返したらプラス○○点」として、ずっと継続して足し算していくのである。そして例えば、現在私の持ち点はプラス〇〇点である、という具合にカウントしていくのである。持ち点はマイナスのままでは罰則があり、何日間かの慈善活動などを行わなければいけないとするのである。通期でマイナスの人間は「何とか点数をプラスに」するために「親切のチャンス」を探し、すきあらば「プラス点を作ろう」と努力する、という目論見である。プラス点が高い人ほど「社会的評価」が高くなり、周りの皆から「尊敬される」ことにつながれば、この作戦も案外上手く行くと思うのだが如何であろう。
そう言えば、韓国の慰安婦の問題も「当の慰安婦に罪の償い」をするというのであれば、いつまで経っても問題は解決しない。その負い目を「世界の苦しんでいる人々に向けて救いの手を差し伸べる」ことで「チャラ」にすることが出来れば、日本のやったことをチャラには出来ないまでも「トータルで日本の評価はゼロに戻る」のではないだろうか。これを「善意の振替」と呼ぶのである・・・自分で言うのも何だが、けだし名言ではないだろうか。慰安婦問題もこれで解決である。
ということで色々と戯言を並べてみたが、皆さんも「ご自分の持ち点」を計算してみるのも一興では無いだろうか。私なぞは「長年のわがまま」が祟って「この先一生掛かっても、チャラにすることなど不可能」という有様だが、まだこれからという若い人とか小学生などの幼い子供であれば、まだまだ「いくらでも親切ポイントを貯金するチャンス」があるである。まずは今日この場から、「親切ポイント」の貯金を始めたらどうだろうか。好意の連鎖と善意の振替が世界中をぐるぐる巡って、テロだの殺人だのという暗い話がこの地球上からなくなる日がやってくる「第一歩」になれば、この提案をした私も「鼻が高い」というものである。
まあそんなことは「すぐには」できそうもないが、この運動の記念すべき第一歩が「私だ」とすれば、いつの日にか「創始者の名誉」が私に与えられるんじゃないだろうか。それを夢見て、明日から「第一歩を踏み出して」みようかな、と考えている。
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