明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

森友問題に思う

2018-03-09 20:00:00 | ニュース
森友問題で文書の改竄が争点になって自民党内部でも批判が出ている。だが今回の騒動で私が注目したのは、二階幹事長の「常識」である。ニュースで捉える彼の姿は「お世辞にもかくしゃくたる」歩き方とは言えなかったが、記者を前に堂々と正論を述べる態度は「あるべき政治家の姿」そのものであった。彼は正しいことを平易な言葉で語る「庶民の政治家」である。そう言えば角栄もそのような「立派な」政治家だった。今の世の中、安倍1強といわれて政治家全員が信念の無い「足軽」になってしまった。昭和は遠くなりにけり、である。

さて本題に戻ろう。この森友国有地払い下げ問題に始まる一連の政局は、結局安倍自民党が罪を認めないで何とか有耶無耶にして乗り切ろうとしている「から」、国会が空転し国政も停滞してしまうのである。間違ったことは素直に認め、誤りを正してこそ「国民のための議論が出来る」というものではないだろうか。昔はこうじゃなかったように思うのだが、昔を懐かしむばかりでは話が湿っぽくなってしまう。二階幹事長・岸田政調会長も含め、自民党内部からも疑問の声が噴出してきている現状は由々しき事態である。政治家は夢を持たなければならないというが、安倍首相はどんな夢を描いて政治を行っているのだろうか。

麻生財務大臣の「あの民衆を上から見下ろすような」態度は、決して人々の幸せを願う政治家のものではなく、一部の富裕層の利権に民衆を奉仕させるための搾取を正当化する人の「実に嫌味な悪人顔」であり、フランス革命当時の断頭台に送られる貴族階級の「民衆をあざける」顔を思わせる。日本でも、江戸時代の「豪商と手を握った悪代官」というステレオタイプがあって皆さんも良く時代劇で見ていることと思うが、彼の口が曲っているのは「脳梗塞の後遺症」だと誰かが言っていた、しかし「どうもそれだけではない」みたいに思えてくるから不思議だ。

そもそも今回の騒動は、朝日新聞が「書き換え」記事を出して野党が騒いだのが発端であるらしい。それに対して麻生財務省や近畿財務局の怪しげな対応が疑問を呼び「問題を大きく」しているように思える。書き換え文書があったというのなら「2つの文書を並べて見せる」だけで済むのだが、朝日は問題を煽るだけで「証拠を開示しない」。それなら毅然とした態度で接すれば(つまり決済文書は最初から最後まで、これ1つですと言えば)即座に解決に向かうのであるが「それに口を濁す官僚」の煮えきらない態度を「えんえんと見せられ」るのだから国民は、「なんかヤマシイことがあるんじゃないの?」と騒ぐのである。なんで財務省はすんなり答えないのか?

それは「自分たちも」把握していない何かが後から出てきて、ニッチもサッチも「進退極まる」事態を恐れているからに他ならない。朝日は朝日で「言質を取ってから」証拠書類を後出しして追い込もうとしているから、財務省の出方をじっと待っているのだ、ハブとマングースの戦いである。しかし恐ろしく低レベルで、素人の喧嘩ではないのである。たとえ相手が朝日新聞という大マスコミであろうとも、自分たちの清廉潔白をサッサと国会の場で示し、全国民に向けて「はっきり白黒答弁すれば良い」のではないか。証明は必要ない、まず己の態度を毅然と示すことが大事なのである。

それに引き換え、国会という場で国政の一端を担う役人が「1メディアと同じ土俵で駆け引きしている」あり様は、もう怒りを通り越して呆れ果てるしか無い。ことここに至っては「こいつら全員ひっくくって、石でも抱かせるなり逆さに吊るして水責めするなり」して締めあげ、洗いざらい全部吐かせるぐらいのことをして答えを出すしか方法は無いであろう。国民が注視する国会で「ふざけた答弁」を繰り返す非国民の官僚連中は、「お上」が天に成り代わって天誅を加えるべきである。ところが、その「お上」が選挙で圧勝した安倍政権というのだから、この世の正義もへったくれも何もあったものではない。

第一に決裁文書というからには「色々と思考した上で条件が満たされたから決裁する」のである。決済するためには「決裁条件」があるのだ(これ常識)。で、問題の森友案件は「不当に安く値引きされ」ているのだから、それ相当の特別な理由があるべきである。それがゴミだとするなら「地中のゴミが影響しない売却先、例えば自動車教習所とか公園とか」に売れば済むことなのにそういう努力もせずに、「森友と安い値段で売買契約」をしたのは「どう見ても変で」ある。実際隣の同様の国有地は「高い値段で」販売されている(それが公園用地だったので、そっちからも不公平だと文句が出ている)。

これは常識的に見て「決裁されるべきでは無い」案件なのだが何故か「特殊な理由」によって、急転直下に認可・決裁されたのである。つまり森友に売ったのが「妥当であるかどうか」という決裁の条件を「あらためて正しく判断」しなくてはならないのである。では考える方法として箇条書きしてみよう。

1 「特殊な事情に鑑みる必要もなく」決裁できる案件だ、というなら、この売買契約に対して「いいかげんな」決裁条件を設定している財務省理財局は、即刻解体すべきである。こんな理財局では国民の財産を活用する能力は「全く無い」からである。勿論、担当した人間及び局長以下責任者は徹底的に思想を「教育的指導」して、北海道の荒れ地にでも送り込む必要がある(何ならロシアのシベリアでもいいけど)。

2 「もし決裁条件に該当しない」のであれば、これらの決裁を行った役人は「全員クビ」である(というか、これもシベリア行きだろう)。意図的であれば「内規無視」だから権限逸脱の解雇・犯罪訴追であり、無意識であれば「内規無知」であるから精神病院で検査するかして余生を鉄格子のなかで送ってもらってもいい。結局はどうしようもない役立たずのボンクラ役人ということだ。

3 もし決裁条件に該当しないけれど「特殊な事情で決済した」というなら、これは安倍首相の権力乱用問題になる。これを決済した官僚はクビになるだろう。しかし「自分の信念」と考えを同じくする教育者がいて、その人が「学校を建てたい」といえば「関係官庁に口利き」するのは当然ではないか。勿論お金のやり取りがあれば別だが、100万やそこらで危ない橋をわたることもないのであるから、そんなこともしないであろう。要は純粋に便宜を図っただけであり、何ら安倍首相が恥じるべき問題でもない。とどのつまりは「安倍首相って、完全右翼じゃん」となるだけの話で、いずれは選挙に大敗するのがオチである(それが勝っちゃったりするから、ややこしくなるのだが)。

要は「決裁条件を捻じ曲げた官僚にあるまじき行動」がダメなのである。こんな官僚は追放すべきであるし、省庁としても「そんな人間が栄進出世する」ようでは(これが悪名高い佐川国税庁長官人事である)、政治が腐敗していると言われるのも「当然」である。その腐敗を正す筈の選挙で「悪が勝ってしまう」ところに、今の安倍政権の「異常さ」がある。安倍政権は「経済で持っている」というのだが、アベノミクスがまるで役に立たないことは「2%インフレ」が「いつまでたっても達成出来ない」どころか一層デフレが進んで「民衆を虐げている」構造を見ればハッキリしているのじゃないか?。我々の生活は「スマホやゲーム」の魅力で一見「楽しいバラ色の」ように見えるが実は、「生活の質」は数年前から比べて「ガタ落ち」なのである。

昔は車を持ち、旅行に行き、美味しいものを食べ、映画を見てコンサートに酔いしれる「優雅な生活」を「安い給料ながら」満喫していた。ところが今はどうだろう、何をやるんでも「安い」ことから入っている自分が情けない。世の中見回しても「優雅なのは一部の富裕層だけ」で、我々の周りには「吉野家牛丼がごちそう」世代のくたびれた老人ばかりである。皆が輝いていた「昭和」はどこに行ったのであろうか?いま私は、喫茶店(ベッカーズ)にいる。ベッカーズは私のお気に入りである。昔の喫茶店は豪華な椅子にふんぞり返っていると(私はルノアールが好きだったな)、ウェイトレスがフルサービスでおしぼりやら何やらを持ってきてくれたもんだった。いまは240円払って自分でコーヒーを運んで、味気ないインテリアの窓際で外を見ながらブログを書いている。これはこれで不満もないのであるが、何か「生活に美しさ」が欠けているような気がしてならない。

そう言えばハリウッドの映画で「イースターパレード」というのがあって、フレッド・アステアとジュディ・ガーランドが歌って踊る「楽しさ満点」のミュージカルである。その登場人物が「みんな美しく着飾って、立ち居振る舞いにも気を配って」生活しているのが新鮮だ。みんな上流階級なのである。そして観客は「ああいう風になりたい」と思って、シネマスコープのスクリーンに憧れの目を向けたものだった。

だが今ではそんな優雅な暮らし方には「誰も振り向こうとしなく」なってしまった。お金の問題じゃない、昔の上流階級は「心に誇りと規律」を持っていたのである。それが長いこと荒みきった資本家優遇の格差社会のお陰で「全く顧みられなくなった」だけなのである。人々はみな「金を得る事に夢中な金権亡者」に成り下がって、収入の少ない人々を「負け犬として見下して」いるのだ。その典型が「今回の森友事件の財務省役人であり、安倍1強政権と麻生副総理」の哀れな末路である。確かに彼等は「お金も地位」も手にして、豪華な家に住み、美味いものを食って優雅に暮らしているかも知れないが、人間というのは「そういうもんじゃない」のではないだろうか。仮に佐川長官に息子がいたら、大人になって「己の父親の国会答弁」を恥を感じずに直視できるものだろうか?と問いたい。

アッサリと「良いんじゃない?」なんて言われたりして・・・?

ローマは一朝一夕にして成らず、と言ったかどうか、改革というものは遅々として進まないものである。事件の成り行きも「人の噂も75日、次第に立ち消え」になるのだろう。民主主義であるから「選挙」がすべてである。若者は「壊す」ことを恐れてはいけない。明治維新も「訳も分からず無茶苦茶に壊すこと」から始まった。間違いもある、しかし時代はそろそろ新しい局面に入る時期である。私はもう余生を「奈良の古代史」研究に費やしたいから、ドンチャン騒ぎは御免であるが、若者は「これから」だから、盛大に「ひっくり返す」ぐらいのことをやってもいいのじゃないだろうか、と思うのだ。

それにしても二階幹事長、私は好きだなあ

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